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五時間目、合唱コンの話し合いの最中だというのに、唯は机につっぷして堂々と寝ている。前のほうの席なのに度胸があるよな、となんとなく感心してしまう。
哲也の席はいちばんうしろなので、クラス全体のようすが見渡せるのだ。たとえば蒼は相変わらず唯のことを見ているし、ほのかも唯のほうをちらちら見ている。
唯が蒼を見つめていることに気づいたのは、二年に進級して最初の席替えがあったときのことだ。ちょうど、蒼が唯のななめ前の位置にいて。身長の関係で、すぐに蒼はうしろの席に移動してしまったけど、唯はたしかに名残り惜しそうだった。
おや? と思って休み時間に注意して観察してみると、友達と談笑しながらも、唯はちらちらと蒼を気にしているのだった。
唯ちゃん、蒼のこと好きなんだ。
そう確信した瞬間の胸のざらつきを、いまだ哲也は覚えている。最初、自分は唯のことが好きなのかなと考えた。そうかこれがうわさの恋ってやつか、なんて、やけに冷静に思ったりなんかして。
だけどちがった。夏休み、蒼が哲也との約束をすっぽかしたあの日。電話で「唯のことが好きになった」と告げた蒼。
夏なのに、すっと世界が冷えた気がして。
蒼がだれかのことを好きになるなんて想像したこともなかった。あんなに、だれかにのぼせあがってしまうなんて、考えられなかった。ショックを受けている自分にたいしてショックを受けた。
しかも相手は唯、両想い確定じゃないか。
哲也は蒼をあおりにあおった。肝試し大会の裏工作までして協力した。はやくつき合えよ、さっさとくっついてしまえ。本気でそう思っていたのだ。
だれかに、自分の蒼への気持ちがうそなんだと言ってほしかった。うそなんだと思いたかった。それが無理なら、あきらめさせてほしかった。
ぱちぱちと拍手が沸き起こって、哲也は我に返った。茅野千歳が起立してぺこりと頭を下げている。黒板の、「伴奏者」の文字の下に彼女の名前がある。
「えーっと、ピアノは去年辞めて以来ずっと弾いてないんすけど。そもそもショパン程度しか弾けないんすけど。ま、選ばれたからには頑張ります」
などと、自慢だか謙遜だかわからない調子で抱負を述べている。さっきまで寝ていた唯も顔をあげて拍手をしている。
「えーと。あとは、指揮者。だれか立候補するひとはいませんか」
教壇から身を乗りだすようにして委員長の榎木が声をはりあげるけど、だれも手を挙げない。
「えーっと。委員長のぼくも伴奏の茅野さんもサポートするんで。だれか、いませんか。いないなら、推薦でもいいです」
そこでお調子者の多田がいきおいよく手を挙げた。
「高島くん! 高島蒼くんを推薦しまっす!」
いきなり名指しされた蒼があわてて割り込む。
「ちょっ! なんでおれ? 自慢じゃないけど楽譜なんてさっぱり読めないんだぞ!」
「いいのいいの、指揮なんてゆらゆら腕振っとけばいいの!」
「じゃあお前がやれよっ」
「おれはヤダ。蒼がやれよー。走れなくなってヒマっつってたじゃん! バンドやりてえとか音楽いいよなとか言ってたじゃんかー」
「言ってたけど! たしかに言ってたけど!」
いろんなやつに滅多やたらと自分のことを言いふらすもんじゃないな、と哲也は思った。
結局、蒼の「音楽やりたい」という愚痴をきいていた男子たちがつぎつぎに多田に賛同し、ほかに候補が挙がらなかったこともあり、蒼は指揮者になってしまった。
わきおこる拍手のなか、蒼は仏頂面で、
「どーなっても、知らねえからな」
とつぶやいたのだった。
合唱の練習は、明日から音楽の時間と放課後の時間をつかって行われることになった。部活をやっている者も、大会やコンクールなどが差し迫っている者以外は合唱優先で、ということだ。さしあたって今日の放課後は、伴奏の茅野と指揮の蒼が委員長と一緒に音楽室に楽譜をもらいに行くそうだ。
哲也はいつも通り陸上部の練習に出た。
澄んで、高く遠のいた空にいわし雲が浮かんでいる。すずしい風を切って走るのが気持ちよかった。
少し、蒼のことを考えた。合唱なんて気乗りしないと言っていたけど、なにもやることがないよりはいいよな。
練習を終えて帰るころにはもうすっかり日は落ちていた。たそがれの、うすむらさき色の空に白い月が浮かんでいる。
「哲也せんぱーい。また女子が先輩のこと待ってます」
一年の男子に声をかけられる。
「こないだとは違うひとです。まじ尊敬します、先輩のこと」
きらきらと犬のごとく目を輝かせた後輩に引きつった笑みを返し、哲也はクラブハウスを出た。
果たして、哲也を待っていたのは唯だった。
「あれ? 唯ちゃんどうしたの? ぼくに用? ひとり? ほのかちゃんは?」
「哲也に用。いや、すぐ済むから時間はとらせない。ほのかは音楽室で茅野の伴奏の練習につき合ってる。あたしは部活に行った」
唯は、哲也の質問に律儀にぜんぶ答えた。
「ふーん。茅野さんたちまだやってんのかな。熱心だね。そういや蒼も音楽室行ったな。指揮の練習させられてんのかな?」
さりげなく蒼の話題を向けて、唯の挙動を観察する。案の定、蒼の名前が出たとたん、唯は視線をそらして口を引き結んだ。
