第五十五話 オレは、ゆりが
本日二話投稿します。二話目は23時頃更新予定です。
また、明日で第二章が完結となります。ブクマ、評価を下さった方ありがとうございます。
三章以降の更新予定については明日活動報告にてご案内します。
「んっ……」
水の中から掬い上げられたように、ゆりの意識は浮上し、覚醒した。
見渡すとそこは神殿の自室……ではなかった。間取りは同じだが、別の部屋のようだ。思うように身体が動かず顔を動かすと、ベッドの横にエメが座っている。
その顔を見た瞬間、ゆりは全てを思い出した。
「エメ! だいじょ……痛っ!」
ナオトに吹き飛ばされて壁に打ち付けられたはずのエメを気遣おうとしたゆりは、身を起こしかけて激痛に襲われた。
「動くな」
エメが椅子に座ったまま、ゆりの右肩をベッドに押し付けた。
「エメは、もう身体は大丈夫なの? ――ナオトは? ナオトはどうなったの?」
エメはわかりやすく顔を歪めた。
「他人の心配は、いい。アンタは……自分がしたことを、覚えて、いるのか」
「うん。無我夢中で、なんでそうしようと思ったのかまでは覚えてないけど……。あ、そうか。だから痛いんだね」
ゆりが自分で自分の左手を切ったことを思い出して困った顔で笑うと、エメは立ち上がり、ゆりを見下ろした。フードから覗くその瞳には、憤怒の色が含まれている。
「……いいか、二度と、絶対に。同じ事をするな。今日あったことを、誰にも、言うな」
「うん。でも……」
もしまた同じ状況になったら、自分はきっと同じことをするだろうとゆりは思った。
「思い上がるな……」
エメは静かに、だが怒りの籠った声でゆりを威圧した。
「たかが血が、たまたま、少し、効いたくらいで。アンタの力では、誰も、救うことなんて、できやしない。――百人倒れていたら、アンタは、百人に血を与えるのか」
何故そんなひどい言い方をするのか、と思わないでもなかったが、しかしエメの言い分はもっともだった。
もし、自分がナオトにしたこと、それでナオトの傷が治ったことを他の誰かが知って……。血をくれ、と頼まれても、はいどうぞと言う訳にはいかなかった。
「うん……。ごめんね、エメ。もう、しないから」
少なくとも、今のところは――という本音を飲み込んで、ゆりはエメを心配させてしまったこと、自分が小さく嘘をついていることの二つの意味で、謝った。
「ユリ、血を分けたなんて、絶対に――。絶対に、誰にも、言うな」
エメは思い詰めたように強い調子でそう繰り返した。
「言わないよ。……言わないから、だからエメ。私のお願い……聞いてくれる?」
自分がずるいことを言っているのを自覚しつつ、ゆりはエメの顔を覗き込んだ。
ゆりはナオトの部屋の中で、眠るナオトを見つめていた。
「十分だけだ。今のアンタは、血が、足りてない」
エメはそう言うと、刺々しい言葉とは裏腹にゆりを丁寧にベッドの脇の椅子に座らせ、部屋を出て行った。
ゆりは「お願い」と称して、エメにナオトに会わせて欲しいと懇願したのだ。最初は渋ったエメだったが、ゆりが自力で行くと言うと仕方なく手を貸してくれた。
最初はゆりを横抱きにして連れていこうとしたので流石にそれは恥ずかしいと拒否したが、ナオトの部屋への道のりが思いの外遠く感じたのは、怪我と貧血のせいだったのだろう。素直に甘えておけば良かったと思ったが、今更そんなことは言えなかった。
ゆりは冷や汗を拭いながら再び、眠るナオトを見た。
神殿にある、ナオトの部屋。
ナオトはゆりが倒れた後、他の神官達によってここへ運ばれたらしい。
神官長はナオトが不死者に負傷させられた上、不死の王の接吻を受けたと聞いていたので、神殿に残っていた高位の神官を何人も伴ってナオトの部屋を訪れた。しかし、何故かその傷が既に塞がりかけ、呪印も一旦は沈黙したことを目の前にすると――驚きながらもまずは安静を優先させ、部屋を後にしていた。
ゆりはナオトの部屋に初めて入ったが、足を踏み入れたその時、心の中に違和感が降って沸いた。
簡素なゆりの部屋と違い、神殿の一番奥にあるナオトの部屋は、先日ゆりが夜会の支度のために借りた客室と同じくらい広く、整えられた部屋だった。
だが、この部屋には何もない。
ベッドと、机と、椅子と……質の良さそうな備え付けの家具の他には何もない。
がらんとしていて、生活感がまるでないのだ。
それがゆりが感じた違和感の正体だった。
ナオトはこの部屋でどうやって生活をしているのだろう?
そもそもここは本当にナオトの部屋、ナオトの家だと言えるのだろうか。
ナオトは元々あまり神殿に基盤を置かずにフラフラしているらしかったが、ゆりはその意味がわかった気がした。そして、何故だかとてつもなく悲しい気持ちに襲われた。
「でも……。帰って来てくれたよね」
ゆりは自分に言い聞かせるようにそう呟くと、動かせる右手で、眠るナオトの髪を梳いた。
ここが本当にナオトの安寧の地かはわからない。でも少なくとも今回、獣になったナオトはここへ戻ってきた。
“獣には、帰巣本能がありますから……”
ゆりはそう言っていたテオドールの言葉を思い出してほんの少し、強張った口元を弛めた。
ゆりが何度目かナオトの髪に触れたその時、ナオトが少しだけ身動ぎ、髪を梳いていたゆりの右手を掴んだ。
閉じられていた瞼が、僅かに持ち上がる。
「ナオト……?」
ナオトは半分ほど開いた瞳でゆりの姿を見ると、自分の髪を梳いていたゆり右手を自分の頬に寄せ、撫でてとばかりに擦り寄った。
本当に猫みたいだな、とゆりが微笑みながら手の甲でナオトの頬を撫でると、ナオトは嬉しそうに目を細め、しばらくその感覚に身を委ねていた。
「……会いたかったんだ」
ややあってぽつりと、ナオトが呟いた。
「ゆりに会いたくて……がむしゃらに、走ってた」
それは、独白だった。
ゆりはナオトの心の内に初めて触れた気がして、黙ってそれを聞いていた。
「会いたくて……。会いたくて走って、ゆりの顔を見たら。――それまでの痛みも苦しみも……。全部無くなって、ただ、」
目を瞑り、頬を撫でるゆりの右手に口付けた。
「ただ、溢れてきたんだ。オレは……」
ナオトはゆりの手に自分の指を絡めると、黄金色の瞳で、ただ優しく、でもどこか泣きそうな顔でゆりを見つめた。
「オレは、ゆりが好き。ゆりが、すきなんだ……」
大切な宝物を取り出して、そっと捧げるように。
そう告げたナオトは僅かに微笑むと、再び眠りに落ちていった。




