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つぎの日の練習は、寝不足のせいか調子が出ず、蒼はつぎつぎとハードルを引っかけて倒してしまった。
一日分のメニューを終えると、蒼はすぐ手洗い場に向かった。蛇口の下に頭をくぐらせ、水を浴びる。ぶるりと犬のように頭をふるわせると、こまかい水しぶきが舞った。
「重症ですなあ、タカシマくん」
グラウンド脇の桜の木陰にしゃがみこんだ蒼の頭上から、哲也のからかうような声が降ってくる。
一年生たちが片づけをしている様子を横目で見ながら、蒼は足もとに落ちていた小枝でぐりぐりと土をほじった。
「唯っていつの間にあんなにかわいくなったんだっけ」
「はあ?」
哲也が蒼のとなりに座る。
蒼は、練習が始まる前、美術室で唯に会ったときのことを思い出していた。
唯の白い夏服も、染めてもいないのにわずかに茶色がかった髪も、まるい瞳も。ちいさな顎も、細い肩も。すべてがまぶしい。
「よく見たらかわいいんだ。すげえかわいいんだ」
そう、今までは単に「よく見ていなかった」だけで。
哲也はあきれ顔で、「へー」とだけ、感情のこもらないあいづちを打った。
「唯ちゃんかー。江森みずはとはぜんぜんタイプちがうじゃん」
「そうだけどさ……」
スイッチがはいるまでは、蒼の理想のタイプは人気アイドルグル―プのセクシー担当、江森みずはだった。センターを張ることは少ないけれど、独特の存在感がある。存在感というか、まあまあエロい。長いストレートの黒髪で清楚な雰囲気なのに、水着になるといろんな部分がボリューミイな、そのギャップたるや。
日々、みずはちゃんとのあれやこれやを妄想してにやけている。
なのに。唯。清楚でもなければ、色気もまるっきりない。
「あー、それにしても何の絵描いてるんだろ。気になる」
預かったスケッチブックの中身を、約束通り、蒼は見なかった。見たくて見たくてしょうがなかったけど我慢した。
「風景画じゃない? 海でスケッチしてたんでしょ、唯ちゃん」
「でも、見るなってすげえ念押しされたんだ。風景画とかにまぎれて、やばい絵があったりして」
「好きなひとの絵とか?」
「好きなひと? 唯ってそういうの、興味あんの?」
その可能性については、まったく思い及ばなかった。クラスのほかの目立つ女子とちがって、唯はスカートも短く折ったりしていないし、自分を可愛らしく見せることに興味がないように見えた。恋愛に関しても、しかり。唯に関する浮いた話は、まったく耳に入らない。
不安げな蒼のまなざしに、哲也は「さあね」と、はぐらかす。
「まさかお前、なんか知ってんの」
「知ってるわけないじゃん、ただ」
「ただ、何だ?」
「唯ちゃんって、いつも蒼のこと見てるよ」
ぱちりと目をしばたいて、蒼は自分の顔を指差した。
唯がおれのことを見ている。唯がおれのことを見ている。それはつまり。
よっこいしょ、と年よりくさい声をあげて哲也が立ち上がる。
「はやく着替えて帰ろう」
強い日差しが葉桜の隙間からこぼれて哲也を照らす。蒼は「おう」と返事をして立ち上がった。少し、めまいがした。
小学校時代の唯は毎日ズボンやショートパンツで、中学にあがってはじめて蒼は唯のスカート姿を目にした。「なに女装してんだよ」とからかってやったら、唯は顔を真っ赤にして、強いパンチを蒼の腹にしずめたのだった。
あんとき、まじで痛かったな。もしかして傷ついたとか。似合うって言ってやればよかった。
蒼の思考はぐるぐる回る。哲也にへんなことを吹きこまれたせいだ。
