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重苦しいカタマリを胸の中に抱えたまま、九月も半ばを過ぎ、秋は日ごとに深まっていった。
空は高くなり、日差しはやわらかくなり、凪いだ海もひかえめにきらめいている。この間まで暑苦しく湿っぽかった海風もいまは心地いい。
ほのかは部活をさぼって、まっすぐ家に帰らず、海岸沿いの小道をうろうろしている。
唯と同じ美術部に所属しているけど、二年になってから茅野も入部したから、正直居づらい。そもそも絵やデザインが好きで美術部に入ったわけじゃない。ただ単に、放課後も唯と同じ空間に居たかっただけ。
茅野はほのかを邪険にすることはないし、話しかけてきてくれるし、教室では彼女もまじえた三人で行動することがほとんど。なのにほのかは、いまだ茅野に打ち解けることができないでいる。
こんなんじゃだめだよね、ほのかは思う。
哲也くんの言ったとおりだ。あたしには「自分」がない。あたしの世界には唯ちゃんしかいないし、唯ちゃんしかいらないって思ってる。
勇気を出して、と哲也は言った。ほのかちゃんの気持ちはわかるけど、いつまでもずっと唯ちゃんと一緒にいられるわけじゃないんだよ、と。
少し迷ってから、ほのかは堤防の上によじ登った。すこしだけ視界が広がった気がするけど、足を踏み外せば海にまっさかさまだと思うと、背中がぞくぞくする。唯はいつも、すいすいと堤防の上を歩くのに。
きゅっと、くちびるを噛む。
哲也くんにあたしの気持ちなんてわかるわけない。たくさん友達がいて、人気者で。ひとりぼっちになるのが怖くてたまらないなんて気持ち、きっとあのひとは味わったことがない。
強い風が吹いた。煽られてよろめいて、ほのかは転がるように堤防から降りた。足の裏がひやりとする。もし反対側に落ちたらどうなっていただろう。
「ほのか」
ふいに名前をよばれて、まだ恐怖の中にいたほのかは、「えっ」とすっとんきょうな声を出して振り返った。
蒼がいた。Tシャツにジーンズといったラフな格好だ。
「何してんの」
「えっと」
「あ、おれは散歩。ひまだから。今日部活休んで病院行ってさあ、混んでると思ったら結構すいてて、すげー早く終わったんだよ」
「びょう、いん」
単語を拾っておうむ返しにするだけで精いっぱい。なんでこんなところで蒼に会うのだ。
「あーだいじょうぶ多分たいしたことねーから。膝痛くて。なんかよくわかんないけど成長期のせいだって。しばらく運動すんなって言われた。まじ何なんだよって感じ」
とまどうほのかにはお構いなしに、ひとりでぺらぺらしゃべり続ける。そういえば蒼くんってわりとマイペースな人だったな、と、ぼんやり思い出す。
「唯、は。一緒じゃねえの?」
蒼が一瞬、視線を自分の足元に落とした。その頬に赤みがさしているのに気づく。
「ゆいちゃん、は、ぶかつ」
ゆっくりと息を吐くように、言葉を吐いた。昔仲良かったんだし、普通にしゃべれるよ、と自分に言い聞かせながら。
「ふうん。…………、あの、さ」
さっきまで饒舌だったのがウソみたいに、急に蒼は歯切れが悪くなった。ほのかとは目を合わせず、しきりにつま先で地面を蹴っている。
「唯、なんか言ってなかった? その、おれのこと」
蒼はかあっと耳まで真っ赤になった。ほのかは首をかしげ、「なんにも」と答えた。
「そっか。なんにも。そっか」
ぶつぶつと繰りかえし、心ここにあらずといった感じで、ほのかを置いてとぼとぼと歩きだす。その後ろすがたを見つめながら、ぼんやりと、「唯ちゃん蒼くんと何かあったのかな」と思った。あったとしても、唯は自分には何も話してくれないだろうな、とも。
あれは二年に進級したばかりのころだった。ほのかはその日、遅れて部活に行った。
美術部の活動は自由度が高く、コンクールに出す絵を描いているひともいれば、趣味の漫画やイラストを描いているひともいて、カオスだ。気分が乗らなければ部活に出なくても、だれもとがめたりしない。幽霊部員もたくさんいる。
唯はいつも色鉛筆で風景画を描いていて、時折水彩も描く。ほのかが美術室に来たとき、唯は窓側の席にいて、ひとりでほおづえをついて自分のスケッチブックをながめていた。そして、ふいに微笑んだのだった。
