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二月になった。背面黒板の横に貼られた年間予定表を、唯は指でなぞった。三月九日、卒業式。三月二十日、修了式。
「なんだー? そんな思いつめた顔して」
背後からきこえた声に、はっと我に返る。ふり返ると蒼がいた。
「思いつめてるように見える?」
「うん。すっげー怖い顔してたよ」
「余計なお世話。この顔は生まれつき」
ははっ、と蒼は笑った。
「蒼―」と呼ばれて、「おうー」と間延びした返事をしながら、蒼は友達のもとへ行った。
そのタイミングで、唯は女子三人組に声をかけられた。
クラスでいちばん目立つグループの子たち。真ん中にいるのは森川理穂。ふだん、唯とはそんなにしゃべることはない。べつに仲が悪いわけではない。ただ、クラスが同じということ以外に接点がないのだ。
「いいなあー。ねえ、どっちから告ったの?」
理穂は夢見るような瞳で、唯の袖をちょこんと引っ張った。
「え? なにが?」
「高島くんと。つき合ってるんだよね?」
うんうん、とうなずく理穂のとりまき二人。
ぎょっとして、目を大きく見開いた。
「じょ、冗談じゃないって! ちがうよ!」
全力で否定する。
「だれが言ってんの、そんなこと」
「三崎くん」
哲也め。ぜったい、わざとだな。
二年になってから、みんなみょうに色気づいて、宿泊学習だの修学旅行だのイベントごとに告白が流行り、泡のようにカップルが生まれては、はかなく消えていった。
火のないところにも煙をたてて冷やかすのが大好きなクラスメイトたち。唯は哲也ともうわさをたてられたことがある。
昼休み、机に伏せて惰眠をむさぼる哲也の学ランの襟を、ぐいっと持ち上げた。
「いてててっ」
「ちょっと顔かせよ」
ベランダで、となりあってしゃがみこむ。早朝は冷え込んだものの、午後からは寒さがゆるんで、陽が射している。ひと気のないところにふたりでいると、またへんな誤解をうけるから、あえて、目につきやすい教室のベランダという選択だ。蒼や多田はグラウンドでサッカーをしているという。
「森川さんたちにへんなこと吹きこまないでくれますー?」
イヤミったらしく言うと、哲也は、だってさ、とぶうたれた。
「森川、ぼくが唯ちゃんに気があるって勘違いしてて。あいつ、べつにぼくの彼女でもなんでもないのに、すげーねちねち言ってくるから。だからー、唯ちゃんは蒼の彼女だって、言ってやったってわけ」
「言ってやったってわけ、じゃねーよ」
ぽこんと、哲也の頭を小突く。いてーっ、と哲也はわざとらしく顔をしかめた。
「いいじゃんべつに、もうほとんどつき合ってるようなもんだし」
「何度も言うけど、そのつもりはないから」
唯は、ふっと真顔になる。
「ていうかさ、なんであんた、そんなに一生懸命なわけ、その、あたしと」
蒼を、くっつけるために。もごもごと、口ごもる。
「んー」
哲也は天をあおいで、まぶしそうに目をほそめた。
「ま、ほかの女子よりは唯ちゃんのがマシかな、ってだけ」
「はあー? 相変わらず意味不明だね、哲也って」
「ぼくからすると唯ちゃんのが意味不明。好きなくせにさー」
「まだ言うか? しつっこいなあー」
もう唯には、怒る気力も、否定する元気も、残っていなかった。もはや、認めようが認めまいが、おんなじことなのだ。
「くっつけー。はやくくっつけー」
調子にのった哲也がはやしたてる。むり、と唯は力なく言いすてた。
「むり。あたし、転校するから」
「……唯ちゃん?」
「引っ越すんだ。お父さんとこに、行くんだ」
「それマジ? いつ?」
「修了式終わってから。進級するタイミングで転校するんだ。高校も、たぶん、向こうの学校を受ける」
やっぱり家族三人、一緒に暮らしたいと母は言った。唯も同じ気持ちだった。
今回は無事だったからいいけど、脳卒中とか心筋梗塞とか、一刻を争うような病気だったらと思うと血の気がひく。そんなときにそばにいられなかったら、一生後悔するだろう。
もちろん、いずれ自分は大人になって両親のもとを離れてしまう。かれらを置き去りにする。だからこそ今だけは、そばにいたいと思う。
「まだ誰にも言わないでね」
唯は立ち上がって、スカートについたほこりを払った。
残された日々は、まるでひかりをまとっているみたいで。まぶしくて、輪郭がにじんで溶けて、胸が痛くて、めまいがしそうなほどだ。