沈黙が降りる。
「用ってなに」
「あ。うん」
唯は哲也から目をそらしたまま、右手で、サブバッグを持っている自分の左腕をぎゅっと抱きしめた。
「えっと。蒼、の、ことなんだけど」
「うん」
やっぱりそうか、と思う。
「多田が言ってたじゃん? 走れなくなった、って。あれ、どういうこと?」
本人に聞けばいいのにと思ったけど、口にしない。
「あー。オスグッド症候群」
「えっ」
聞きなれない病名に驚いたのだろう、唯はすがるように哲也を見つめた。
――そんなに心配なら、どうして蒼のことをふったりするんだよ。
「成長軟骨っつーのが裂けてんだって。骨がぐんぐん成長してて、筋肉がそれに追いつけなくてそうなるんだって。いまは先生やお医者さんと相談しながら、休み休みトレーニングしてるんだ」
蒼の説明がざっくりしすぎていたから、自分でも調べた。成長期に特有のスポーツ障害。哲也だって成長期だしスポーツをやっているわけだから、これは自分のためでもある。
「じゃあ、骨が伸びるのが……、背が伸びるのが止まったら、痛くなくなるの?」
「無理しなければね、たぶん。くわしいことは医者じゃないからわかんないけど」
「そっか、よかった。サンキュ哲也。悪いね時間とらせて」
唯の、晴れやかな笑顔。哲也の胸のなかに、ちくり、棘がささる。その痛みはじくじくと、全身をむしばむように広がっていく。
「っつーかさ」
自分でも聞いたことのない、つめたい声が聞こえた。自分の声だ。
「わかんないんだけど。なんで唯ちゃんは蒼とつき合わないわけ?」
「は?」
「ぼく、ぜんぶ知ってんだけど。蒼の知らないことも知ってんだけど。ずいぶん前からだよね? そうやって蒼のこと気にしてんの」
「気にしてないし」
「気にしてるじゃん。げんに、ぼくのこと待ち伏せまでして蒼の足のこと聞いてんじゃん。気が気じゃなかったんでしょ? 心配でたまらなかったんでしょ?」
「ちがうし。ていうか、友達の心配して悪い?」
「友達なら、本人に直接聞けばいいじゃん」
「それは」
「聞けないんだよね? ふっちゃったから。なんで? なんで蒼から逃げるの?」
唯は答えない。哲也はどんどんヒートアップして、もうほとんど喧嘩腰だ。
「唯ちゃんさあ、そうやって蒼の気持ちもてあそんで楽しい? ねえ、楽しい?」
「も、もてあそんでなんか」
「もてあそんでるじゃん!」
大きな声が出てしまう。唯は、ぎり、と歯をくいしばって、哲也の顔をにらみつけていたが、やがて、ふっと顔をそらすと、
「哲也にはわかんないよ」
と、つぶやいた。その瞳がせつなげにうるんでいる。
「あたし哲也がうらやましい。哲也に、なりたい」
そのせりふを聞いたとたん、哲也の中で、何かが切れる音がした。
「ふざけんなよっ!」
怒鳴る。顔を真っ赤にして怒鳴る。
唯が一瞬ひるんだのがわかったけど、止まらない。
「ふざけんじゃねえよっ! なにが哲也になりたいだっ! バカか? バカなのかおまえはっ!」
哲也の豹変ぶりに、唯は目をまるくして、若干身をひいた。むりもない。穏やかで温厚でだれに対しても優しいのが哲也なのだ。小学校時代からずっとだ。ほかの男子が連れ立って女子をからかっていても、その輪にはけして加わらない。あらあらしい喧嘩もしないし、だれかを怒鳴りつけることも皆無、それが哲也だったのだ。
「てつ……哲也? ちょっと落ち着こう?」
「だまれ唯」
もはや呼び捨てだ。
「なんでそんなに怒ってんの? 意味わかんないんだけど」
「意味わかんねえのはおまえだろ? この意地っ張り! バカ! バカバカバカ!」
一方的な罵倒がつづく。ほのかなら怒鳴られた時点で泣いているだろうけど、あいにく唯はそんなタマじゃない。
「はあ? バカっつーほうがバカだろ?」
反撃に出た。
「いーや。唯はバカだ。蒼のこと好きなくせに! 好きなくせに好きなくせに!」
「好きじゃねえよッ!」
こんどは唯が怒鳴った。
「いーや好きだね。大好きだね」
つかみかかろうとする唯からひらりと身をかわし、哲也は不敵な笑みをうかべる。
「こんのぉ……」
唯は持っていたサブバッグを思いっきり哲也の顔面に投げつけた。クリティカル・ヒット。
「くっそ。くっそ、この野郎」
「許さん哲也め」
唯はぼこぼことバッグで殴りつけてくる。ぐあーっとクマのように両手をふりまわして唯の攻撃を振り払うと、哲也はなおも叫んだ。
「さっさとつき合えよ。オッケーしろよ。あたしも好きですって言えよッ」
「だれが言うか!」
唯は哲也の学ランの胸ぐらをつかんで、低い声で告げた。
「ぜったいつき合わない。それと、お前とは絶交な」
「のぞむところだ」
ぱしん、と唯の手を振り払う。ふん、と鼻を鳴らすと、唯はぺしゃんこにつぶれた自分のサブバッグをぱんぱんとはたいた。
「ゆいちゃん……」
と、泣きそうにかぼそい声がしたのは、その時だった。
ふたりのすぐそばに、ほのかと、茅野と、蒼が、ぼうぜんと立ちすくんでいた。ほかにも、陸上部の面々や、練習を終えて帰るところだった運動部の連中が、プロレスの観戦よろしくふたりをまるく取り囲んでいる。
ふたりとも頭に血がのぼりすぎて気づかなかったのだ。ひどく疲れて、哲也はがっくりと肩を落とした。




