1
二学期がはじまり、早や一週間が過ぎた。
朝晩は気温もぐっと下がり、夏の盛りに比べれば、過ごしやすくなってきた。とはいえ日中はまだ残暑が厳しい。頭上にひろがる青空を見上げて、今日も暑くなりそうだな、とほのかは思った。
「おはよ、ほのか」
「おはよう。遅いよ、唯ちゃん」
ごめんごめん、と唯は笑う。ふたりは近所の公民館前に待ち合わせて、毎朝一緒に登校している。小学校の時からずっと続いている習慣。
止めていた自転車のスタンドを跳ね上げて、サドルにまたがる。海辺の集落を抜けると、中学校までずっとゆるやかな坂道をのぼり続けなければならない。そのかわり帰りは下りなので爽快だ。
先を進む唯の夏服のセーラー衿がひるがえる。ペダルを漕ぎながら、唯は時折うしろを振り返って、ほのかがちゃんとついて来ているか確認する。ほのかと目を合わせて安心したように笑う、その表情を見るたびに、ほのかの胸はほっこりとあたたかくなる。
唯ちゃんだけは変わらない。ずっとずっと、変わらない。そんな思いを、おまもりのように抱いていた。
二年二組の教室はいつも騒々しい。朝、まだ授業がはじまる前だというのに男子たちのテンションは全開で、教室に足を踏み入れたとたん、だれかの雄たけびが耳を刺してきて、ほのかはひるんだ。
「あいかわらずキーキーうるさいな、このクラスは」
そう言いつつも唯はそこまで不快ではないようすで、むしろおもしろがるように口の端をほころばせながら、さっさと自分の席に着いてかばんの中身を仕舞っている。
ほのかは、自分も早く支度をして唯の席に行こうと思った。窓側前から二番目の席がほのかの席だ。本当はもっと目立たない、後ろのすみっこの席がいいのだけど、背が低いから、いつも前のほうにあてがわれてしまう。
「はよーっす」
教室前方のドアからだるそうな声が飛んできて、顔をあげた。蒼くんだ、と思って身構える。寝不足なのか、蒼は大きなあくびをしている。そばには三崎哲也もいる。このふたりはいつもワンセットだ。
かつては自分もこのふたりの仲間だったことが、ほのかには信じられない。はるか遠い昔の話のような気がしてしまう。蒼と哲也と唯とほのか、四人でよく遊んだことも、探検と称して海岸の岩場をめぐったことも、唯の父とともに灯台まで行って釣りをしたことも、まるで前世での記憶みたいな、泡のようにはかないまぼろしみたいな気がするのだ。
蒼くんも哲也くんも遠いもん。太陽だもん。
ほのかはため息をつく。だって、ふたりともクラスの中ではかなり目立つポジションにいる。ノリがよく明るい蒼は男子に人気があり、つねに数人に囲まれてわいわいふざけ合っている。いっぽう、柔和な雰囲気の哲也は女子に人気があり、つねにたくさんの女子から熱っぽい視線を浴びていた。
中学にあがったばかりのころだった。ふと我に返る瞬間があった。どうしてあんな人気者のふたりが自分なんかと仲良くしてくれるんだろう、と。
唯ちゃんのおまけだからだ、と。すぐに気づいて、それ以来、蒼たちに話しかけられても素直に受けこたえができなくなってしまった。何を話していいかわからないのだ。
くわえて、蒼は背がのびて体つきもがっしりしてきたし、哲也は小学校時代より髪がのびて、かっこよくなった。そんなこともほのかをますます萎縮させてしまうのだった。
のろのろと一時間目の準備をし、席を立とうとすると、唯の席にはすでに先客がいるのに気づく。
二年から同じクラスになった茅野千歳。茅野は唯の前の椅子に腰かけて、なにやら手を叩いて笑っている。唯も笑っている。自分の割り込む隙間なんてないように見えて、ほのかは、思わず目をそらしてしまう。
チャイムが鳴り、騒いでいたクラスメイトたちがいっせいに自分の席に戻る。がたんと自分の机が揺れて、見ると、哲也が「ごめん」と小さな声で謝っている。哲也から目をそらし、ぶつかられてずれてしまった机を無言で直す。哲也の席はほのかの列のいちばん後ろにある。
哲也くん、きらい。ほのかはぐっと奥歯を噛んだ。いつから哲也くんはあんなにいじわるになったんだろう。
夏休みの、肝試しの夜。唯にどうしてもと誘われて行った夏の墓場。ほのかとペアになった哲也は、言ったのだ。
