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if.エメの場合

ブクマありがとうございます!

「エメ、付き合ってくれてありがとう」

「……高く、つくぞ」


 エメはそう言って座席から立ち上がると、脱いでいた白いローブを纏い、いつもの通り目元までフードを下ろした。

 ゆりはそれを、綺麗なのにもったいないなあと思いながら見ていた。


 モルリッツの歌劇場は元は貴族の社交場だ。現代ではチケットさえあれば誰でも観劇できるが、ドレスコードなどのいくつかのルールは未だ存在する。

 観劇中は帽子を取るのがマナーだ。もちろん、フードも。

 浮世離れしているように見えて、エメは意外と常識人だ。少なくとも、傍若無人な何処かの勇者よりはずっと。

 歌劇場の前までやって来た時、彼は嫌々ながらもローブを脱いだ。見事な金髪が露になりその美しく白い肌が曝されると、近くにいた婦人達はほう、と溜め息と共に頬を染めていた。



 歌劇場の外に出れば、辺りはすっかり夜だ。観客の熱気と物語の余韻に火照る頬に、夜風がひんやりと心地好い。


「エメの事情とかあまり考えないまま誘っちゃって、ごめんね?」

「オレが、最初?」

「ん?」

「誘ったの、オレが、一番目?」

「そうだよ」

「なら、いい。――――で。なんでも言うこと、聞く……だったよ、な?」

「う、うん」


 普段はあまり視線を合わせないエメの紫の瞳がこちらを見たので、ゆりは冷や汗をかきながらカクカクと頷いた。



 ゆりがエメを観劇に誘った時、初めは顔をしかめられた。いつも護衛代わりになってくれるエメに御礼のつもりで声をかけたのだが、生憎彼は歌劇に興味がなさそうだった。

 その時、ゆりは咄嗟に言ってしまったのだ。「一緒に来てくれたら、私も何でも言うこと聞くから」と。

 それを聞いたエメが不敵に笑い、「じゃあ行く」とあっさり承諾したのを見て、ゆりは無謀な約束をしてしまったことに漸く気付いた。

 はっきり言って、エメが何を要求してくるのか全く予想できない。ゆりはただエメがそれを忘れてくれることを願い、その話題には触れずにここまで来たのだが――。それは無意味だったようだ。



 エメはいつものようにゆりの右手を拾い上げて繋ぐと、夜の道を歩き出した。

 彼はいつもこうやって、ゆりの手を取り導いてくれる。何も言わずに歩調だって合わせてくれる。そのひんやりした手はいつも、ゆりに温かい安心感をもたらした。


「エメは、今日のお話楽しかった?」


 歩きながらふと、ゆりが問うと、エメは小さく頷いた。


「……楽しかった」


 エメの思わぬ反応に、ゆりはぱあっと笑顔になった。


「わ~、ほんと?! 良かったぁ。私ばっかり感動しちゃったんじゃないかと思って……」

「泣いたり、赤くなったり、忙しなかった、な」

「うんうん。私も何度も泣いちゃって……うん?」

「楽しかった。()()()


「見てたの!?!?」


 エメの言葉の意味を理解して、ゆりは耳まで真っ赤になった。思わず繋いでいた手を振りほどいて後退ると、エメはそれを追い込むようにゆりの前に進み出る。ゆりはそれを見てまた、じり、と一歩後退した。


「げ、劇を見てたんじゃないの??」

「……鼻水も、流してた」

「流してない! ……た、多分」


 ゆりが後退ると、それに合わせてエメも一歩、また一歩と近付いてくる。


「化粧が、落ちてる」

「それは不可抗力!」

「どこが目、なのかわからないくらい……ドロドロになってる、ぞ」

「……えっ、ほんと??」


 いつの間にか道の端まで追い詰められこれ以上は下がれないというところで、化粧崩れを指摘されたゆりは思わず立ち止まった。

 慌てて両手で自分の顔に触れて確かめようとすると、エメがゆりの右手を掴み、その身体ごと後ろの街路樹に勢い良く押し付けた。そうしてゆりを見下ろすと、意地悪くフン、と鼻を鳴らした。



