第九十五話 シリル・キュヴィエ
シリル・キュヴィエは、トゥ=タトゥ聖教国の末端貴族の三男として生まれた。
貴族であること以外、特に秀でたところのない平凡な両親の子であるシリルは――生まれ落ちた時から、何故か老人のような白髪だった。
灰がかった白髪の赤ん坊の誕生に、栗色の髪を持つ両親は慌てふためいた。しかし取り上げた医者から「突然変異です、稀にあることですよ」と言われると胸を撫で下ろし、そのまま特に扱いを変えることもなく他の兄妹達と同じように育てた。
しかし、子供達は異質な存在に敏感だった。
シリルは大人しく賢い子供だったが、その一際目立つ白髪ゆえに周囲の子供達から“灰色”とあだ名をつけられからかわれた。兄や妹までもが何かにつけて彼を見下した。
「兄様は本当に、お爺さんのようね! 可哀想!」
そう言って容姿を蔑む二つ年下の妹に、シリルはお前だって平凡な両親に似て、取るに足らない地味な顔じゃないか、と心の中で悪態をつくのが常だった。
そんなシリルは十五になる頃、神官となるべく女神教の神殿に奉公に上げられた。特に深い信心や志があったわけではない。単に貴族の三男である彼は、自分で自分の食い扶持を見つけなければならなかった。自分をからかってくる兄妹達と離れることができる、というのも理由のひとつだった。
そのトゥ=タトゥの神殿で、彼の人生は変わった。
神殿に上った最初の日、彼を含む神官見習いは一同に集められた。そこで彼は、世にも美しいひとに出会った。
透き通る銀の髪、全てを見通す金の瞳。磁器のような白い肌に、複数の優美な尾が生えている。狐の獣人――司祭補・セグヌンティリエだった。
「し、シリル・キュヴィエと申します」
「我はセグヌンティリエ。同じ髪の色を持つ者同士、仲良うしてたも」
衝撃のあまり言葉を失くしたシリルに、セグヌンティリエは気安い様子で接した。
“同じ髪の色”。しかしそう言われて、全く違う、と彼は思った。
自分はただの艶のない灰がかった白髪で、この女性の髪はまるで流れ落ちる滝のような美しい銀糸だ。
「こいつは“灰色”って呼ばれてるんですよ!」
シリルと同じ事を思ったのであろう、横から茶々が入る。シリルが恨みがましい目でその声の主を見ると、去年から神殿に仕えているはずの兄の友人だった。
――この美しいひとに、まだ出会ったばかりだというのに恥ずべきあだ名を知られてしまうなんて。
シリルが羞恥に俯いていると、セグヌンティリエの手が短く苅られた彼の髪に触れた。
「ほぉ。“灰色”。……ほほほ。可愛らしいこと」
この時彼は、人という生き物は本当に恋に“落ちる”のだと知った。
セグヌンティリエはそれからシリルのことを“グリ”と呼ぶようになり、神殿内で見掛けると気さくに声をかけた。あれほど嫌でしょうがなかった蔑称も、彼女が呼べば特別な高揚感を彼に与えた。
セグヌンティリエは虫も殺さぬような清廉な容姿でありながら、その実この神殿でも屈指の実力を持つ僧兵であり、教導の巡礼に同行する他 、トゥ=タトゥ領内に魔物が出れば先頭立って討伐を行うのだという。
シリルは彼女の隣に立ちたいという一心で、日々の務めの他、身体の鍛練にも精を出すようになった。
ある時、教導の地方巡礼にシリルは世話係として同行することになった。もちろんセグヌンティリエも一緒である。
密かに浮かれていたシリルは、この道中で死の恐怖に直面することとなった。次の町への移動中、森を抜ける巡礼団は数十の梟熊の集団に囲まれたのだ。
通常であれば単独を好むその魔物が群れをなす異様な光景に、シリルを始め神官達は皆凍り付き、護身用の鎚鉾を握り締める手は震えた。
梟熊達が獲物を見定め、いよいよシリル達が死を覚悟したその時。
一迅の眩い光が辺りを駆け抜け、魔物達を一掃した。それはまさに一瞬の出来事。
女神の御業の如き光景に、シリルは息を飲んだ。魔物を殲滅した白銀の光がひとところに留まると、シリルは初めてその姿をはっきりと肉眼で捉えた。
――それは、九本の尾をゆらりと優雅にはためかせた、巨大な銀色の狐。
そのあまりの神々しさに、シリルは雷に打たれたように立ち竦んだ。そしてその獣の全てを見通す金の瞳と目が合った時、漸く理解した。この狐は、セグヌンティリエなのだと。
その日の夜、拓けた草原で夜営のための天幕を張っていた彼はセグヌンティリエに声をかけられた。
「グリ、何ぞ怪我はしとらんかの」
「はい。……セグヌンティリエ様が、守って下さいましたから」
その言葉に、セグヌンティリエは金の瞳を揺らめかせた。
