道徳的な生き方とは、苦しい生き方である
それが自然体の何の葛藤もなく行えることであるという聖人でない限り、道徳的に生きるというのは困難なことである。否、一欠片も道徳的でない行動をしないというのは、およそ人間の所業ではない。
何故なら、非道徳的な行動を本当にただの一度もしたことのない人間はおよそ存在しないと考えられるからである。まあ、これは定義の問題でもあるかもしれないが。
大概の人間は己の差別的な思考に無自覚で、無配慮で、己が相手にナイフを突き立てていることに気付かない。自分の突き立てたナイフで相手が血まみれになって傷ついていっていることに気付かない。相手が傷ついていることに気付いてもそれをしたのが自分であることに気付かない。時には面白半分でナイフを突き立て、血を流し苦しむさまを楽しもうとするものすらいる。
悪業は楽しい。楽で、手軽で、利己的だ。別に大げさな話じゃない。よくよく考えてみるがいい。「これくらい良いだろう」「皆もやっているし」などと言って正しくない行動をしたことのない人間がどれほどいるというのか。あるいは他者のためにと悪業をした人間がどれほどいるのか。
人間は己の利を求めるものである。誰だって楽がしたい。自分が特別扱いされ、ちやほやされれば気分がいい。良い思いがしたい。望むものを手に入れたい。好きな人に好かれたい。そういう欲望を大抵の人がもっている。それら全てが悪業の種である。
道徳的に生きようと思えば、己がそれまでいかに悪業を気軽に重ねて生きていたのかを自覚しなければならない。差別的に、例外として見てきたものをフラットに見つめなおさなければならない。それは、常人にはとても苦しいことだ。しかも、特に利はない。何故なら、道徳的な行動とは、善業とは、利他的で自己犠牲的な行動のことを言うからである。無自覚に悪業を成す民衆ばかりが得をする世界だからである。
善業とは、周囲の人間に利する行動を言う。行う本人の利は大抵ない。どころか、損を引き受けることを指すことさえある。悪人がいる限り、善人は損をする。善人が損をしないのは、善人しかいない場合のみである。悪人が一人でもいれば利はそちらに集まり、分配されなくなる。
大体の人間は悪人である。己の悪業に無自覚で、無批判で、無葛藤で、そのくせ己への悪業には敏感に反応したりする。場合によっては己が善人だと思っていたりする。度し難いものである。善行が善業でなくなることはあっても、悪業が悪業でなくなることはない。悪いものは悪いのである。
己自身や、己の周囲の者を含め、全ての人間をフラットに、平等に見れる人間はいない。少なくとも、意識せずそれが行える人間は寧ろ異常である。平等とは特別などないということである。全てを同じに扱うということである。好きだろうと嫌いだろうと、利害があろうとなかろうと、知人友人家族敵味方他人その他どのような間柄だろうと、扱いを変えないというのは異常である。
大抵の人間は己が可愛いし、好意を持つ人間には利し、悪意を持つ人間には害する。他人には無関心で無責任だ。それは何も不思議ではない、普通のことだ。それが本当に良いことなのかはともかく。そう振る舞って社会に不都合ということは少ない。度が過ぎない限りは。
己の成した行動が、成そうという行動が、本当に悪業でないか精査するというのは、精神的にしんどいことである。少なくとも、己が悪業を成していることに無自覚に、程々の悪人として生きていく方が楽だ。道徳的に生きようとして、そうできないのが一番苦しい。己の悪業に対する罪悪感を持つことが苦しい。普通の人間には、常に道徳的な行動ばかりをして生きていくのは難しいからである。
無意識の差別に気付いた時も苦しい。己が差別に気付けば、周囲が同様に差別を行っていることにも気付く。しかもそれは大抵、楽しんで行われたり、冗談半分に行われたり、己が正しいと思い込んで行われたりするのである。それは悲しいことだし、腹立たしいことだ。どのような事情があれ、差別は悪業であり、差別を受けるものは弱者に堕とされる。差別されるものは差別されていることを理由に差別され、害され搾取される。
道徳的に生きようとしてきちんと目を開いて己や周囲の人間を見れば、皆、手にナイフを持っていることに気付くだろう。己や、周囲の人間がそのナイフで互いを傷つけあっていたことに、傷つけあっていることに、傷つけようとしていることに気付くだろう。囲んで滅多刺しにしているものもいるかもしれない。執拗に一人の人間をいたぶっている者もいるかもしれない。傷つけられる中で自傷している者もいるかもしれない。それに気付いて苦しまない者は、真正の悪人である。
けれど、普通の人間は、根っからの悪人でも善人でもない。悪業に流されることは多けれど、善業をしないわけではない。だから、己の悪を自覚すれば、罪悪感が芽生えれば、苦しい。苦しいから、逆恨みをすることさえある。だって、自覚せず、悪業を成す生き方が一番楽で楽しいのだから。