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第三十六話 本当に地上の人だというのなら

 はぁああああ………。


 孤児院の床を箒で掃きながら、ゆりは本日何度目かのため息をついた。


 昨日、礼拝堂でのノリノリソロリサイタルを見知らぬ男性に聴かれてしまい。

 恥ずかしさが突き抜けて、挨拶もろくにせず顔すらきちんと見ないまま逃げてきてしまったのだ。教会の関係者だったかもしれないし、流石にちょっと不味かったかなと反省していた。それに――



 “明日も! ――明日も聴かせて下さい、同じ時間に!”



 投げ掛けられた約束は一方的なものだったが、それには懇願に近い響きが込められていた。

 現在、時刻は正午前。まだ指定の時間まで猶予はあるが、そもそも今日は午後まで孤児院の仕事なので抜けられない。


「ゆりせんせい! あっちのおへやで、こないだのおはなしのつづきをきかせて!」

「……ああ、うん。そうね。行きましょう」


 複数の子供達に手を引かれ、体を押されて。ゆりは慌てて箒を片付けると、ごめんなさい、と心の中で呟きながら部屋を出ていった。




 日は既に大分西へ傾き、空が赤く染まり始めた頃。

 いつも通りに仕事を終え、エメと一緒に神殿まで帰って来たものの。ゆりは心のつかえが取れずモヤモヤを抱えたままだった。



 “明日も! ――明日も聴かせて下さい、同じ時間に!”



 そう懇願した人は、今日本当に礼拝堂(あそこ)に来ていたのかな。

 私が来るのを待っていたかもしれない。

 がっかりして帰ったんだろうか。それとも――



 ゆりの足は自然と礼拝堂へ向いていた。

 既に約束の時間から数刻は過ぎているので流石に誰もいないとは思ったのだが、一応、それを確認して安堵しなければならないという気にさせられたからだ。



 ギィィィイイ――



 ゆりが礼拝堂の正面扉を戸惑いがちに開けると。


 堂内の長椅子の列の一番前に座る、一人の男の後ろ姿を認めた。男は祈るように両手を組んで額にあて、頭垂れていた。



 まさか、本当に来ていたなんて。

 しかも、ずっとここで自分を待っていたのだろうか?



 ゆりが焦って入口で固まっていると、男がその気配に気付きゆっくりと振り返る。



「天使……? 本当に、来てくれた」



 男は信じられない、といった表情で立ち上がると、こちらも同じく信じられないと瞳を大きく見開いているゆりのもとへ歩いてきた。


 所々金の混じった銀髪。すらりと伸びた背は高く、白いシャツの合間から見える腕や胸板は逞しく日に焼けている。ゆりを見つめる優しい目は、海のように深い紺青色だ。


 男はゆりの前までやって来ると、ゆりの両手を引き上げ、自身の両手で包んだ。その美しい容姿に反したごつごつと男らしい手に、ゆりの胸が驚きの鐘を打ちはじめる。


「ああ、本当にいたんだね。信じられない……。ねえ、きみが本当に地上の人だというのなら、名前を教えて」

「ゆ、ゆり……です」


 ゆりが消え入りそうな声で男の質問に答えると、男は本当に嬉しそうににっこりと微笑んだ。


「ゆり……。ゆり。俺はフレデリク。フレッドと呼んで」


 そう言って、両手で包んだゆりの手を自分の口許にぐっと押し付ける。


「フレッドさん……? あの……!」


 ゆりは羞恥心やら、この青年を何時間も待たせてしまったらしいという申し訳なさやら、昨日の非礼に対する後悔やらで上手く言葉を紡ぐことができなかった。

 すっと両手を引こうとしたが、思った以上にがっしりと掴まえられていてびくともしない。しょうがないのでゆりはそのまま、ララミアに習った貴族の礼で膝を軽く曲げ、謝罪の意を示した。



「あの、昨日は申し訳ありませんでした。突然のことで恥ずかしくて、ご挨拶もせずに逃げ出すようなことをしてしまい……」


「天へ帰ってしまったのかと思った」


「え? あ、あの、それに今日もまさか本当にいらしてるとは思わなくて、本当にごめんなさい」


「いや、いいんだ。きみはこうして、ここに来てくれた」


「はあ」



 なんだか歯の浮くような台詞の数々に、ゆりは照れるというより面食らってしまった。


「ねえ、ゆり。きみはこの神殿に住んでいるの?

女神への愛にその身を捧げた人?」

「いえ、色々あって……ここに住まわせてもらってますが、修道女ではありません」

「そうか。……そうだ、良かったら昨日のようにピアノを弾いて聴かせてくれないか?」

「えっ、それは……」


 ゆりは視線を彷徨わせた。


 この男、口調は柔らかいが有無を言わせぬやや強引な雰囲気を持っている。まるで自分の質問やお願いが断られるとは微塵も思っていないような屈託のなさだ。

 もしかして身分の高い人なのかもしれないな、とゆりは思った。


「だめかい?」


 フレデリクは両手で掴んだゆりの手を目元まで引き上げると、軽くウインクしながら片目だけでこちらを見た。



「……わかりました。ピアノだけ、なら」



 まさかもう一度歌ってくれ、と言われたら全力で拒否するところだったが、ただでさえ美形の男性にこんな風にチャーミングに頼まれて断れるはずもない。

 この人は自分の魅力をわかってる。ずるい人だな、とゆりは思った。



 ゆりはのろのろとピアノの前に腰かけると、ふー、と息を吐く。

 そして鍵盤にそっと手を置くと、難易度がそれほど高くなく、指が覚えていてなおかつ聴き映えしそうな――シューマンの小品をいくつか弾くことにした。

 ゆったりとした中に優しい情熱が煌めくその曲達を、最初は戸惑いがちに、だがやがて没頭するように紡いでいく。



 フレデリクは長椅子の一番前に腰掛けると、そんなゆりの一挙手一投足を眺めていた。やがてきらきらしたピアノの音色が礼拝堂を包むと、その旋律に耳を傾けつつ考えを巡らせた。



 このゆりという女性。

 控えめで礼節を弁えているその態度からして、おそらく貴族の娘だろう。神殿へは住み込みで花嫁修業、といったところか。

 間近で見て、触れたその姿は――やはり、天使だった。



 “適当に顔を売って来い。なんなら将来のミストラル王妃を見つけて来い”



 ――父上、俺はもう決めた。


 連合会議が終わったら、俺はこの娘をミストラルへ連れて帰る。




 僅か二度の邂逅にも係わらず。


 女神の与えたもうた運命を信じる敬虔な信徒であり、情熱的な海の男である「海軍王子」フレデリクは、そう決意すると静かに目を閉じてピアノの音色に身を委ねた。

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