第三十五話 天使がいたんだ
フレデリク・エイリーク・ミストラルは、海洋国家ミストラルの第一王子だ。
ミストラルはその規模こそ小なれど、湾岸に面し、豊富な海洋資源の恩恵に預かる他、交易拠点として潤い、ブリアー自由諸国連合一の規模と実力を誇る海軍を有している。
その海軍で、若くして次代の指導者として辣腕を振るうのが提督であるフレデリク王子である。
海の男としてはやや細身だが日に焼けたその肌は美しい褐色で、母譲りの銀髪も日に焼けて所々金糸に輝き、その瞳は空と海をそのまま飲み込んだような澄んだ紺青色だ。
まだ歳は十九ながら、屈強な海の男達を従え時には先頭立って敵艦に飛び込むその様は、人呼んで「海軍王子」として国民からは慕われ、近海の海賊からは恐れられていた。
そのフレデリクは現在、船を降り中央都市の地に立っている。近々行われる自由諸国連合会議――その中央評議会に父王の名代として参加するためだ。
自由気ままに海の上で生活することの多いフレデリクにとって、政治は肩肘の張る面倒事でしかない。だが、それは父たる現ミストラル王も同じことで――
“適当に顔を売って来い。なんなら将来のミストラル王妃を見つけて来い”
そんな投げやりな言葉で送り出されたフレデリクは、自分と同じく典型的な海の男である父王が、単に厄介事を丸投げしたかっただけなのだということを理解していた。
フレデリクがモルリッツを訪れるのはこれが初めてではない。彼は十二から十六の齢まで、貴族の子弟が多く通うことで知られるモルリッツの寄宿学校に遊学していた。謂わばモルリッツは第二の故郷である。
今日は彼にとってモルリッツに到着して三日目。
昨日は寄宿学校時代の友人を訪ね、楽しい時間を過ごした。そして今日は女神教のモルリッツ支部神殿を訪れている。
この神殿もまた、フレデリクにとって思い出深い場所である。
遊学中の寄宿学校の長期休暇の折、帰国を面倒がった彼は度々神殿の世話になっていた。海洋国家ミストラルでは、海の恵みを女神サーイーの恩寵としてその生活の中に信仰が深く根付いており、故に代々王家と教会の関係も緊密であった。
教導と神官長に近況報告を兼ねた挨拶を済ませたフレデリクは、慣れた様子で神殿の中庭を歩いていた。普段は外部の者の立ち入ることができないその場所も、彼にとっては勝手知ったるものである。
束の間散策し、中庭中央の女神像の下で体を休めていると、彼の耳に、風に乗り不思議な音色が流れてきた。
こんな旋律聴いたことがないな、とフレデリクは思った。
現在太陽は正中を少し過ぎた頃。
神官達の礼拝の時間でもなく、そもそも特別な儀式以外で神殿に音楽が流れているのを彼は聞いたことがない。
フレデリクは耳が良い。航海では風の音、波の音が天候を予測する重要な指針となることがあるからだ。彼はその耳を頼りに、ふらりと音色の正体を探して歩き始めた。
しばらくして彼がたどり着いたのは、この神殿に住まう神官達が朝の祈りに使う小さな礼拝堂である。
その中から、聴いたことのない、だが不思議な魅力を持ったピアノの旋律が聴こえてくる。時折その旋律にのって、誰かが控えめながら紡ぐ歌声が混じっていた。
――若い女の声だ。
フレデリクはそう思い至った。
この神殿に彼が滞在していた頃、ここで生活している修道女の数はそれほど多くなく、そもそも若い女となるとほぼ皆無だったはずなのだが。
一体誰が。どんな人物が。
不思議なピアノの旋律に惹かれた彼は、純粋な興味から、そっと礼拝堂の扉を開けた。
主よ 御許に
歓びの歌を捧げん
迷いの中 絶望にあっても
あめつちにも そはありて
主は許し 主は導く
その姿を見、その歌声を聴いた時、彼の時間は止まった。
礼拝堂のピアノに向かい、一心に祈りの歌を捧げている女。
やや後方からしか確認することのできないその顔は、目を閉じ僅かに微笑んでいるようだ。紡ぎ出される音色は澄んでいて、歌声は小さいがしっかりと旋律をとらえて優しく堂内を包む。締め切った窓から差し込む日の光が、女の黒髪をきらきらと輝かせていた。
「天使――?」
フレデリクは思わずそう呟いていた。
主よ 御許に
歓びの歌を捧げん
石寝の上 苦難にあっても
わがうちにも そはありて
主は与え 主は寄り添う
主は許し 主は導く
きみは誰なんだ。
本当に天使なの?
もう少し。もう少しだけその姿をよく見せて。
――ガタッ
知らずのうちに身を乗り出していたフレデリクは、備え付けの長椅子に脚の爪先をぶつけた。
途端、ピタッと音が止み、黒髪の女が振り返る。
真っ赤な顔をして、瞳を潤ませて。そして次の瞬間、女は消え入るようにピアノから飛び退き礼拝堂の奥へ駆け出した。
待って! 行かないでくれ!
咄嗟のことに声が出ない。漸く絞り出した言葉は、自分でも笑ってしまうほど震えていた。
「明日も! ――明日も聴かせて下さい、同じ時間に!」
女の背に投げかけたその言葉に、しかし女は振り返らなかった。
「若、教導にはお会いになれましたか?」
「ああ」
「教導はなんと?」
「ああ」
「……若? 幽霊でも見たんですかい」
「――天使がいたんだ」
「へ?」
「天使が、いたんだ」
フレデリクの目付役の壮年、隻眼のバルトロメウは、心ここにあらずの己が主の様子に、無くした眼を見開くことしか出来なかった。




