18.ソウル・混乱の中で
ジヨンの授乳を終え、寝かしつけた百合がリビングに戻ってきた。まったく頭も気持ちも整理が付いていなくて、何から話せばいいのかよくわからない。きっとオレもそうなんだろうが、百合の顔色も真っ青だ。お互いにとって予想外の再会は、あまりにその衝撃が大き過ぎて、一体何をどうすればいいのか見当も付かない。
…とても冷静になんか話せやしない。何がどうなったら、オレの子供を、オレに黙って、オレの住んでいるソウルで1人で産んで育てるっていう結論になるのか。驚きを通り越して怒りの気持ちが湧いてくる。そんなにオレは頼るに値しない、生まれてくる子供の父親としてふさわしくない男なのか…。次は、湧いた怒りが一気に萎んで無力感に襲われる。
それでも、今、考えなくてはいけないのは、ジヨンにとってどうするのが1番いいのか、に尽きる。
一生父親のいない、父親を知らない、母親しか頼ることのできない片親の子供として育てるつもりだったのか?オレも百合も親や肉親の愛情に満たされずに育って、その寂しさや惨めさはよくわかっているはずじゃないか。それを我が子にも強いて、何故平気なんだよ!?口を開けばキツイ言葉が次から次へと溢れてきそうだった。そんな修羅場を迎えたくなくて、オレは少しでも落ち着こうと、目を閉じ掌を堅く握って怒りを静めようと心がけた。
先に口を開いたのは、百合の方だった。
「ジヨンに会えてうれしい、って言ってくれてありがとう。グスグス泣いてたのに、テオクにそう言われたら、あの子ニッコリ笑ってた。あんな笑顔を見せたのは、生まれて初めてだったのよ。初めての笑顔を、テオクに見てもらえてよかった…。本当に、よかっ…。」
最後の言葉は、涙にかき消されてよく聞き取れなかった。堪えても抑えきれない嗚咽が、俯いたままの百合から漏れる。少しやつれた細い肩が小刻みに震えて、見ているオレの胸を痛めつける。オレは、たまらずその細い肩を抱き寄せた。
泣いちゃダメ!って思えば思うほど、抑えてきた涙が溢れて止まらない。さっきあんなに泣いたのに、どうしてテオクのための涙は尽きることが無いのだろう。この場面で泣くのは卑怯だとわかっていても、嗚咽が漏れて止まらない。…と、いきなり力強い腕に抱き寄せられて、私はテオクの腕の中に閉じ込められた。
「自分の言いたいことだけ言って泣くのは、卑怯だろ、百合。おまえに泣かれてオレが放っておけると思うのか?どれだけオレを見くびってる?そんなにオレは頼るに値しない男なのか?教えろよ、百合。なあ…。」
そう言いながら、テオクの体も震えている。私は、どれだけこの人を傷つけたんだろう。この人のためにこうするのが1番いいと思ったのは確か。けど、本当に優しくて、困った人のためなら手を差し伸べるに躊躇しないこの人にとって、それは間違いだったの?わからない…。それに、今は何も考えたくない。あともう少し、もう少しだけこのままいさせて欲しい。夢にまで見た、テオクの腕の中に…。私は、そこで意識を手放してしまった。
自分の体の震えを止めることもできず、それでも、会いたくてたまらなかった百合を離したくなくてぎゅっとすがるように抱きしめていると、ふっと百合の体から力が抜けた。何かおかしいと思って腕を緩めると、百合は完全に気を失っていた。思いがけない再会で百合の受けたショックの大きさがそれでわかった。そして、オレの腕の中でなら意識を手放すこともできるのか、とほんの少しだけ安堵もした。
何故こんな選択をしたのかは、ちっとも理解できないけれど、この選択をしたことで百合には大きな負担が掛かったはずだ。ただでさえ、妊娠・出産は大仕事なんだろうに、1人ですべてを抱え込んだのだから、きっとしなくていい苦労もずいぶんとしたことだろう。それに、オレに黙っていることだけだって相当な負担だったはずだ。こんな風にオレの腕の中にいることで安心できているのだとしたら、オレに会いたくなかった訳じゃないことは想像が付く。会いたいのに会わないでいることがどんなにツライかは、オレ自身が身をもって知っている。…せめて、意識のない今だけはしっかり抱いていてやろう。それぐらいしか、今のオレにはできないんだから。
