6
引っ越しは明日。
部屋で、荷物をまとめる。いつまでも気が進まないといって避けていた。ロボットになったつもりで、段ボールにつぎつぎに本やCDをぶちこんでいく。
描きためた絵を一枚一枚吟味する。残すもの、処分するもの。ほのかにあげてもいいな、と思った。よろこぶかどうかは謎だけど。つたないながらも、描いたときのむきだしの心が滲みだしていて、恥ずかしいけれど。
唯が描いたものは、ほとんどが風景画だ。
神社の楠の、みずみずしい若葉。展望公園から見える海と灯台、黄金色の稲穂と彼岸花。わた雪に覆われた椿の葉。春夏秋冬。
この町が大好きだった。
港に住む猫、浜昼顔、アコウの木。ほのか。茅野。哲也。
絵を眺めながらもの思いにふけっているうちに、陽はずいぶんかたむいていた。やわらかいみかん色に染まりはじめた西日が、カーテン越しに射しこむ。
いけないなあ。唯は思った。夕暮れと思い出がセットになったら、もう、泣くしかない。精神が「センチメンタル」に浸食される。空が赤くなるまえに、絵の整理を終えなきゃ。
少しだけ浮かんでいた涙を袖で乱暴にぬぐうと、両頬をはさみこんで、ぱんぱんと叩いて気合を入れる。
と、唯の携帯が鳴った。蒼からのメール。
「今、公民館のちかくにいるんだけど。ちょっと、会えない?」
心臓がはねた。
きっと責められる。蒼にだけ引っ越しのことをだまっていたことを、責められる。
唯はパーカをはおった。すうっと息をすいこむ。
行こう。会おう。
だって、これが最後だ。
出かけると告げた唯に、母は、
「遅くなるんだったら連絡ちょうだいね」
とだけ言って送り出してくれた。引っ越すことを決めた母がいちばん気にしていたのは、唯のこと。唯の、学校、友達。
公民館前のベンチに座って、蒼は背中をまるめていた。長Tシャツにチェックのシャツをはおっただけの恰好で、すこし寒そうだ。春にはまだ、もうすこしある。
「蒼」
「唯」
蒼は立ち上がる。
「ごめんな、急に。……忙しいのに」
「ん」
連れだって歩き出す。行き先を決めたわけじゃないのに、自然と、海のほうへ足が向く。
「黙っててごめんね、その」
「ん」
蒼はすこし、うつむいた。
「実はきのう、おれ、おばさんに聞いて。びっくりした。ほのかに確認したら、哲也も茅野も知ってるって。なんだよ。なんでおれだけ」
ごめん、って。吐きだすように告げた自分の声は、かすれて、いまにも消え入りそうで。
蒼はため息をついた。そして、よわよわしく笑った。
「おばさんに、遠距離恋愛になっちゃうけどごめんねって謝られた。おばさん、なんか勘違いしてる?」
顔から火が出るほど恥ずかしい。やっぱり母は相変わらずだ。
堤防沿いの小道に出る。海風は、まだつめたい。夏は倒れるほど暑かったのに。
蒼は話をつづける。
「でもちょっと納得した。唯、なんか変だったから。写真撮らせてとか。思い出づくりモード入っちゃってたんだなって」
小さくうなずく。蒼は立ち止り、右手を差し出した。
「握手」
「え?」
「離れても、友達な」
にかっと、笑う。唯もあわてて、手を差し出した。
つながれた手。すぐに、ほどける。
胸がちくりと疼く。離れても、友達。
ふたたび歩き出す。海岸に沿って、東へ。季節の変わり目の空はいま、オレンジ色に染まりつつある。海も。
いけない、と唯は思った。なんか変だ。胸が痛い。夕陽があたしを、おかしくする。
「メールでも電話でもなんでもいいから、ときどき、近況報告してな」
うなずくだけで、精いっぱい。海風になびく蒼のみじかい髪、冷えた大きな手が、時折、唯の手とぶつかる。そのたびに鼓動がはげしくなる。
もう、会えなくなる。
「彼氏できたら、教えろよ」
いたずらっぽくわらう蒼。できるわけないじゃんバカじゃないの、と思う。思うだけで、いつもみたいに口にできない。
太陽は赤く燃え、海に吸い込まれようとしている。いよいよあたしは本格的におかしいと思っていたとき。
「おれも彼女できたら教えるわ。友達だもんな」
「え?」
意外なことばに、思わず、立ち止ってしまった。
「哲也ほどじゃないけど、おれだって告られることあるんだよ。陸上部の後輩とかにさ。今度、かわいい子に言われたらつき合うかも」
眉ひとつ動かさず、さらりと言ってのける。
「相談のってね。女子のこと、よくわかんないから」
「あ、う、うん」
地面が抜けるような感覚。こんなことを言われるなんて、想定外だ。
――蒼が、彼女をつくる? ほかの誰かとつき合う?
