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第四十三話 貴女なしには

 とにかく少しでも早くその部屋から遠ざかりたくて、ゆりの腰を抱いたアラスターの歩は速かった。



 “その身体、強か解いて啼かせたら……極上の味がするであろうのお?”

 “モルリッツの小僧どもは、余程忍耐強いか臆病とみえる”



 あの言葉、間違いなく扉の向こうのアラスターに届くことをわかっていての挑発だった。

 教導の言葉で、これまでゆりから感じていた抗い難い匂いの――色香の正体がわかった。


 そう、それは魔力の香りだったのだ。

 神獣人であるアラスターは魔力を感じ取る力を持つ。ゆりはどうやらとてつもない魔力を身の内に抱えているらしい。アラスターは、その匂いを感じ取っていたのだ。



 でも――そうじゃない。

 俺がゆりに惹かれたのは、魔力があったからじゃない。


 出会いは確かに、魔力が放つ香りがもたらしたものだった。

 だが、俺はゆりを知った。

 優しく、強く、清廉で、でも心の何処かに弱さを抱えた女。



 よこしまな想いを抱くな。

 俺は、本能に支配される獣じゃない。



 神獣人であるアラスターの内に秘められた「原初の獣」は、アラスター自身と、その周囲の魔力が具現化した精神生命体だ。

 それ故、甘美な魔力の香を放つ存在に惹かれてしまう。


 教導の言葉を認めてしまうと、自分は人ではなくなってしまう気がして――アラスターはざわつく胸の内をどうにか収めようとした。



「あ、あのアランさん、ちょっと、早……!」



 その言葉にはっと我に返った時には、早足のアラスターに無理に合わせて小走りになっていたゆりが足をもつれさせた。慌てて反転してそれを抱き止めると、二人は向かい合って見つめ合うような体勢になってしまう。全体重をアラスターに預けてしまったゆりが真っ赤な顔で口をパクパクさせている。


「! ……すまない」

「ごめんなさい! 重いから、お、降ろして下さい!」



 重いなんてことがあるものか。こんなに羽根のように軽いのに。

 俺は獣でいたくないのに――。貴女に触れたい気持ちが止められないんだ。



 声にならない思いが、アラスターの全身でぐるぐると渦巻く。

 ゆりは恥ずかしさにあたふたしていたが、やがてアラスターがいつもと違う様子なのを感じ取ると、気遣うようにその瞳を覗き込んだ。

 しばらくせつなげにゆりを見つめていたアラスターは、やがて自らの心を受け入れるように、ゆりの後頭部に手を添えるとその細い身体をゆっくりと、だが力強く抱きしめた。



「あ、あの、え? アランさん?」

「しばらくこうして居させてくれ」

「えっ、いやでもここ廊下……! 誰か通るかもしれないですよ……?」

「誰に見られたって、構わない」



 いつも紳士然としたアラスターの余裕のない態度に、ゆりは戸惑った。

 アラスターの黒髪がゆりの頬にかかり、息をすれば全てをアラスターに吹き掛けてしまいそうなほど近い。二つの身体は服越しに密着していて、今にも心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。

 アラスターは目を瞑ると、無言でゆりの肩口に顔を押し付けている。



 怒っているのか、それとも泣いているのか。

 アラスターがらしくなく何かに感情を揺らして赦しを乞うようなその様に、ゆりの胸は痛んだ。


 とにかく落ち着いて心の憂いを無くしてほしいと、ゆりは戸惑いがちにその背に腕を回すと、軽くさすった。

 一瞬びくりと震えたアラスターの耳は、いつの間にか力無く垂れ下がっている。ゆりはまるで子どもを寝かしつける時のように、アラスターの呼吸に合わせ背中をトントンと叩き続けた。



 しばらくそうしていると、アランは消え入りそうな程小さな声で呟いた。


「貴女は人を甘やかすのが得意だな……」

「アランさんは、あまり甘えるのが得意じゃなさそうですね」


 アラスターに気持ちを引き摺られて不安を与えてしまわぬように、ゆりは努めて落ち着いた声で返す。

 自分でもらしくないと思っているのだろう。アラスターが、失望した? と囁いた。ゆりがいいえと頭を小さく動かすと、アラスターはその後頭部に添えた手に、益々力を込めた。


「貴女なしには生きられなくなってしまいそうだ」



 ――まさかそんな、大袈裟な。



 ゆりがそう答えようとした時、後方から賑やかな女性の声が聞こえてきた。



「あらあらあら!? まあまあまあまあ! アランったら……! 見せつけてくれるじゃない!」



 ぎくぎくっっっ!!