「おんしは我が、恐ろしくはないか」
「いいえ!!」
珍しくシリルが強い調子で返したので、セグヌンティリエは面食らう。シリルはばつが悪そうに顔を背けながら、ぼそぼそと続けた。
「い、いいえ、あ、その…………。――うつくしいと、思いました」
伝えなければならないと思った。救ってくれた礼を。だがシリルの口から漏れたのは、子供のように場違いな……しかし正直な感想だった。
耳まで真っ赤にして俯いた彼の白髪に、セグヌンティリエの細い手が乗せられた。
「ほんに……愛らしいこと」
後にシリルは知った。セグヌンティリエは“神獣人”という先祖還りの一種で、原初の獣という神話の代の力と姿をその身に宿した、稀なる存在なのだと。
同じ突然変異なのに、僕とは全然違う、とシリルは思った。シリルはただ、髪の色が人とは違うだけ。だがセグヌンティリエは――美しく、気高く、唯一無二の存在だ。
その事実は、彼にセグヌンティリエに対する“突然変異同士”という親近感と、同時にその全てが特別であり、自分とはまったく違う存在なのだという畏敬の念をもたらした。
その頃のセグヌンティリエは、その歳からもこれまでの功績からも、既にもっと上位の階級にあってもおかしくなかった。だが彼女は長いこと司祭補という立場に留まっており、恐らくそれは――周囲の嫉妬や羨望がそうさせるのだとシリルは思った。
――こんなに美しく、強く、慈悲深い女性なのに、周囲は彼女を評価しない。きっと、彼女が“神獣人”であることを恐れているのだ。彼女が只人にはない力を持ち、この神殿にいる全ての人物を凌駕する実力を持っていることを、妬んでいるのだ。
シリルは自身が力を付けて、必ずセグヌンティリエが正当に評価される、本来あるべき姿に教会を変えねばならないと決意した。
そして。
若いながらも異例のスピードで頭角を現した彼は、二十二の時モルリッツ支部神殿行きを命じられた。モルリッツはトゥ=タトゥに続く第二の規模を誇る支部であり、それは間違いなく神官としての栄転だった。
だが彼の心は浮かなかった。――あのひとと、離れることになってしまうから。
モルリッツに旅立つ別れの日。セグヌンティリエはいつもと変わらぬ動作でシリルの白髪を撫でた。既に出会ってから七年が経過していたが、逞しい青年に姿を変えたシリルに比べ、セグヌンティリエの美貌は少しも衰えず……むしろ益々匂い立つようであった。
「セグヌンティリエ様。僕は――私は必ずモルリッツで身を立て、セグヌンティリエ様のお役に立ちます。セグヌンティリエ様のような神獣人が、偉大な力を持つ方が、敬われ正当に評価される世となるように、私は」
「グリ」
息巻いて捲し立てたシリルのその言葉を、セグヌンティリエは静かに引き取った。
「グリ。シリル・キュヴィエ――――励めよ」
その一言で。
そのたった一言で、彼のその後の人生は決定付けられた。
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「女神の涙雨」事件の翌日早朝、アラスター達黒狼騎士団は当初の予定を一日早め、モルリッツ支部神殿に強制捜査に乗り込んだ。
北の村の村人失踪事件、そして召し人の矢仲ゆり殺害容疑。難航すると思われたその捜査は、呆気ないほどあっさりと終わった。主犯である神官長の部屋に、証拠が丸々遺されていたからである。
まるで宝物をしまい込むように、原初派のメンバーの名前の連なった誓紙、不死の王を召喚するための古代の術式の刻まれた巻物、その他多数の計画書が――ひとつの木箱に、大事に収められていたのである。
その余りにも警戒心のないお粗末な行動に、アラスターもレインウェルも首を捻らざるを得なかった。
捕らえた原初派の神官によれば、神官長は勇者ナオトを真なる獣とすれば、同時にトゥ=タトゥで教導セグヌンティリエが蜂起し、ナオトをその象徴として神獣人の世を創り出すと嘯いていたと言う。
しかし彼に付き従ってその計画に加担した神官達のほとんどは単に権力欲に駆られた者で、皆彼の壮大な計画を話半分にしか聞いてはいなかった。
「アラン、本当にそのようなことがあると思いますか? 神獣人の世を創るなど――」
「知らん。ただ教導セグヌンティリエは既に教会のナンバーツーで、後数年もすれば動かずとも大教導の地位が転がり込んでくる立場だ。今更そんな馬鹿な計画に乗るとは思えない」
モルリッツ支部神殿神官長、シリル・キュヴィエ。享年五十五。
灼熱の閃光に焼かれ影かたちもなくこの世から消えてしまった彼の真意を知る者は、最早誰もいない。