「……嘘。」



 そもそもゆりは普段から、ドロドロになるほど化粧をしていない。騙されたのだと気付いたゆりは思わず空いている左手でエメの胸を叩いた。


「もうっ! そういうデリカシーない嘘はだめでしょ!」

「ねえ」

「ん?」


「キス、して」



 エメはゆりを道の端の街路樹に押し付けたまま、ぼそりと溢した。


「……へっ??」

「キス」

「な、な、何でそんな」

「何でも言うこと聞く、でしょ」

「……!」


 想像だにしなかったエメの要求に、ゆりは左の拳を握ったまま口をぱくぱくさせて固まってしまった。

 エメは押さえ付けたゆりの右手に力を加えるとそのまま顔を近付けてくる。


「早く」

「え、でも、」

「人が、来る、ぞ」


 暗闇の中、エメの紫の瞳がぎらぎらと光り、ゆりを捕らえて放さない。どうやら冗談で言っているわけではないらしいと理解して、ゆりは固唾を飲んだ。


「本当に……?」

「いい大人が、何を、焦ってる」

「…………! わ、わかった。頬で、いい? 一度だけだよ? 失敗したからもう一回とか、絶対ナシだよ?」


 エメがムッとした表情を見せたので、ゆりは慌てて捲し立てた。


「ほ、ほら! 早く! 横向いて! 誰か通ったら絶対しないよ!!」


 エメは舌打ちしながら視線を外すと、ふい、と横を向いた。


「じゃ、じゃあ今からその、します」

「……情緒が、ない」

「う、うるさ、静かにして!」


 ゆりは覚悟を決めて目をぎゅっと瞑ると、何も見ないままエメの頬へ唇を押し当てようとして……本当に何も見なかったので、見事にずれて彼の耳の辺りに鼻と口をがつんと押し付けた。


「~~~ッッ」


 思わず赤くなった鼻を抑えて涙ぐむと、エメが呆れた顔でこちらを見下ろしていた。


「…………。バカ?」

「ひ、ひどい……。約束は守ったんだから、いいよね?」


 エメは嘆息すると、右腕を押さえつけたまま素早くゆりの耳元に口を寄せ、吐息混じりに囁いた。


「……全然ダメ。ヘタクソ」


 エメの熱い息が耳にかかる。ゆりが思わずびくっと身体を反らせると、エメはフードの奥で静かに笑い、そのままゆりの耳にキスをした。




 結局、エメにやり直しを要求されることもなく、二人は何もなかったかのように元来た道を歩き出した。

 エメが先程の強引な掴み方とは違い、いつものようにそっと手を繋いできたのでゆりは安堵した。

 最近時折意地悪な言動をするエメだが、それはきっと、自分に心開いてくれている証拠だとゆりは思う。だってエメの本質は、この手のようにいつも優しいのだから。



「ねえ……女神サーイーは、どうして勇者オスティウスを好きになったのかな」



 神殿の灯りが遠くに見えてきた頃、ゆりはぽつりと呟いた。

 ゆりは時折唐突に思ったことを口にすることがあるが、それに慣れているエメは特に面白くもなさそうに答えた。


「運命、運命、って……何度も台詞に、出てきた」

「運命かあ……」


 意外とまともな答えが返ってきたので、思ったよりちゃんと観ていたんだな、と思いながら。ゆりはう~んと頭を捻る。


「だってさ、天にいた時からずっと、サーイーの隣には天使ハドルがいたでしょ? なんでハドルを好きにならなかったのかな?」



『異界伝説』の中の重要キャラクターに、天使のハドルがいる。彼は物語の始めからずっとサーイーに付き従い、最後に彼女を庇って非業の死を遂げてしまうのだ。

 ゆりはこの誠実なハドルというキャラクターがお気に入りだったので、幾分納得のいかなさを抱えていた。そしてこれは、古今東西のブリアーの乙女の間で何度も論争の種になっている。



「知らない。ただ、本当に女神が大事、なら、天から地上に、行かせなければ良かった」

「そっかあ。エメがハドルだったらどうするの?」

「オレなら……?」


 そう問われて、エメはしばし思考するように遠くを見遣った。



「――閉じ込めて、どこにも、行かせない。鎖で繋いで、自由を奪う」



 それはエメの率直な感想だった。

 エメの物騒な台詞にゆりは目をぱちくりさせ……次にそれを冗談だと思って笑った。


「ええ……。女神を監禁するの? すごい天使だね。でもそれだと、『異界伝説』が始まらないよ!」

「そう、だな」


 エメは笑うゆりを見て、無言で紫の瞳を細めた。



 ――そうだ。オレはこの鎖を、決して手離しはしない。



 エメが繋いだ手に少し力を込めて引くと、ゆりがそれに引っ張られ、よろめいた。

 もう!とゆりが口を尖らせるのを見て、エメは満足げに微笑んだ。

 空では三日月が、その口の端を持ち上げてニイと笑っていた。

耳へのキスは「誘惑」。


ブリアーの乙女にはオスティウス推しとハドル推しの派閥があるようです

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