どきりと心臓がうずいた。唯が、いつもとなりにいた唯が、知らない女の子に見えたのだ。
不安にかられて、そっと唯の背後にまわり、スケッチブックを盗み見た。唯はなぜか自分の描いた絵を見せるのを恥ずかしがるから、ほのかは普段ぜったいにそんなことはしない。なのに。
ちらりと見えたのは、ちいさなちいさなイラスト。マル描いて目鼻をちょんちょんとつけてざっくり髪を生やしただけの、ゆるいキャラクター。男の子の。単純な線なのに、いまにも動き出しそうな躍動感。一瞬見ただけで、蒼くんだ、と気づいた。唯ちゃんが描いたんだ。
唯の背後で固まっていると、我に返ったのか、いきなり唯が振り返った。
「ほのか。いつから、いた?」
「さっき来たとこ」
「絵、見た?」
「見てない」
とっさに、嘘をついた。唯はその言葉を聞くと、ほっとしたような笑顔をみせた。
見てはいけないものを見た。彼女が、こっそりと胸に抱きしめている秘密を知った。
唯ちゃんは、蒼くんのこと……。
いつかは打ち明けてくれるのかな、と思っていた。だけど一向にそんな気配はない。
自分は唯にとって何なんだろう。大事なことを何も相談してくれない親友なんてあり得る? 親友だと思っているのは自分だけ? 不安はどんどんふくらむ。
そして、夏休みのある日。ほのかは唯の家にノートを届けに行き、彼女の母にすすめられるがまま、出かけたという唯が帰ってくるのを待たせてもらっていた。
唯は、蒼におぶわれて帰ってきた。熱中症になりかけてふらふらだという。
いやな予感がした。具合が悪いからか、唯はめずらしく素直に蒼に笑いかけていた。帰ってほしくなさそうだった。蒼もまんざらでもない様子で。ずっと唯のことを気にかけていて。こんな雰囲気のふたりははじめて見た。
ふたりのあいだに、割って入れなかった。
ほのかだって唯のことが心配だったのに。力になりたいと思っていたのに。なにもできなかった。
そして。その時、気づいた。心のうちを話してほしいなんて思っていたくせに、もしも本当に、唯の口から「蒼が好き」と告げられたらとしたら。「がんばってね、応援してるよ」なんて、とてもじゃないけど言えそうにない、そんな自分に。
蒼も唯も、自分を置いて、遠くに行ってしまう。
こんな気分のときは、ひたすら刺すにかぎる。刺していたら、からっぽになれるから。
ほのかは姉と共用の部屋で、ひとり学習机に向かい、刺繍をしていた。
ほのかの家は、唯の家から歩いて五分もかからない場所にある。古いうえに狭くて、祖父、両親、姉とほのかと弟と、ひしめき合いながら暮らしている。
保育園から帰ってきたばかりの弟が泣きわめいている。おなかがすくといつもかんしゃくを起こすのだ。母は怒鳴っている。いらいらするんだろう。
高校生の姉が帰ってくると、さらにややこしいことになる。ついこの間も、無断で外泊をしたとかで、母と激しくやり合っていた。
父は見て見ぬふり。仕事から帰ると、寝転がってテレビを見て、ご飯を食べてお酒を飲んでそのまま寝る。母に蹴られてやっと起きてお風呂にはいる。
脱いだ服も脱ぎっぱなし、食べた後の食器も置きっぱなし。母に言われて、いつもほのかが後片づけをしていた。パパが自分で動けばいいのに、と思う。五歳の弟のほうが、まだ自分のことをちゃんとできる。
刺繍針を動かしている時だけ、ほのかは無心になれた。色とりどりの刺繍糸を見つめてはうっとりし、可愛らしい図案集を眺めてはうっとりした。憂鬱な学校を、家族を、しばし忘れた。ひたすらに刺し、ハンカチやポーチに仕立てる。自分では使いきれないくらいにたくさんたまってしまっていた。ほのかの刺すものはキュートすぎて唯の趣味には合わないだろうし、姉には「手作りなんてださい」とはなからバカにされるし、弟にあげるとすぐに破るか汚すかされる。いつも自分にばかり手伝いをさせる母になんてあげたくない。
「できた」
かわいいみつばちとクローバーの刺繍。みつばちの表情に、なんともとぼけた味がある。思わず自画自賛し、達成感にひたったあと、すぐに、「これ、どうしよう」と途方にくれた。