別れ~君を持っている~
「フヒト殿!」
地響きとともに、氷塊となって砕けた竜は崩れていく。
しかし溶岩はまだ残っていた。砕け散った竜の破片は赤い海に浮かび、やがて溶けて沈んでいく。
倒れた不比等を乗せた氷塊も、やがて同じ運命をたどるはずだった。
「助けに行かねば!」
真っ先に、シンデレラが動いた。
だが、主を失った幻影の塔はそれを許さなかった。激しい鳴動が始まり、立っているのも難しい状況となる。
シンデレラもまた、溶岩の近くで態勢を崩し――
「おっと」
すんでのところで誰かに支えられた。
「やめときなって。お姫さんにはちょいと、この場はきつ過ぎる」
「す、すまない……貴女は?」
助けたのは、灰色の長い髪を伸ばした女性だった。その顔に走る傷の位置に、シンデレラは見覚えがあった。
「貴女は、もしや」
「しっ、時間がねぇ。アイツは私が助けるから、とっとと避難しな」
言うなり、粗末な上下を着た女は地面を蹴った。端倪すべからざる脚力で遠く離れた氷塊に着地すると、そのまま不比等の元まで氷塊の間を渡っていく。
「お行きなさい」
氷の女王がシンデレラに告げた。
「ここは我々の世界から隔絶された場所。主を失えば、そのうち出口がなくなるでしょう」
「……彼をどうする気だ?」
「どうにも。『灰色の古狼』が助けたら、我々も脱出します」
「やはり、彼女は古狼だったか」
ひとまず女王たちの言葉を信じ、シンデレラは踵を返して、走り出す。
不安そうな妖精が彼女を待っていた。
「シンデレラ様……」
「大丈夫だ、エインセール……信じよう」
震動に揺れる通路を、走っていく。
「……」
ヴィルジナルは塔内から全員が出ていく頃合いで、視線を転じた。
彼女の傍らに、不比等を咥えた『灰色の古狼』が降り立ってくる。
「ご苦労様、アセナ」
ねぎらいの言葉とともに、彼女の周囲で精緻な魔法が組み上げられる。
「後で嘘つきって言われるぜ、アンタ」
狼の口から、皮肉が聞こえてくる。
雪の女王はそれには答えず、魔法を発動させた。
その場の全員が、いずこかへと消えた。
「…………」
不比等の意識は、身体の痛みとともに覚醒した。
辺りは薄暗かった。背中の感触からおぼろげに、自分が横たわっていることも分かった。
身体が重い。今日まで、途方もなく長い道のりを歩んできた。それゆえの疲労だ。
それだけではなかった。悲しみが心を支配している。
もはや帰ったところで、意味はあるのだろうか?
……帰る?
なぜそんなことを考えた?
自分に問いかける。その意味がおぼろげながら分かりかけた時、衝撃が彼を襲った。
「――きろ! 起きろ、このデクノ坊が」
すぐ近くで苛立たしげな声が聞こえる。
最後の言葉とともにまた蹴りが放たれるのは『視えて』いた。
「やめてもらえるか、アセナ」
パッと起きあがると、不比等はアセナの蹴りを躱した。
「普通に起こすとか、できないのか?」
「チッ、優しくしてほしきゃ、別の奴に頼めばいい」
顔をしかめてこちらを見るアセナから視線をはずし、周囲を見る。
覚醒し始めた目で周りを見れば、そこは森だった。
「ロゼシュタッヘルか」
太陽の光を覆い隠すほどの、密に生い茂る木々やそれに巻き付く茨の群れ。
この世界に初めて来た時に見た光景だった。
「ここへ転移したのか?」
「話が早くて助かるぜ。とりあえずあとは『ソイツ』と話せ。私はもう知らん」
言って、アセナは近くの木に背を預ける。
不比等は先ほどから視界に入っていた人物に向き直った。
「まずはお疲れ様、フヒト君」
そう微笑むのは、賢者オズヴァルトだった。
「君のおかげで、この世界の危険は除かれた。礼を言わせてほしい」
「……」
彼の真意を測りかねて、不比等は黙して通した。
