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つぎの日の朝にはもう、ふたりの派手なケンカのことは学年中に広まっていて、唯は男子たちから「猛獣」と言うあだ名をつけられた。しかし反撃がおそろしいので面と向かって呼ぶものはいない。
それだけならばまだよかったのだが、なぜか、ケンカの原因が「哲也が唯に告白して、断られたから」ということになっていたのはいただけない。
どうしてこうなった。哲也は頭をかかえた。事実無根なうえに、それじゃあまるで自分はふられて逆切れしたしょうもない男みたいじゃないか。
それに。
蒼が、ずっと哲也に対してよそよそしい。言いたいことを飲みこんで我慢しているような、どこか申し訳なさそうな、哀しげな目をしてちらちらと哲也のことを見るのだ。
もう、ため息しか出ない。完全に、誤解されている。
読みかけの文庫本をひらいて文字を追いかけるけどぜんぜん頭にはいってこない。
「三崎クーン」
多田が、背後から哲也に飛びついてきた。不意をつかれて、、ぐえ、とカエルみたいな声がもれる。
「やっぱさあ。モテモテの三崎くんとしてはあ。女子にふられるっていうのはあ、プライドがずたずたって感じなんですかねえ?」
「うるさい多田」
背後霊のように肩に巻き付いた多田の腕をひきはがす。
「ていうか、そもそも石田唯になんて告ってないし。考えてもみろ、あんなん好きになるわけがないだろ」
昨日のことを思い出すとふつふつと怒りがわいてくる。
多田はにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
「だって小学校のときは仲良かったじゃーん。それにさ、哲也が『好き』とか『つき合え』とか言ってんの、みんな聞いてるんだよ?」
「そ。それは」
目的語が抜けている。「蒼を」好き、「蒼と」つき合え、と言ったのだ、自分は。
「あたしも好きですって言えよ! って叫んでたらしいじゃん? 哲也ったら実はオレ様キャラ?」
だから、それは「蒼に」だ。だけどそんなこと言えやしない。
多田は、うんうんとうなずいて、はげますように哲也の肩をたたいて去って行った。
女子にも波紋は広がっている。昼休み、哲也がひとりになったタイミングをついて、森川理穂が目に涙をうかべながら、数人の女子とともに哲也に詰め寄ったのだ。
「三崎くんの嘘つき。好きな子がいるなら、ちゃんとそう言ってほしかった」
そうよそうよ、と取り巻きが賛同する。
「春になったらもう一度告白したいだなんて、あたし、ばかみたい」
涙があふれ、理穂の可愛らしい顔を濡らし、取り巻きたちがくちぐちに「理穂かわいそう」と言いつつ哲也をきつくにらんだ。
もう、勘弁してくれ。
奇しくも今日から合唱コンの練習がはじまった。指揮棒を持つ蒼は心ここにあらずだし、男子たちは噂話のせいで浮き足だっているし、女子たちは哲也に敵意をむけ、唯には嫉妬のまなざしを送っている。
指揮棒があがってもざわめきは収まらない。委員長の榎木が注意してもだれも聞かない。伴奏にも耳を傾けない。半数にも満たない真面目な生徒たちが、ほそぼそと歌っているだけ。
だんっ、とピアノが鳴る。
突然のことだった。全員が、一瞬でしんと静まり返る。茅野だ。
「あーもう無理。こんな不協和音、無理」
茅野はぼりぼりと頭をかきむしる。
「みなさん。歌うたってるときは、歌のことだけに集中してくれませんかね? それから指揮者も。まだうまくできないのは仕方ないから、そこは言わないから。せめて、背すじをのばして堂々と棒振ってくれませんかね?」
たんたんとした丁寧語に、妙な威圧感がある。
そのあとの練習はスムーズに進んだ。蒼も反省したのか、みなが解散したあと、ひとりじっと、指揮棒の先を見つめていた。
哲也は思い切って声をかけた。
「一緒に帰ろう」
「……哲也」
「話があるんだ」
堤防から浜に下りる小さな階段の途中に並んで座り、自販機で買ったあたたかい缶コーヒーを飲む。うす青い空に一番星が光っていた。水平線の際には、まだ夕焼けの名残のオレンジが残っている。
「今年はじめての『あったか~い』だ」
と言って蒼はさびしげに笑った。
自分より頭ひとつぶん背の高い親友の横顔を、哲也はじっと見つめる。ずっと隣で見つめていたいと思った。蒼のとなりに居るのは、一番ちかくに居るのは自分だ。これまでも、これからも。
熱い苦い液体が喉を伝って胃に落ちる。話を切り出したのは蒼だった。
「ごめんな」
「え? なんで? なにが?」
「いや。おれ、自分のことばっかで。哲也の気持ち、気づかないふりしてたから」
「ぼくの気持ち?」
「ん。哲也も、唯のこと好きなんだろ?」
「それは誤解」
「いいんだ」
蒼は哲也のことばをさえぎった。
「前から思ってたんだ。ひょっとして哲也も、って……」
バカだな、と哲也は思った。マジでバカだ、どいつもこいつも。
コーヒーを口にふくむ。蒼はつづける。
「おれさ。哲也が唯のこと好きでも。誰のこと好きでも。好きなやつかぶっても、ライバルでも。哲也とは親友でいたいんだ」
あー、こういうこと面と向かって口にするのは照れるな、と蒼は折り曲げたひざにあごをうずめた。
「哲也は、どうだ?」
まっすぐな目を哲也に向ける。まっすぐすぎて、胸が鳴ってしまう。そらしたいけどそらせない。蒼は男で、自分も男で、親友で、それなのに自分だけがどきどきして目をそらしてしまうなんてありえない。
どうして、どうして自分は。自分のなかの何かは、蒼を選んだんだ?