 突然アラスターの肩が大きく跳ね、強張った。

 ゆりからゆっくり身体を離し、恐る恐る振り返ると――


 向こうから、銀髪の貴婦人が近付いてきた。後方には、その夫らしき壮年の男性の姿も見える。



「お邪魔しちゃって、ごめんなさいね? ああでも私、うれしくって! うちの堅物にようやく春が来たかと思うと……! ね、ね、そちらのお嬢さんがレインの言っていた『眠り姫』? もちろん、紹介してくれるわよね?」


 キラキラとつぶらな瞳を輝かせて二人を見つめる貴婦人には、アラスターと同じ形の狼の耳。袖の長い深緑のドレスは銀髪によく映える。少女のような屈託のない雰囲気の女性だった。


 ゆりが状況を飲み込めずにアラスターを見上げると、アラスターはすっかり肩を落とし、観念したように言った。



「ゆり。俺の…………母だ」

「!?」



 アラスターの母親と言えば、名門アーチボルト家の当主夫人である。

 ゆりは慌てて貴族の礼で膝を折り、頭を垂れた。


「うふふ。はじめまして眠り姫さん。私はこの愚息の母です。エミーレと呼んで頂戴」

「……アーチボルト夫人、お初に御目にかかります。矢仲ゆりと申します」

「あらぁ、水くさい! 私たち、家族になるんですものね?」

「……えっ?」


 ゴホンッ!


 アラスターが大きな大きな咳払いをしてエミーレを牽制した。その様にしばらくきょとんとしていたエミーレは、その意味を把握し徐々に顔を曇らせると……手に持っていた扇を広げ、口許を隠した。


「アラン、あなたまさか……。ちょっと、ちょっとこっちにいらっしゃい!」


 そう言って、アラスターを強引に廊下の端へ引っ張っていく。

 ゆりがぽかんとしていると、遅れてゆりの元にやって来た煤色の髪の壮年の狼獣人が、ゆりの右手を優雅に取った。



「やあ、うちの連れ合いが騒がしくしてしまってすまないね。私はアーチボルトの当主、ヒューゴーだ。仲良くしてもらえるかな? 眠り姫」



 エミーレの夫でアーチボルト家当主、つまりアラスターの父親だ。

 ゆりが再度慌てて礼を取ろうとすると、ヒューゴーは片手で「ああ、気にしないで」とそれを止めた。

 代わりにゆりの右手に挨拶のキスを送ろうと、口許にその手を近付ける。



 バチンッッ!



「っ!」



 突然電気が走ったような痛みがして、ヒューゴーは焦りゆりの手を落としてしまった。


「いたた…………なるほど、「まじない」か。――アランめ、子供じみた真似を」


 手をひらひらと振りながら、ヒューゴーは呟いた。



 “ゆりは今日、他の誰のお姫様にもなっちゃダメ”



 ゆりはナオトの言葉を思い出す。


「まじない」は自分の魔力を相手に印付ける儀式。体内に魔力を持つ者でないとできないので、それを行うことができるものは限られる。

 ゆりの印はナオトが刻んだ「まじない」だったが、ヒューゴーはアラスターの仕業だと思ったようだった。


「す、すみません! 大丈夫ですか? ……少しお手を失礼します!」


 ゆりは慌てて弾かれたヒューゴーの手を取ると、丹念に怪我がないか確認した。

 その甲斐甲斐しい様子に、ヒューゴーはにっこり笑って目を細める。


「噂の眠り姫の介抱を受けられるなんて、光栄だな」




 一方、エミーレに廊下の端まで連れて来られたアラスターは、容赦ない尋問を受けていた。


「ちょっとアラン、どういうことなの? あの可愛らしいお嬢さんが、うちにお嫁に来てくれるのではないの?」

「……ゆりとは、そういう関係ではありません」

「廊下で人目も憚らずにあんなことをしておいて? 街でも既に噂になったことがあると聞きました。責任は取るんでしょ? いやむしろ取りなさい」

「母上」


 アラスターは沈痛の面持ちで母を見た。


「以前からお話ししていますが……俺は誰とも結婚するつもりはありません」

「まあ、アーチボルト家を途絶えさせるつもり?」

「レインとエリノアが結婚したら、いずれ二人から養子をもらえばいい」


 アラスターの部下であり又従兄弟でもあるレインウェルは、アラスターの妹エリノアと婚約している。


 エミーレは口許に当てていた扇を閉じると、ふー、と息をついた。


「私はね、アラン。あなたに幸せになってもらいたい」

「……俺にはその資格がありません」

「そうね。あなたはいつもそう言っていた。……でも、あのお嬢さんはそんなあなたの気持ちを変える程……あなたが心から望む存在なんでしょう?」

 

 そう、以前アラスターはちょっとした義務感と、アクシデントがあったとはいえ――ゆりに求婚したことがあった。



 あの時出来たことが、今なぜできないと言うのか。

 あの時の冗談のような気持ちとは比べ物にならない程、自分の心は育ってしまっている。

 今更なかったことになど、できるはずがない。



 アラスターは目を瞑り、息を吐いた。



「――はい。そうです」



 思いがけないアラスターの肯定の言葉に、エミーレは一瞬驚き……そして次にこれ以上ないくらいの満面の笑みを浮かべた。


「もうっ! ならさっさと話を進めなさいな! もしも家格を気にするのなら、ブロワの家に養子に入ってもらえばいいのだわ」

「いえまだ……ゆりとは友人なので。俺が一方的に懸想しているだけです」

「まあ、狼族ともあろうものがなんてこと!」


 エミーレは再び扇子を開くと、イライラしたようにそれを扇いだ。



「そんな暢気なこと言ってると……。

 ――()()()()()()()()()()()に盗られるわよ」



 扇子の向こうに冷たい輝きを宿して、エミーレはその狼の瞳を細めた。

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