「そうだね。説明しないといけない。何故ここにいるのか、何を企んでいるのか……僕がなぜヴィルジナルと通じているのか。もし信用ならないなら、君の力で『視て』くれていい」
不比等は首を振った。
「人の心は、移ろいが過ぎる。俺はその恐怖に耐える自信はない。信じるから、教えてくれ」
「分かった。その優しさと信頼に応えよう。まず、僕とヴィルジナルは、『この世界への不確定要素』に対処するため、協力することにした」
「俺か」
「君、というより、元々は竜の方だけどね。強大な力を持ったあの存在を放っておけば、いずれこの世界に無視できない影響を及ぼす。かつて、君の友人とともに竜と戦った彼女はその事を痛感したんだ。だから異常を感じた時には、彼女が調べに行っていた」
これまで、異変の起こった場所にヴィルジナルの噂や影があったのは、そういう経緯だったのだ。
必然、事情を知らない者には彼女が怪しい人物と映っていただろう。
「呪いの蔦も?」
「それは別件、この世界の話だね。あくまで手を結んだのは『この世界への不確定要素』である君たちについてのみだ」
「竜の脅威は取り除いた……次は俺か?」
不比等はオズヴァルトの目をじっと見た。
「答えは『そう』だ。だけど剣呑な話じゃなくて――」
「おい、ぐだぐだ前置きがなげーぞ」
アセナが口を挟んだ。
「お前に感謝してる。だからお前が元の世界に戻れるよう手伝う。んでもってそれが早ければ早いほどお前は『何かできるかもしれない』。だから戻るかどうかさっさと決めろって話だ」
「……アセナ君、僕に任せるんじゃなかったのかい?」
「うるせー」
そっぽを向くアセナ。
不比等は気になった言葉を反芻した。
「何か、できる……どういうことだ?」
「君の友人である『不比等』がこの世界に来たのは何百年も前の話だ」
オズヴァルトが答えをかみ砕いていく。
「君の世界でその友人がいなくなったのはいつだい?」
「五年か、六年ほど前だ……!」
不比等の瞳の奥で、理解の色が宿った。
「そう、ここと君との世界は、同じ時間を歩んではいないんだよ。君はずっと、使命をもって帰りたがっていた。それが何にせよ、君が望むのなら、君はこっちに来る前とほぼ同じ時間に戻れる可能性があるんだよ」
不比等はなぜ、彼らがここに連れてきたかを悟った。
「俺がこの世界で見つかった場所に、元に戻れる道があるかもしれないのか!」
「その可能性は高い。この世界に干渉した魔力がまだあることを、彼女は確認しているからね」
あの日、ヴィルジナルが不比等を見ていたのは、そういうことだったのだ。
「その魔力も日を追うごとに弱まってきている。だから早ければ早いほど君にとって良いと思って、連れてきた」
ありがたい申し出だった。
不比等がここに送ってから少しして筒姫が死んでしまったのは、力を得たあの時に『視て』いたから。
「俺は、助けられるだろうか……?」
ほぼ同じ時間に戻ることができたのなら、それは可能なのかもしれない。
不比等の不安な声に、その場の二人は顔を見合わせた。
「何だよお前、けっこう切羽詰まってんのか?」
「ああ……」
不比等が手短に起きたことを話すと、オズヴァルトは瞑目した。
「なるほど……それほど際どい時間だと、断定はできないね」
「そうか」
「帰れる保証はするけど、本当に狙った時間に辿り着くかは分からない」
「そうか」
「記憶だって、また無くなったまま到着するかもしれない」
「そうだな」
「だが君の力を使えば、可能性もないわけではないと思う」
「……! そうか!」
事象を繋げる力。それを使えば確かに可能性はあった。
「いいのか? 結局賭けだぜ? 最悪もありうるぞ」
アセナが言った。
覚悟を決めさせる問いかけなのだと不比等は感じた。
「いや、もう決めた。どんな結末になろうと、俺は行く」
「そうかい」
アセナが笑った。「では、少し待っていてくれ」とオズヴァルトが準備を始めた。