ぐるぐると想いはめぐる。蒼は、じっと目をそらさず、哲也の答えを待っている。胸が詰まってくるしい。
「親友だよ、もちろん」
哲也は言った。ちゃんと、言えた。
「でも、唯ちゃんのことは誤解だから」
ここは譲れない。
「こんなこと、だれにも言ったことはないんだけど」
しずかに切り出した。波の音がひびく。潮風が髪をなぶる。
「唯ちゃんにかぎらず。そもそもぼくは女の子を好きになったことがない。レンアイっていう意味では、だけど。興味がないんだ」
蒼はだまって哲也のことばに耳を傾けている。心臓がはげしく鼓動をうった。
これから話すことを、蒼ははたして受け入れてくれるだろうか。おかしいと思われないだろうか。哲也は、すうっと、つめたい潮風を吸う。
「部活のあと。しょっちゅうさ、エロい本とかDVDとか、まわってくんじゃん?」
男子部員のあいだで慣習となっている、秘密の貸し借り。兄貴の秘蔵DVDだとか、お宝だとか言って、だれかが持ち込んでくるのだ。
「うん」
「みんなの手前、ぼくもいちおう、借りてくんだけど」
「うん」
「観たことないんだ」
「…………」
「いや。ちょっとだけ、試しに観たことはある。でも駄目だった。気持ち悪くて、すぐ消した」
蒼はなにも言わない。
「おかしいよな。興味ないんだ。まったく興味がわかないんだ。女の子のからだにも、エッチにも」
同級生の男子たちが集まって猥談をしているときの雰囲気が苦手だ。そういう場にいるときの蒼の顔は、怖くて見れない。自分の知っている蒼じゃない。
ややあって、蒼が口を開いた。
「おかしく……、ないんじゃないか?」
「え?」
「ていうか、ちょっと感づいてたっていうか。下ネタ苦手だよな、哲也って」
「う、うん」
そういえば、蒼は、ふたりでいるときはその手の話をいちども哲也に振ってきたことはない。ほかの男子もいるときに、会話がエロい方面に流れそうになるときは、哲也はいちはやく空気を察して、そっとその場からフェードアウトしている。蒼はきっとそれなりにみんなと楽しく盛り上がっているのだろう。
「おかしくねえよ」
蒼はきっぱりと断言した。
「おかしくなんてない。気にすることない。哲也はまだ、スイッチが入ってないだけだ。人それぞれ、タイミングがちがうんだよ。それだけだよ」
哲也の顔を見て、にいっと笑う。
「そうだね」
と。哲也は言った。そう言うしかなかった。
自分が一番わかっている。スイッチは入らない。
ぼくには、女の子のからだを欲しがるスイッチは、ないんだ。
そもそも、ないんだ。
コーヒーはもうぬるくなっていた。ふたりはしばらく波の音にもまれていた。海をながめる蒼はなんだかおだやかな顔をしていて、それを見ていたら、今日一日荒れたり落ちたり波の激しかった哲也の心も、だんだんと凪いでいくようだった。
もうしばらくこうしていたい。
自分と蒼はべつの人間だから。こんなに近くにいるのに、いちばん大切なことは伝えられずにいる。いや、近くにいたいからこそ、伝えるべきじゃないのかもしれない。
だけど今だけは。
波の音しかしない世界で、自分たちふたりは、透明な、大きなシャボンの膜のなかに閉じ込められているような気がした。時間の流れない世界。哲也と蒼しかいない世界。
ぐう、と間抜けな音がひびく。シャボン玉がはじけた。ごめん、と蒼がわらった。
「腹へった。そろそろ帰ろうぜ」
あーあ、消えちゃった。哲也は苦笑して、立ち上がる。




