第九十七話 彼女の愛すべき美徳
狼将軍は疲れていた。
「女神の涙雨」事件から既に三日目。獣となったナオトとの死闘、翌日の神殿の強制捜査と容疑者への事情聴取。この数日、アラスターは殆ど寝ずに職務をこなしている。
それを傍らで見守るレインウェルは始終はらはらとしていたが、“そろそろ休んでは”といういつもの一言をどうしても掛けられずにいた。
何故なら、今この男に物思いをさせる隙を与えたら壊れてしまうのではないかと思ったから。
彼は愛する女性を永遠に喪ったのだ。凡そ納得し難い理不尽な理由で。行方不明となった湖では今日も団員が捜索を続けている。しかし昨日は丸一日雨で捜索を断念しており、状況は絶望的と言わざるを得なかった。
彼女とは僅かな親交しかなかったレインウェルでさえ、腹の底に怒りが溜まるのを抑えきれないのだ。彼女に心酔していたと言っても過言ではないアラスターの内心は、最早推し量りようがなかった。
そして今日、一段と気の重い仕事が待っている。参考人、テオドール・リンツの事情聴取である。
この少年は、被害者・矢仲ゆりを現場に誘い出しその殺害を幇助したという。黒狼騎士団の詰所へ使いにやって来る彼を何度か目にしたことのあるレインウェルは、あの幼気な兎族の少年がそのような恐ろしく大それたことを為したなど、到底信じられなかった。
「アラン、疲れているなら少し休んでも……」
レインウェルは何度となく飲み込んだその言葉を漸く絞り出す。彼をこの聴取に立ち合わせるのは、些か酷だと思ったのだ。だが、アラスターは首を縦には振らなかった。
まさか子供を殴り付けるようなことはしないと思うが――だが少年の口から語られる言葉が、疲弊しきった狼将軍の心にどんな波紋をもたらすのか、レインウェルにも予想がつかなかった。
「ぼくは、ゆりさんにずっと綺麗でいてほしかった。ゆりさんはナオト様に振り回されて傷つけられて、教会からは魔女などというあらぬ謗りを受けて。彼女を守るには、こうするしかないと思ったんです」
狭く暗い騎士団詰所の聴取室にて。
アラスターと事務机を挟んで向かい合わせに座った兎族の少年テオドールは、動機を問われ曇りのない瞳でそう証言した。レインウェルはそのあまりにも迷いのない様に、底知れぬ不気味さを感じた。
「……守る、か。一体何から」
「ゆりさんを覆うあらゆる悲しみと、彼女を傷付けようとする全てからです」
あくまで冷静に対応するアラスターに、テオドールははっきりとした調子で答える。
――守るために殺した。
その矛盾に賢い少年が何故気付かないのか、とレインウェルはやりきれない思いで後方から二人を見つめる。アラスターも同じ心情だったのだろう。やり場のない怒りを逃すように椅子に背を預けると、目を瞑り嘆息した。
「――テオドール君。我々は、君を裁くことはできない」
アラスターの言葉の通りだった。
モルリッツの法は、成人にしか適用されない。仮に貧しさなどから盗みを犯した子供ならば、養護院で保護される。ゆえに、十五歳のテオドールを罪に問うことはできない。仮に彼が成人であったとしても、ゆりの死に対して直接手を下したわけではない彼をモルリッツの現行法で裁くことは難しかった。
「君のお兄さんとお姉さんから、どうか寛大な処分をと訴える嘆願書が寄せられている。――それに」
アラスターはぎしりと音を立てて椅子から背を離すと、座り直してテオドールを見据えた。
「それにゆりが……。被害者が、君を裁くことを望んでいない」
「……ゆりさんが?」
テオドールがここに来て初めて、僅かに瞳を揺らす。アラスターはそれをちらとだけ一瞥すると、ひとつの紙片を机に置いた。
「これは、ゆりの部屋に遺されていたメモだ」
“◯月×日 夕刻、テオくんと北の湖へ。
彼を罰しないで”
それは、テオドールと部屋を発つ前にゆりがドレスルームのメモ帳に残した走り書き。そこにはまるで、この後起こることを予見するかのような一文が書き込まれていた。
「彼女は気が付いていたんだ。君が、嘘をついて自分を連れ出そうとしていたことに」
「そんな……。なら、どうして」
「君を信用していたし、君になら裏切られても良いと思ったのかもしれないな。……命を盗られるとまで予測していたかはわからないが……」
「…………。ゆりさん……」
これまで真っ直ぐ前を向いていた少年が、ゆりのメモに視線を落とし、俯いた。
「君はゆりの“綺麗”を守るために、こうするしかなかったと言ったな。――綺麗とは何だ? 名誉か? 貞操か? ……彼女は蓮の花だ。例えどんなに汚れた泥水であろうと、彼女はいつだって力強く、美しい花を咲かせていたではないか。君はそれを……誰よりも近くで、見ていたはずなのに」
アラスターはレインウェルに目配せする。するとレインウェルは立ち上がり、机の上に一冊の黒い表紙のノートを差し出した。
「……これは、」
テオドールが驚いたように顔を上げる。それはゆりが神殿から持ち出していた二人の交換日記だった。
ゆりが美しい文字に似合わないたどたどしい文章で綴った日々の生活。神殿の中庭の草花を愛で、小さな発見を尊び、その秘密をテオドールと共有するための、一冊のノート。
