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陸上部の練習は午前十一時に終わった。蒼の中学校では、熱中症予防のため、夏休み中はすべての運動部が午後の活動を制限されている。
むさくるしいクラブハウスで、汗をたっぷり吸ったトレーニングウエアを脱ぎ捨てる。
と、突然背中につめたい霧を吹きつけられて蒼は思わずのけぞった。
「つめてっ! だれだよっ!」
振り返ると、制汗スプレーをかしゃかしゃ振りながら、三崎哲也が笑っていた。
「腹へったー。はやく帰ろうよ、蒼」
哲也はすでに着替え終わり、制服姿になっている。さっきまで自分と同じくらい汗みずくになっていたというのに、レモンのかおりをまき散らせそうなほどにさわやかだ。
にきびひとつないつるりとした肌、さらさらと流れる髪。目は細く笑うとめじりの下がる、優しげな顔立ち。蒼よりあたまひとつぶん背が低く、からだつきも華奢だ。
着替えをすませ、チームメイトに軽い挨拶をして、クラブハウスを出る。かんかんに照りつける日差しで頭のてっぺんが焦げそうだ。
「ていうか蒼、また背、のびた? いま何センチくらい?」
並んで歩く哲也が、蒼を見上げる。蒼は、うーん、と首をかしげた。
「百七十ちょっと、くらい? わかんね」
「いいなあ。ぼく、あんまり伸びてないんだよね。一生このままだったらどうしよう」
哲也がかたちの良い眉を寄せた。
ふたりは小さい頃からこうしてしょっちゅうつるんでいる。むかしは哲也のほうが蒼より少し背が高かったのに、いつの間にか追い越してしまった。そして、その差はひろがるばかり。
「哲也は、まだスイッチ入ってないんだよ」
「何そのスイッチって」
「何だろ。脳みそか、体のどっかかわかんないけど、スイッチ的なもんがあるんだよ、たぶん。ある日カチっとそいつが押されて、そしたらぐんぐん背が伸びはじめるんだ」
「医学的根拠あんの?」
「あるわけないじゃん」
蒼はからからと笑う。
蒼の身長がきゅうに伸び始めたのはちょうど二年前、六年生の夏ごろだ。
蒼は本当に、耳の奥で「かちり」と何かが鳴るのを聞いた。以来、夜寝ていると、時折、みしみしと足や腕や背中がきしむ音がする。骨が鳴る音だ、と思う。どうせ信じてもらえないことはわかっているので、哲也にも誰にも言わないけれど。
中学校は海の見える高台にある。自転車で坂を下り切り、商店や役所のある通りを抜け、国道を渡り、畑や田んぼを縫う小道を抜けると、ふたたび視界に海があらわれる。
進むごとに、どんどん潮のかおりが強くなる。ほんとうに、海の際ぎりぎりにある集落に、蒼と哲也の家はあるのだ。
午後から哲也の家で宿題をする約束をして、ふたりはいったん別れた。数学の得意な哲也のテキストをまるまる写させてもらう作戦だ。自分とちがって几帳面な哲也の部屋はいつもすっきりしていて快適だし、ノートやテキストもふんだんに色ペンを使ってあって美しい。
高校野球を見ながらそうめんを食べ、Tシャツとハーフパンツに着がえると、蒼は家を出た。
視界に白い光がつきささって痛い。空はどこまでも青く、雲はもくもくと立ちのぼっている。ぬるい風が吹いて、潮のかおりがべたべたとまとわりついた。堤防越しに見える海は空の青より濃い青で、陽光を跳ね返してぎらぎらとまぶしい。まるでスパンコールだ。
歩いていると、海沿いの小道の先、堤防の上に腰かけている人影が視界にはいった。ショートカットの、小柄な女子。
ひょっとしてあいつか、と思って駆け寄ると、やはりそうだ。
「唯」
声をかける。反応はない。石田唯は堤防に座り、海のほうへ足を投げ出して、ひざの上に小さなスケッチブックを広げて一心になにか描いている。
「唯」
もう一度、さっきより大きな声で呼ぶと、ようやっと唯は気づいてびくっと肩をふるわせた。
「なんだ蒼か。脅かすなよ」
振り向いた唯は不機嫌そうに眉を寄せている。
「脅かしてねーよ」
蒼はすこしむっとした。
「何してんのお前、こんなとこで」
「見てわかんない?」
「わかるけど」
もごもごと口ごもる。
「こんな炎天下に帽子もかぶらずに、あぶねーだろ。いつからここで描いてんの? ちゃんと水分とってんの?」
唯が、いちど何かに熱中するとほかのことが目に入らなくなる質なのを蒼は知っている。特に絵に関してはひどい。小学生の頃から、図工の時間はひとりだけ片づけの時間を無視して怒られていたし、中学に入ってからも、徹夜で絵を描いていたとかで授業中寝ている姿をよく見る。
「水分……」
唯はぱちりと目をしばたいた。
「そういえば何も飲んでない。からっからだ」
喉がかわいていることに、今はじめて気づいたようだ。よく見れば、頬も赤く上気している。ゆらり、と唯のからだが揺れて、海のほうへ倒れ込みそうになって、蒼はあわてて唯の腕をひいた。
