第九十二話 女神の園
魔法や魔力に関する設定に些か矛盾が生じていたので、第十八話の該当箇所を少し修正しました。気になっている方がいらしたらゴメンナサイ
「――さて。そろそろ……帰るか」
アラスターのその言葉に、ゆりは小さく頷いた。
二人はお互いの気持ちを話し合った後、どちらともなく湖畔に座り、暫く無言でその水面を見ていた。湖はかなりの水深があるらしく、その湖面は底が見通せないほど深い群青色だった。
アラスターは立ち上がると、いつものように優しくゆりに手を差し出す。ゆりがそれを掴んで立ち上がると、二人はその手を繋いだまま無言で大樹に留められた馬の元へ歩き出した。
「――――?」
少し歩いたところでふと、アラスターはその足下に僅かな違和感を覚えて立ち止まった。
「アランさん? どうかしました?」
「……? いや、なんでもない」
アラスターは暫し足下に茂る草を観察した後――何事もなかったかのように再びゆりの手を引いて歩き出す。
彼はこの後長らく、この時の己の行動を悔やむこととなる。
行きよりも長く、たっぷりと時間をかけて二人は街へと戻ってきた。まるでその別れを惜しむように。
「俺は暫く、忙しくなるだろう。全てが終わるまで、貴女はできるだけ家から出ないでいてくれ。フラハティに、様子を見に来るように伝えておくから」
「貴女は評議会の庇護下にある。貴女はひとりじゃない。そのことを、忘れないで」
「――さようなら。ゆり」
愛馬に跨がる帰り道、腕の中のゆりにそんなことを話しながら――。最後に一度だけ、アラスターはゆりの手の甲に口付けを落とし、彼女の元を去った。
ゆりは部屋へ帰ると、玄関の目の前、メインルームにあるシェル型ソファに飛び乗り小さく小さく丸まった。
アラスター、エメ。
二人とも、もう隣にはいてくれない。それは、自分が選んだことだ。自分の心に正直に、たった一人を選んだ。二人を傷付けてしまったけれど、間違ったことをしたとは思っていない。
――だけど、どうして。どうしてこんなに辛いんだろう。
ゆりは思わず涙が零れそうになり……いや、ナオトの呪いを解くまでは泣かないと決めたはずだ、と自分を叱咤した。
物思いと気疲れからいつの間にかソファの上で微睡んでいると――どのくらいの時間が経ったのだろう、窓から射し込む日は大分低くなり、橙色に染まっていた。ゆりが顔をあげると、コンコン、コンコン、と玄関のドアをノックする音が聞こえる。
「ゆりさん! こちらにいらっしゃるんですか? 開けて下さい!」
「テオくん……?」
ゆりの言葉通り、ゆりの家の扉を叩いていたのはテオドールだった。
「テオくん、どうしてここへ?」
「……ゆりさん! お久しぶりです」
ゆりが扉を開けると、テオドールは耳だけを持ち上げたまま息を整えるように数度深呼吸した。
「ゆりさん、今すぐぼくと一緒に来て下さい」
「どうしたの?」
「勇者様が、ナオト様が討伐の帰り道、呪印の力に蝕まれ倒れられたのです」
「ナオトが……?」
「はい。とても苦しんでおられて、ゆりさんに助けを求めていらっしゃいます」
「ナオトが、私に……助けを?」
「はい。北の湖の近くです。今すぐ一緒に来て下さい」
「…………。わかった。行くよ。ちょっと書き置きして行くから、待っててね」
北の湖。数刻前に訪れたばかりの場所である。
ゆりはテオドールを玄関に待たせたまま一旦ドレスルームに消えると、化粧台の上にあったメモ帳に書き付け、ストールを一枚羽織った。
「テオくん。お待たせ。……行こう?」
そう言ってテオドールの手を繋いだその瞳に、ある種の覚悟が宿っていたことに――テオドールはこの時、気付いていただろうか。
ゆりとテオドールは駆け足で、街を抜け城壁の外へ出た。ちょうど遠くで一日の終わりを告げる時計塔の鐘の音が聞こえる。
昼頃アラスターの馬で駆けた道を辿るように、二人は殆ど言葉を交わすことなく無言で湖へと急いだ。