「神官長の部屋にあった。ゆりが神殿から荷を引き払った日、彼女は神官長に君宛のこのノートを託した。俺もその場にいたから間違いない。……だが、神官長はこれを君には渡さなかったようだな……。君の決意が、鈍ると思ったのかもしれない」
アラスターの言葉に、テオドールはおずおずとノートを開いた。目に飛び込んでくるのはどれも、何度も何度も大事に読んだはずのやり取り。彼女の綴りの間違いや文章の癖まで逐一暗記してしまう程に。
“親愛なるテオドール様。
今朝起きたら、窓の外に小鳥が留まっていました。
黄緑色の小鳥です。あなたの瞳と同じ色です。
餌を置いておいたら、また来てくれるかな。”
“親愛なるテオドール様。
ナオトが私に、道端の花を摘んできてくれました。これは初めての出来事です。私はその内のひとつを押し花にします。もしもあなたがこの花の名前を知っていたら、教えて下さい。”
「……わかるか?女神の園へ渡った者が、この日記の続きを書くことは永遠にない」
アラスターの問いに、テオドールは答えなかった。
“親愛なるテオドール様。
あなたは知っていますか。中央通りの噴水に、目を瞑ってコインを投げ入れます。一番上の皿に、上手に入ります。すると、願いが叶うそうです。今度一緒に試してみませんか。”
「ゆりは日常を慈しみ、些細なことに輝きを見出だすことの出来る女性だ。そしてそれを他人に分け与えることのできる、稀なひとだ。君は、そんなゆりを“綺麗”だと思ったんだろう……?」
アラスターは語りかけるように言葉を紡いだ。彼にはテオドールの考えや行いは、到底理解も許容もできない。だが、少年がゆりの何に“綺麗”を見出だしていたのかは痛いほどわかった。
同じだったのだ。アラスターが愛したゆりと、テオドールが愛したゆりは。
“親愛なるテオドール様。
私は黄緑色の小鳥を、手の平に乗せることに成功しました。毎朝パンくずをあげています。可愛い小鳥。”
アラスターの前で頁を捲るテオドールの手は、次第に震えていた。そして最後の頁に差し掛かった時、テオドールは目を見開いた。彼の見たことのない、新しい文章がそこに記されていたからだ。
それが、ゆりが神官長に託したはずのテオドールへの最後の日記だった。
“親愛なるテオドール様。
これが最後の日記です。私は神殿を去ります。お別れの挨拶ができません。ごめんなさい。
私はこの世界で何も持たない人でした。あなたが私に、多くのものを与えてくれました。
あなたのおかげで、私は字を書いて、あなたに気持ちを伝えることができます。
私とあなたは、住む場所が離れます。けれど、いつでも会うことができます。
今度一緒に、ララミアさんのおうちへ遊びに行きましょう。
新しい辞書が欲しいので、街で一緒に選んでくれますか。
シロリンゴの花が咲いたら、ピクニックをしましょうね。
生きてさえいれば、どこにいても、いつでも会えるから。
その時をたのしみに。
いつもありがとう。これからもよろしくね。
あなたの二人目の姉、ゆり より”
「ゆりさん……」
――生きてさえいれば、どこにいても、いつでも会えるから。
しかし彼女は、もう何処にもいない。
――これからもよろしくね。
しかし彼女がその愛らしい口を開くことは、二度とない。
「ゆり、さん……」
ついにテオドールは、ぽたぽたと涙を零し始めた。しかしアラスターは、そんな彼を容赦なく切り捨てた。
「テオドール君。君は、ゆりの“綺麗”を、彼女の愛すべき美徳を、この世界から永久に奪った。……我々は、君を裁けない。だが、俺は……。俺は君をこの先、決して許しはしないだろう」
裁きと赦しは表裏一体だ。裁かれない罪こそが、何よりも今後の彼を苦しめるだろうとアラスターは知っていた。何故ならアラスターも、幼き日の罪を誰にも裁かれることのないまま大人になり、今も苦しんでいるから。
だから彼は、テオドールを許さない。断罪こそが、今の彼には必要なはずだから。
「ゆりさん、ぼくは、間違っていたんでしょうか。母さんが死んだ時、大人は皆、ぼくに泣いてはいけないと言いました。女神の園に招かれることは大変な名誉であり、ぼくが悲しんだら、母さんは憂いなく女神の御許で暮らせないからと。……でも、ゆりさんがいなくなって、みんな泣いているんです。ナオト様も、アーチボルト卿も、空も、みんな泣いているんです。……ぼくも、ぼくは、泣かないと決めたはずなのに。――なのに、どうして……。ゆりさん、教えて下さい。どうして、ぼくは……!」
いくら問い掛けても、その問いは虚空に消えるだけ。ただ自分の嗚咽だけが狭い部屋に響いている。テオドールはその時漸く、死の何たるかを知ったのだった。
モルリッツの街より西、巨大な森林を迂回した先にある小さな町。一軒しかない簡素な宿の一室に、ひとりの女が眠っていた。
女の額に、青白い指が触れる。その手が優しく黒髪を梳くと、閉じられた目蓋が僅かに動いた。
「ユリ」
呼び掛ける男の声に、眠る女はほんの少しだけ、微笑んだように見えた。
次回で第三章が終わります。
元々は全三章の構想でしたが、終盤が少し長くなったので分割することにしました。
第四章は全十話程度の予定で、それをもって作品は完結します。エンディングまでもうしばらくお付き合いいただければ幸いです!