灯台のそばで彼氏と寄り添っていたみちる姉ちゃんのすがたを思い出す。
あんなふうに、蒼も、だれかべつの女の子を抱き寄せるの? そしてそれを、あたしに報告? 相談? するの?
友達、だから?
「蒼」
「なに?」
「それ、いやだ」
「え? なんで?」
「なんで、って」
気づいたら、いやだと言ってしまっていた。
ばかじゃん? これじゃ。これじゃ、まるで。
顔が熱い。赤い陽が、もろに照りつけて唯のほおを染め上げる。やばい、あたし、おかしくなる。もうひとりの冷静な自分が、いつも離れたところから唯を監視していた、もうひとりの自分が、告げる。警報を鳴らす。
だめ、言っちゃだめ。認めちゃ、だめ。
「蒼。あたし」
もういい。もう、何も考えるな。
「あたし、蒼が」
会えなくなるから。もう、会えなくなるから。
「蒼が、好き」
言ってしまった。
「ずっと前から好きだった」
口にしてしまえば、思いのほかあっけなくて。重い荷物をおろしたときのように、ふっと、力が抜ける。そのかわり、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。
「唯、それ、ほんと?」
真っ赤な顔して、うなずくだけで精いっぱい。
波の音。沈黙。沈黙。沈黙。
何か言って。お願い何か言って。どきどきしすぎて死んでしまいそう。
ぎゅっと、かたく目を閉じる。と。
「イエーイっ!」
いきなり、蒼の叫びが耳に刺さった。驚いて目を開けると、やつは思いっきり、天に向かってこぶしを突き上げている。
「は?」
何そのリアクション。唯はあっけにとられた。
「ひっかかったひっかかった。やーいっ」
小躍りせんばかりの喜びようだ。
「おれのこと舐めてるからこうなるんだよっ。呼び出されたとき、告られるかもって思ったでしょ?」
否定できない。唯はだまりこんだ。なんだかものすごく悔しい。
「賭けだったんだけどさーっ。彼女できたら写真送ってねーとか言われたらどうしようかと思ってたけど、うまくいってよかった。茅野さまさまだなっ」
「ま。まさか、茅野の、入れ知恵?」
「うん。今日、学校終わってから作戦会議したんだ。ストレートだけじゃ通用しないぞ、そろそろ変化球をおぼえろって言われた。たまには引いてみろとか、シチュエーションも考えろとか。あいつすげーな、何者だよ」
茅野のしたり顔が目にうかぶ。
「まさか、後輩に告られたっていうのも」
「嘘に決まってんじゃーん」
蒼はからからと笑う。くっそむかつく、と唯は蒼に蹴りをいれようとしたけど、ひょいっとかわされた。
「ずっと前からって、いつ?」
「いつでもいいじゃん」
パンチをお見舞いしてやろうとしたら、その手をつかまれた。
「やった。やっとつなげた」
すっかり形勢は逆転した。がるるる、と犬のように吠えたくてたまらない。
「遠距離恋愛、がんばろうなっ」
「背中がかゆくなるようなこと、言うなよ」
あーもう、負けだ負けだ。
苦笑いしてしまう。
明日には、はなればなれになっちゃうのに。蒼のやつ、いまから始まるんだって顔してる。ほんっと、バカには勝てないよ。
手をつないだまま、ひたすらに歩く。もう、ふしぎと海風はつめたくなかった。
そして。
日が落ちた、うすむらさき色の空に、一番星がまたたき出す。
旅立ちのときは、もう、すぐそこに迫っている。
次回、ラストです。