普段通り、ほのかと一緒に登校して。茅野とふざけ合って。美術室で絵を描いて。ときどき、蒼たち四人で下校して。それだけで、なにも変わらないのに。
母のブログはまるごと消去されていた。彼女なりに思うところがあったのだろう。やっぱりあれはお母さんのブログだったんだ、と唯はあらためて確信した。またみょうな浮気心が起きることがあっても、もうブログはやらないだろうな、とも思った。
ほっかりとよく晴れた午後、顧問が出張で部活は休みになった。茅野とほのかと三人、自転車を押して歩く帰り道。通りすがりの家の庭の、梅の花が咲いている。
唯は自転車を止め、指でL字のフレームをつくった。
「カメラ持ってきてないのー?」
茅野が言った。唯はうなずく。
「やっぱ、こういうときは写真がいいな。あとで描くときの資料になるし」
「もう何も考えずにバシャバシャ撮りまくればいいんじゃない?」
茅野がうつむいてめがねのつるに手をかける。
「時間ないんだし」
「茅野?」
「唯ちゃん。あたし聞いたの」
ほのかが顔をあげる。
「唯ちゃんのお母さんが、うちのお母さんに話してくれたんだって。春になったら」
春に、なったら。ほのかは涙ぐんでしまい、続きの言葉を言うことができなかった。
そのまま、無言で。ゆるやかな坂道を下る。
まだ空気はつめたいのに、木々は春の準備をはじめている。梅はもう咲いた。
もう何も考えない。つまんないとか、ありふれてるとか、余計なことを考えて手を止めたりしない。大好きな友達とも、この町とも、はなればなれになってしまうから。
唯は蒼の写真を撮ることにした。絵だと自分の感情が入り込みすぎるし、まだ正確に描写できるほどの力もない。時間も足りない。だからといって、カメラも安物だし写真の知識も技術もまったくない、まさしく、ただ撮るだけ。だけど何もせずにはいられない。
まじりっけのない、そのままのすがたを。走って、ハードルを跳ぶ瞬間を。とどめておきたい。
蒼には伝えた。放課後、部活のようすを撮らせてほしいと。
「絵を描く参考にしたいんだ、人間の筋肉のうごきとか、いろいろ」
「いいよー」
あっさりと蒼は快諾した。
「カッコよく撮って」
「そんな機能はねーよ」
蒼はげらげら笑った。まだ、唯が転校することは知らないようだ。哲也もほのかも、黙ってくれているのだ。
体育倉庫前のベンチに所在なくすわって、部活のようすを見ていた。準備運動、ストレッチ、繰り返すダッシュ。友人との談笑。ハードル。
構図とか、光とか。まったく何も考えず、ただカメラを構えて。これだと思ったときにシャッターを切るだけ。アートな写真なんてとんでもない、きっとできあがるのはたんなるスナップ写真。でも今しかない。今しか、撮れない。
蒼が走る。迷いなく、ゴールだけを見つめて、ハードルを飛び越えて、飛べなくて倒して。つぎも倒して。それでも止まらない。ゴールまで駆け抜けてから振り返る。しまったー、と顔をゆがませる。そしてもう一本。ふたたびの、スタート。
唯はカメラの電源を切った。
ずっと残しておけるものがほしいと思っていたのに、レンズが邪魔になった。撮ってやろうと思う気持ちそのものが、邪魔になった。
網膜に焼き付けろ。脳みそにたたきつけろ。ちゃんと、自分の目で見ろ。
やがて陽はかたむき、練習は終わり、唯はそっとグラウンドをあとにした。
きょうはひとりで帰る。残像が消えないうちに。
しずかで穏やかな日々がつづいていた。あたらしい家も決まった。母との間に、会話ももどっていた。パート先のスーパーでの送別会の話とか、新居に持っていく家具、処分するものについての相談など。
寒い日とあたたかい日が交互におとずれて、すこしずつ、春の気配が近づいてくる。
そして修了式の日。転校のことは内緒にするようにたのんでいたけど、担任の先生に、最後ぐらいあいさつをしなさいと言われた。
ホームルームで、唯はクラスのみんなにお別れを告げた。ほのかは泣いていた。
放課後の教室で、クラスのみんなに囲まれる。
どうして教えてくれなかったの、水くさい。
元気でね。
たまにはこっちに帰ってきてね。
くちぐちに言われて、うれしかった。帰りぎわ、蒼がなにか言いたそうに唯にかけよってきたけど、ふりきって逃げた。
――ごめんね。ごめんね、蒼。