「そろそろ唯ちゃんを解放してあげたら?」と。
昼休み、茅野と唯はおでこがくっつきそうないきおいで顔を寄せ合って、何やら話し合っている。ほのかはそっと近づくと、彼女たちのとなりの椅子を借りてちょこんと座った。椅子の主は今日は欠席なので、見つかって本人にとがめられることもないだろう。
十秒ほどして、唯が気づいた。
「あ。ほのか、ごめんごめん」
「いいの」
ほのかは顔の横で小さく手のひらをふった。
「だいじな話してたんだよね。ごめんね、じゃまして」
「べつにたいした話じゃないよ」
唯は苦笑すると、おいでよ、とほのかに手招きする。ほのかはほっと息をついて、椅子ごと唯の机に寄った。
「金がないとか言うんならさー。やっすいコンデジでも買えばいーんじゃないすか? いきなり高いいいカメラ買ってもさあ、使いこなせなければもったいないだけじゃん」
茅野がめがねのフレームを中指で押し上げる。唯がしぶい顔をする。
「えー? 下手すりゃスマホのほうが画質いいんじゃない? それなら」
「でもスマホじゃ気分出ないよ。だいじだよ、気分は。あ、そうだあれは? トイカメラだっけ」
「興味あるけど、今気になるのは、そのまんまをぱしっと切り取れるやつ」
「ふーむ。ま、中古とかオクとかいう手もあるし」
茅野が言うと、ふうと息を吐いて、唯はうなずいた。
「んー。ま、そうだよね。とりあえずは安いので手軽にぱしゃぱしゃ何でも撮ってみて、もっと凝りたくなってきたらそのときまた考えればいいんだしね。どうせ高いの買おうと思ってもむりなんだし」
なんの話? と気軽にふたりの間に割っていきたいけど、ためらってしまう。考えすぎてしまうのだ。自分が会話の流れを途切れさせてしまうんじゃないかとか、そもそも自分には聞かせたくない話なんじゃないのか、とか。いちいち考える。
「あたし最近写真に興味があるんだ」
唯が、ほのかのためらいを見透かしたように、絶妙なタイミングで話しかけてきてくれた。
四歳のころ、ほのかの家の近くに唯一家が越してきたときからの長いつきあいだ。唯はいつも、ほかの友達と話している時も、ほのかが孤立しないようにさりげなく輪の中にいざなってくれる。男子たち――蒼と哲也――とに仲良くなって、ほのかを仲間に引き入れたのも、唯。
「写真? 絵は?」
「絵も描きつづけるけど」
唯はやわらかな笑みを絶やさない。
「絵より写真のほうが、もしかしたら自分がやりたいことに近いんじゃないかなあって」
「アーティストはちがいますなあ」
ほおづえをついて聞いていた茅野が、にやにや笑いながらちゃちゃを入れると、唯は彼女のおでこをぺしっと叩いた。
「バカにしただろ。おまえー、バカにしただろっ」
唯は耳まで赤くなっている。語ってしまった自分に、猛烈に照れているのだ。
茅野はなおもにやにやしながら、「バカになんてしてませんって」と身をよじってかわす。
唯が茅野の赤いフレームのめがねを取り上げて反撃する。
「かえせ石田ァ」
「うわっ。度、つよっ」
「勝手にかけるなって。それがないと自分、なーんにも見えないんすよ?」
「超くらくらする。裸眼いくつ?」
「うーん忘れた。0.1以下なのは確実」
茅野は唯からめがねを奪い返すと、ハンカチできゅっとひと拭きし、かけた。ヘルメットみたいなボブカットに困ったような下がり眉、つぶらな瞳、赤いフレームのめがねという、いつもの茅野千歳の顔になる。
ほのかは途方にくれた。
じゃれ合うふたりのテンポ感に、ついていけなかった。
熱っぽい唯の語りをあんなに軽やかにからかって、それでも不快な感じをあたえないなんて、茅野のしていることはとてつもない高等技術のように感じられる。
それとも自分がおかしいだけなんだろうか。
ほのかは思う。
あれぐらいのこと、みんな息を吸うぐらい簡単にやってのけているんだ。蒼くんと哲也くんだってそうだし、四人で仲の良かったころを思い返せば、あたし以外の三人はいつもお互いからかい合ってふざけてた。あたしはそれをにこにこ眺めてた。眺めていること自体が楽しかった、あのころは。
だけど、今は。ほのかは自分の胸をぎゅっと押さえた。唯と茅野を見ているときにいつもまとわりついてくる、このもやもやは何だろう。