「じゃ、私の仕事は終わりだ。これで『姫さん』の心配もなくなるだろうぜ」
アセナが踵を返す。
彼女は『姫さん』――ヴィルジナルの元へ戻るのだろう。
「アセナ」
帰ろうとする狼の戦士が、「あ?」と振り返った。
「ありがとう」
「……お前のためじゃねえ。『姫さん』の望みだ」
「もちろんヴィルジナルにも伝えてくれ。だが、それじゃない。俺の親友と一緒に戦ってくれたんだろ?」
不比等が見た過去では、この地に流れ着いた友人が、竜と戦う姿があった。
その隣で、相棒として戦っていた一人に、まだ年若きアセナの姿もあったのだ。
彼女は人より強く、長命な種族だった。それゆえ竜の脅威に備え、長き封印の眠りに着く使命を選んだ。
「……達者でな、サクヤ(・・・)」
そう言って、アセナは木々の向こうへと消えていった。
しばらくその場所を見ていた不比等は、視界の中を彼らへと駆けてくる人物を目にした。
「フヒトさーん!」
エインセールと、その後を急ぐシンデレラだった。
「やっぱりいた! って、なんでオズヴァルト様が!?」
「エインセール! どうやってここが?」
驚く不比等に、後からやってきたシンデレラが説明した。
「彼女は、導きの妖精だからな。フヒト殿たちが出てくる前に幻影の塔が消えたので、探してたんだ」
「そうだったのか……」
彼女たちのことをすっかり失念していたと、不比等は忸怩たる思いを抱く。
「すまない。もう少しで不義理をはたらくところだった」
「どういうことだ?」
不比等は、ここにいる理由を語る。
自分があの竜と同じ、別の世界から来た存在であること。
記憶を取り戻したこと。
帰る方法が見つかったこと。帰ること。
二人は当然、驚いていた。
「そうか……あまりにも突拍子もないことだから、にわかに信じがたいが」
「当然だ。俺も、さっきの戦いの最中に記憶が戻ったばかりで……すまない」
「謝る必要はない。むしろ喜ばしいことではないか。だが」と、シンデレラは口にする言葉を迷わせた。「仕方ないとはいえ、こんなにも早く、帰ってしまうのだな」
「それについても、二人にはこんな形で悪いと思っている」
「えと、えと、この世界じゃないってことは、もう戻ったら会えないかもしれないんですよね!? これっきりかもってことですよね!?」
「……ごめん」
彼女らにしてみれば、行方不明から見つかったばかりの矢先なのだ。唐突なことこの上ないだろう。
「不比等君」
オズヴァルトが手を止めた。
「一日くらいなら、僕がこの場所を維持できなくもない」
「ありがとう。でも俺は行かないといけません。もう大丈夫だと、安心させてやらないと」
この名を継いだとき、もうずっと守れると思いあがっていた。
恐怖に耐えていた彼女の気持ちなど、考えた事などもなかった。
「だからすまない。二人と会えたからこそ、今の俺がある。会えてよかった」
彼が差し出した手を、シンデレラが握り返した。
その顔は、決意を秘めた面持ちになっていた。
「色々と話したいことはあったが――君の道行きを祝福しよう。我が騎士、我が友フヒト。私も君に出会えて良かった」
「私も……お元気でいてくださいね!」
「ああ……そうだ」
不比等が『氷霜の剣』をエインセールに渡す。
「これをエルギデオンに返しておいてくれ」
まさか、友の遠い子孫に会うなんてな。
まさに夢のような、妙な感慨だった。
導きのランタンに、『氷霜の剣』が収納される。
その頃には、オズヴァルトの準備も整っていた。不比等が指定された場所へと立つ。
「ここから先は君の番だ。その力を使って、君を待つ人の元へ向かうんだ」
「ああ」
別れはすんだ。
不比等は脳裏に次々と展開される光景の中から、見つけたそれを選び取った。
「またな」
不比等の姿は、世界から消える。