もしおれが唯と両想いで、つき合うことになって、はじめてのデートで唯がおしゃれしてスカートなんて履いてきたらどうしよう。あの唯が、おれのために。おれ、照れずに「似合うよ」とか「かわいいよ」とか言えるだろうか。ていうか、そもそもデートってどこ行って何すればいいんだろう。映画とか遊園地とか? 手、手とかつないだり……、していいのか。
「蒼。蒼、アイス溶けてる」
哲也の声でわれに返る。妄想の中ではちょうど、沈む夕日をバックに見つめ合い、思いきって唯の肩を抱き寄せようとしているところだった。
溶けたアイスは手首まで垂れている。べたべたして気持ち悪い。
ここは哲也の家の縁側で、となりにいるのは唯ではなく哲也で、ふたりでバニラバーを食べていたところだった。
「キモいよ蒼。ひとりで薄笑い浮かべちゃって」
哲也が口をとがらせる。悪い悪い、と蒼は明るくごまかした。
最近、何をしていてもすぐに妄想の世界へトリップしてしまう。それはベタな少女マンガのような世界で、手をつないで抱きしめて、キスする直前で妄想はストップする。それ以上進んでしまうと、蒼はもう二度と唯の顔をまっすぐ見れなくなってしまう気がするのだ。江森みずは相手だと、なんでもできるのに。
「おれ、何してんだろう」
ため息をついた。毎晩毎晩、唯に電話する口実を考えて、でもかけられなくてへこむ。メールならばと思い直すが、もし返信が来なかったらと考えると、気持ちがしぼむ。
哲也は唯が自分のことを見ていると言ったけど、蒼自身にはまったくおぼえがない。視線を感じたこともない。だけどもし本当にそうなら……、いや、たんに自分の顔になにか変なものがついてるとか、最悪、自分の向こう側にいるべつの誰かのことを見ているという可能性もある。
気持ちが上がったり下がったり忙しい。早く夏休みが終わればいいのに。学校がはじまれば毎日教室で彼女の視線のゆくえを確かめることができるのに、切実にそう思う。
「コクればいいじゃん」
哲也はこともなげに言ってのける。
「いや、だってそんな」
「多田から連絡回ってんの、見た?」
いきなり話がとんだ。
「ああ、何だっけ? 肝試し大会やるとかだっけ?」
クラス一お調子者の多田はイベント好きで、夏休みも川遊びだの海水浴だの企画しては参加者をつのっている。今度は肝試しをするつもりらしい。
「そう。唯ちゃん誘って、そこで告白する」
「無理だって」
「何言ってんの。チャンスだよ。吊り橋効果って言葉、知らないの?」
首をふる蒼に、哲也がさらりと説明した。要するに、高い吊り橋を一緒にわたるとかの、恐怖体験を共有したふたりは恋に落ちやすいという説だ。
「恐怖のどきどきを、恋愛のどきどきと勘違いしちゃうらしいよ」
「ふーん。どきどきを勘違いって……、人間ってそんなに単純なわけ?」
「単純なんじゃなーい?」
哲也がどうでもよさそうに言った。
「しかも肝試しって夜でしょ。知ってる? 愛の告白って、昼間より夜のほうが成功率高いらしいよ」
「おまえ、めっちゃくわしいな」
「テレビでみた」
へえ、と返事をしながらも、心は早や妄想の世界に飛んでいる。
暗がりの中、ふるえながら必死で蒼の背中に隠れている唯。途中、柳の木の枝がゆれて、「きゃっ」とちいさく叫んで蒼に抱きついてしまうのだ。すぐに我にかえって、真っ赤な顔して「ごめん」とうつむく唯……、
一瞬で、そこまでのストーリーが浮かんで蒼はにやけた。
「いいな、肝試し。おれ、参加」
うまくいけば、手だってつなげちゃうかもしれない。
「そんじゃあぼくも参加しよっかな」
んじゃ多田に返事しとくわ、と哲也はつづける。彼がみょうに浮かない顔をしているのが気にかかったけれど、それよりも胸躍る夏のイベントへの期待で頭がいっぱいだった。