「ちょ、大丈夫?」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
全然大丈夫じゃないと思った。つかんでいる唯の腕は熱く、その背中も不安定にぐらりと揺れる。
「おい、降りれるか」
唯はうなずく。手を引いて堤防からひきずり下ろす。唯はその場にへたりこんだ。
蒼は自分のリュックをさぐった。部活のときの飲みかけのドリンクが水筒に半分ほど残っている。まだ冷えているはずだ。
「飲めよ」
「自分の、持ってるし」
「いいから」
なかば強引に押し付けると、唯はありがと、とちいさく言って受け取った。
唯は水筒のドリンクを一気にごくごくと飲んだ。しっとりと汗ばんだ喉がうごく。飲み干して、荒い息を吐く。
すずしい所で風に当てたほうがいい。そう思ってあたりを見回すけど、そんな場所はない。木陰すらない。
「助かった。ありがとう」
すこしだけ、唯の声に張りが戻っている。
ふらつきながら、セメントの上に散らばった色鉛筆とスケッチブックを拾うと、唯は立ち上がった。
「えっ。ちょっと待って。歩いて帰る気?」
「うん」
「やばいって。また倒れるぞ?」
蒼は唯の手から荷物をひったくった。
「おれが送ってやるから」
自分のリュックに唯の荷物を詰め、背中ではなく胸側に抱え込む。かがみこんで、唯に、背中に乗るようにうながす。
「まじ? おんぶ? それはちょっと……」
「倒れるよりましだろ? だいじょうぶだって。誰もいないし」
「悪いよ。だって、今からどっか行くんじゃないの?」
「いいんだよ。友達が具合悪いの、ほっとけないだろ?」
その言葉で、唯は心を決めたのか、遠慮がちに蒼の背中にもたれかかった。
よっ、と気合の声をあげて立ち上がる。やせてるくせに意外に重いでやんの、と思った。
よほどきつかったのか、唯はぐったりと力を抜いて、蒼の背中に全身をあずけている。首すじに唯の、茶色がかったくせっ毛が触れる。
かちり。
耳の奥で何かが鳴るのを、蒼は聞いた。スイッチが押された。
その瞬間。
病気かと思うぐらいに心臓が暴れ出しはじめる。
――何だこれ。すごいドキドキする。やばい。よくわかんないけどやばい。ていうか唯ってやわらかい。髪のにおいする。汗? シャンプー? わかんね。わかんないけど心臓やばい。
自分まで熱中症になったのかと思った。それくらい頭もからだも熱く火照っている。
――だめだだめだだめだ、ダチが具合悪くてピンチだっていうのに、どきどきしている場合じゃない!
すーっとゆっくり息を吐いて、鼓動をしずめる。
やっとのことで集落のはずれにある唯の家に着き、ドアの前で「ごめんくださーい」と大声で叫ぶと、すぐにとびらが開いて彼女の母が出てきた。
「あら、蒼くんひさしぶり。って、あら? 唯?」
背中から唯を下ろして引き渡す。「あら、あら、あら」と唯の母はおたおたしている。
「熱中症になりかけてるかもしれないです。とりあえずすずしいところに寝かせて、水分取らせたほうがいいと思います」
いちおう、運動部に所属しているし、炎天下で具合が悪くなったときの対処法は顧問に教わっていた。おそらく唯はそこまで重症ではないと思うが、あなどれない。
「だいじょうぶ。寝てればなおるよ」
不安げな母にむかって唯が強がりを言う。伸ばされた手をふりはらって、自力で立ち上がって歩きだす。
「唯ちゃん、どうしたの?」
手前の部屋から、女の子がひょっこりと姿を現した。相沢ほのか、唯の親友。
「あっ。蒼くん」
ちいさく叫ぶとほのかはまたひゅっと身を隠した。
「おじゃまします」
蒼は家へあがった。おばさんは、どうもいまいちたよりない。
なつかしい匂いがする。よその家の匂い。哲也の家にも、唯の家にも、それぞれの「匂い」がある。一瞬で、ここに遊びに来ていた小学生の頃を思い出した。ほんの二年前のことなのに、ずいぶん遠くに感じる。
空調のきいたリビングのソファに、唯は仰向けに転がっていた。そのそばに、ほのかが心配そうに寄り添っている。
「ほのか」
呼ぶと、ほのかはぴくんと縮こまって蒼の顔をのぞき見た。
「顔とか冷たいもので冷やしてやって。どんどん、何か飲ませて」
青ざめた顔で、ほのかは、こくんとうなずいた。大丈夫か。
「じゃおれ、帰るから」
後ろ髪をひかれる思いできびすを返すと、「蒼」と、背中に声が刺さって振り向く。
「ありがとう」
唯が笑った。そのとたん、また心臓がこわれたみたいに暴れだす。
「おまえさ。気をつけろよ」
動揺を隠したくて、つっけんどんな言い方をしてしまう。
「わざわざ、なんであんな炎天下でスケッチなんかしてんだよ」
「……あの時間の海を」
唯の、かすれた声。
「残したかった。いろんな季節の、いろんな瞬間の海を、描いてみたかった」
なんだそれ、と蒼はため息をつく。
結局蒼は、唯が調子を取り戻すまで、彼女の家に居座ってしまった。