そうやってしばらく抱いていると、遠くで小さな泣き声が聞こえてきた。ジヨンが目を覚ましてぐずりだしたようだ。百合はまだ目を覚ましそうにない。オレは、そうっと百合をソファに横たえてオレのジャケットを掛け、ジヨンが泣いている子供部屋に入った。
かわいらしい明るい部屋のベビーベッドで、ジヨンがグスグス泣いている。とりあえずその小さな体をそっと抱き上げてやる。
「あったかい…。」
思わずそう口に出してしまうぐらい、寝起きのジヨンはあったかくて、その存在をオレに伝える。まだ本当に小さくて、ちょっと抱くのが怖くもあるけれど、それを補って余りあるぐらいに、愛しさが湧いてくる。
「ジヨン、ママをもう少しそっとしておいてやろうな。パパじゃお腹いっぱいにはしてやれないから、せめてお歌を歌ってあげるよ。パパのおじいちゃんも好きで、パパとママも思い入れのあるお歌だ。ジヨンも気に入ってくれるといいな。じゃ、歌うよ。♪~。」
♪Moonlight Serenadeを歌いながら、背中をトントンしてやると、グスグス泣いていたのが収まって、ウトウトと今にも眠りにつきそうだ。
「ジヨン、おまえもお歌が好きかな?パパは小さい頃から好きだったって。パパ、次に来る時には、もっとかわいいお歌を覚えてくるから。いっぱいいっぱい歌ってあげるよ。だから、いい子で、ママを困らせないようにな。ママは、パパの分も1人でがんばってるから、大変なんだ。ジヨン、頼むよ。男と男の約束だ。わかったかい?」
オレがそこまで話し終わると、ひとつふあ~とかわいいあくびをして、ジヨンはホントに眠りに落ちた。そっとベッドに寝かせてやると、規則正しい呼吸で眠ってくれた。
背後でコトっと音がしたので振り向くと、目を覚ました百合が泣きながら立っていて、オレがここにいるのがわかると、小走りに駆け寄り抱きついてきた。
「どうした?」
「目が覚めたら、せっかく会えたテオクがいなくて…。まだ何も話してないのに、いなくて…。私…。」
「そんなに怖がって、悪い夢でも見たのか?」
「夢じゃなくて、テオクがいなくなるのが怖かったの。だって…。」
「だって、何?」
「だって、夢だといつも消えちゃうから。会えた、と思っても次の瞬間には消えちゃうの。今日は、夢じゃないはずなのに、気が付いたらいなくて、また消えちゃったのかと思って…。」
「百合、ちゃんといるだろ?今、ここにオレがいる。わかるだろ?」
「うん…。」
とにかく不安げな百合は、オレの腕の中にいるのに自分でもオレの服をしっかり掴んで、離れずに済むように必死になっている。まだ少し夢と現実の区別をつけられずに混乱しているようだ。こんなに気持ちが弱っているなんて、今までどれだけ我慢してきたんだろう?いや、オレが百合に我慢をさせてきたのか?なぜ、百合はオレに何も言えなかった?百合が混乱していることで、逆にオレは冷静になれて、こんな状況を招いた原因について考えてみた。思い当たることは一つしかない。
…オレの仕事のせいなのか?グループとしてある程度知名度も上がってそれなりの位置にいるオレ達。個人での仕事も今は順調だ。けれど、人気稼業の常で、何かほんの小さなことで人気が急落することだって無い話じゃない。20代中盤のオレ達は、まだまだカテゴリー的にはアイドルの範疇で、ファンの中心は10代、20代の女の子たちだ。大して中身の無い恋愛スキャンダルでも大騒ぎになるのに、本気の恋愛、その上結婚となれば、ダメージは少なくないかもしれない。その上、年末からの入隊でしばらく自身でのフォローもできない。だからなのか?少なくとも兵役が終わって戻ってくるまで黙っているつもりだった?あり得ない話じゃない。奥田の家に入って以降は、耐える人生をずっと送って来た百合は、自分を犠牲にすることに慣れてしまっている。だから、今回もそう考えたのか?不幸な人生が、百合をマイナスな思考に傾けてしまった?そんな…。
必死にオレにしがみつく百合を、もう1度しっかり抱きしめて、オレはどうしたら今の百合を安心させてやれるのかを考えていた。
次話は、テオクのメンバーとの仕事先でのお話になります。スピンオフで描く他メンバーのエピソードにも少し触れています。
よかったら、また、お付き合いください。