いつの間にか日は落ち、辺りは真っ暗だ。ゆりが不安になりながら行く先を見つめていると、湖畔に松明らしき灯りが揺らめいているのが見えてきた。
「テオくん、あそこ……?」
ゆりが息を切らしながらその灯りの元へ駆けつけると、そこにいたのは――豊かな白髪を松明の灯りに照らされた神官長と、数名の知らない神官の男達だった。
「ゆりさん。よくぞお越し下さいました」
「どういう、こと……?」
身体を折り曲げ息を整えようとするが、緊張のためか動悸が鳴り止まない。
「神官長、ナオトは……?」
「ええ、来ますよ。じきに」
「じきに? ……説明して下さい」
「貴女は今宵、偉大なる時の訪れのために捧げられる贄だ」
「……? テオくん、一体どういう……」
「――『停止』」
「!」
突然、“力ある言葉”が場に響き渡り、ゆりは全身を掴まれたかのように動けなくなった。
それは、ゆりの首に填まる「魔力殺し」に封じられた服従の呪文。本来凶暴な魔物である魔獣狼などを家畜として使役するため、その魔道具に刻まれた幾つかの簡単な仕掛けの内のひとつだった。
そしてゆりの首輪の主は――――テオドール。
「てお、くん、どして」
全身が硬直し動けなくなったゆりが、いつの間にか横で走るのを止め後ろから悠々と歩いてきたテオドールに喉から声を絞り出す。
「――ごめんなさいゆりさん。でも、貴女のことだから、ナオト様の名前を出せば付いてきてくれるんじゃないかと思って」
テオドールは困ったように兎耳を垂らしてゆりを見る。そしてゆりは――ああ、やっぱり、と心の中で嘆いた。
解っていたのだ。テオドールが嘘をついていると言うことは。
何故なら、自らゆりの元を去り、ゆりの“会いに来て”というささやかな願いすら受け付けなかったナオトが、今更自分から助けを求めて来るなどということはありえないと思ったから。
そこまで見抜いていたにも係わらず、ゆりはテオドールの言葉に従った。いつも側にいて世話を焼いてくれていたテオドールを疑いたくはなかったし、彼に恩があったから。もしかしたら本当にナオトが、いや、テオドール自身が、自分に助けを求めているのかもしれないと思ったから。
「ゆりさん。ぼく、ずっと考えていたんです」
テオドールは零れ落ちそうなくらい大きな若草色の瞳で、じっとゆりの顔を覗き込んだ。
「この世界は、ゆりさんみたいに綺麗な人が暮らすには汚れすぎてる。だったら、ゆりさんにはもっと相応しい所、美しい所に居てもらった方が良いんじゃないかって。ぼくの母は女神の園という、女神の御許に暮らしているんです。そこは、心の綺麗な人だけが行ける場所なんですよ。ゆりさんにはその資格があるはずだから。きっとぼくの母さんとも、仲良くなれると思う」
その言葉を聞いて、ゆりの背筋は凍った。
テオドールの母親は、五年前に既に亡くなっていると彼の姉であるララミアから聞いた。つまりテオドールの指す“女神の園”とは……死後の世界のことである。
ゆりがじっとりと背中に嫌な汗が浮かぶのを感じていると、二人の間に神官長が進み出た。
「ゆりさん、貴女には死んでもらいます。貴女は――私たちが何年も何年も前から練っていた計画を、いくつもふいにした。非常に、不愉快です」
そう言うと、神官長は突然懐から先の尖った鎚鉾を取り出しゆりの顔面に突き立てた。
「!!」
キィィイイイイン!!!!
動かない両手で庇うことも出来ずゆりが思わず目を瞑ると、甲高い金属音がしてその鈍器が弾かれる。
エメが与えた「自由の鎖」の護りだった。
「『自由の鎖』……。本当に、面倒ですね」
「神官長、外しますか?」
後ろから背の高い獣人神官が声をかけると、神官長は首を左右に振った。
「いいえ。鎖の“手綱”の主に気取られると厄介だ。ゆりさんがこの場にいることもその気になればすぐわかるはず。できるだけ速やかに実行しましょう」
そう言って鎚鉾を握り締めた神官長が背を向けたので、ゆりが僅かに安堵して息を吐くと――突然神官長が振り返り、再度鎚鉾を振り抜いた。
びっ!!
尖った先端がゆりの頬を掠め、切り裂いた。同時にその衝撃でゆりの左耳で輝いていた魔の黄水晶がひとつ、ぼろり、と地面に落ちて転がった。傷付けられた白い肌に紅い線が走り血が滲む。
「ふふふ。元々は愛玩奴隷用の鎖ですからね。深刻な一撃を防ぐ効果はあるが、殺意のないお遊びであれば、結界は発動しない。業の深い品ですよ」
笑みを浮かべながら鎚鉾を懐に収めた神官長は、突如すっ、と表情を凍らせた。
「我々女神の使徒は、殺生を禁じられている。ですから、貴女を殺してその戒律を破るようなことは致しません。――貴女には、御自分で死んでいただきます」
ゆりが血の気を引かせると、テオドールが不服そうに神官長に抗議した。
「ちょっとお待ち下さい、神官長」
「何ですかテオドール」
「女神様は自殺を禁じておられます。ゆりさんが御自分で命を絶たれたら、女神の園の扉は開かれなくなってしまいます。それはぼくの望みじゃない」
「ならばテオドール。貴方がその罪を背負いなさい。貴方がゆりさんを、女神の園へ送って差し上げなさい」
「ぼくが……」
テオドールは迷っているようだった。
「でもそれだと、ぼく自身が死んだ後、女神の園へ行かれなくなってしまう。そしたら、ゆりさんにも母さんにも、会えなくなってしまう」
“テオドールは母を心の底から慕っていましたから……。まだ幼かったですし、その死は相当ショックだったろうと思うんです”
ゆりは以前、ララミアが口にした言葉を思い出していた。
この人達はテオドールにまた、誰かを失う痛みを味わわせるつもりなのか。ゆりは怒りに身を捩ろうとする。すると首が僅かに動き、口元の強張りが弛んだ。
「いい、テオくん。私、大丈夫。あなたにそんなこと、させられない」
「ゆりさん……」
毅然とした声で神官長を睨み付けると、神官長は可笑しくて堪らない、という風に笑った。
「ふふふ! テオドール。ゆりさんは慈悲深い方だ。貴方の罪を、代わりに引き受けて下さると。そんなゆりさんなら、きっと女神も喜んで受け入れて下さいますよ……!」
ゆりは錆び付いたブリキのように首を動かすと、テオドールを見た。
「ねえ、テオくん。人が死んだ後何処へ行くのか、私は知らない。死後の世界はもしかしたら、あなたの言うように素晴らしい所なのかも……でもね、」
一度息をして、言葉を調える。
「でもねテオくん。あなたのお母さんは、決してあなたを遺して先に逝きたかったわけじゃないと思うの。きっと心残りが、沢山あったはずだよ。そしてそれは、遺された人だって同じ。だって――死んだら、それっきりなんだから」
「テオドール! 『停止』の効力が弛んで来ているようですよ! 魔女の戯れ言に耳を貸してはなりません」
「ゆりさんは魔女なんかじゃない!!」
ゆりの説得に神官長が声を荒げ、更にその言葉にテオドールが喰ってかかる。
その強い調子にゆりがびくりと動かないはずの全身を竦ませると、テオドールはハッとしたように口を噤み、気遣うようにゆりを見た。
「ゆりさん、ごめんなさい。……でも心配しないで下さいね?少し怖いかもしれないけれど、女神の園には一年中美しい花が咲き乱れていて、憂いも苦しみもないんです。聖教書にもそう書いてありますし、偉大な神学者の著書にもそう書かれていました。母が旅立った時にも――兄も、姉も、大人達は皆、母は女神の御許で……素晴らしいところで暮らしているのだと、教えてくれましたから」
その言葉に、ゆりは哀しげに顔を歪めた。
――ああ、誰か。
この子を救ってあげて。この子は純粋すぎるあまりに、大人達の慰めの言葉を、真実だと受け取ってしまったのだ。
「……テオくん……。聖教書の言葉は、死んだ人を救うためにあるんじゃない。生きてる人を救うために、あるんだよ」
その言葉に、テオドールはにっこり微笑んだ。
「以前、教導も同じ言葉を言っておられました。やっぱりゆりさんは、心の綺麗なひとなんだ。――ゆりさん、お元気で。僕も女神の園の扉を潜れるよう、お務めをがんばりますから。……母さんによろしく」
その若草色の瞳は、残酷なほどきらきらと純粋な輝きを湛えていた。
テオドールに関してはここまで伏線らしき記述はほとんどなくほぼノーヒントでしたが、第三十七話で少しだけ彼の母親のことに触れています。




