筒姫~滅びの火~
プロローグと対応しています。
夢を見ていた。
いつもそれは、同じ夢だった。
不意に訪れては消える、稲光のようなそれとは違う。ずっと覚えていたい、幼い頃の景色。
夢の中では、一面の夕陽の中で。そのどこかで兄が幼い妹を背負って歩いていた。
何を言っているかまでは覚えていない。
それはずっと前に、遠いどこかへと、こぼれ落ちてしまった。
それすら今は悲しかった。
血など繋がっていなくとも、あの時は身体中が暖かく、心地よかった。
幸せの時は長く続かなかった。
やがて妹が、どこか遠くを指差す。兄はその通りに歩いていった。
暗闇に向かって、どこまでも。やがてその背から妹がいなくなっても、どこまでも。
「……また、あの夢」
どうやら、うたた寝をしていたらしい。
神殿の中でそんなことなど、初めてのことだった。
「でも、今日くらいはかまわないでしょうね」
我ながら豪胆だなと、伸びをして寝所へと向かう。
誰もいない神殿。誰もいない回廊。
そこに自らの足音のみが反響していく。
もう夜のはずだった。しかし今日に限っては昼のように明るい。
いや、正確に言えば日が沈む、その直前の明るさか。
「こんな時だから、あの夢を見たのかもね」
今日は、最後の日だから独り言を多くしてみる。
どうせ誰もいない。
私以外の全員、死に沈むこの島から逃れたはずだから。
外の見える通路から、島を見渡す。
これまで生まれ暮らしてきた大地のすべてが、炎に包まれていた。
すべての火山は終わりなく噴火し、あふれ出た溶岩が高きから低きへと流れていく。この神殿は最も大きな火山のふもとにあるから、周囲の溶岩で光に包まれているようだった。
神殿が無事なのは、ひとえに火浣布と私の神性のおかげだ。
神性――神の力とも呼ばれるそれは、この世界の根源要素だ。地・水・火・風、そして闇と光。ほかの要素もあるけれど、基本的に世界はこれらの基本要素の複雑な集合によって成り立っている。
私は、生まれた時から火と――そして特に光の神性に恵まれていた。
火は私を傷つけない。
そして光は私に事象を見通す力を授けてくれた。
あの日、兄に負ぶわれていた時、彼の力になりたいと願った時に力は発現した。
俗に「視る」という力だ。
遠い場所で起きたこと、目に見えない本質、過去の真実、未来の出来事。そして神性の在り処。
万能ではないが、私の人生を一変するには十分すぎるほど「視える」力だった。
もちろん、今日ここで死ぬという未来も、子どもの頃に知っていた。
それが怖くて、怖くて、怖くて、怖くて――結局今日まで、生きてきた。
何のために恐怖に耐え、生きてきたかといえば、彼のためだ。
私の生涯で唯一、幸せな時間をくれた人。
何も知らない時に、温かさをくれた人。
そして優しいまま、変わらないでいてくれた人。
私を育ててくれた翁と媼は、私の力を知った後、欲に目がくらんでしまった。
それまで尽くしてくれた兄を捨て、私の家族として死ぬまで贅沢に暮らしていた。
彼らは幸せだったのだろうか?
幼かった私は上手く力を使えず、彼らが何度も私を捨てようとしていた事実を視てしまっていた。
その度に兄が――彼が、助けてくれた。
ふと、溶岩が昨日よりも神殿に近づいていることに気が付いた。
「……あと数日もつかもたないか、かしら」
私が死んでも、火浣布が少しはここを守ってくれるだろう。
どのような形で死ぬにせよ、できれば痛い思いはしたくなかった。
「兄上は、いったいどれほどの痛みを味わってきたのか」
ふと、今まで考えてこなかったことを呟いていた。
あの日、私がいなくなって――翁と媼に捨てられて、どれほど傷ついただろうか。
彼は、なんの特別な力もない普通の、悪く言えば凡庸な人だった。
彼すら変わってしまうのではないかと、私は彼のことは一切見ることはしなかった。
ただ、別れる前に標は伝えていた。
それは断片的だけれど、大きな流れの転換点。心を変えず、邁進し続ければ潮流そのものになりうる機会。
彼は私の言葉を信じ、神性の在り処から力を蓄え続け、いまや民全てを守る守護者の地位を得た。
鳴神家の養子となり、その当主を示す不比等――「等しく比する者あら不」の号を授けられた。
そして、私を守りに来てくれた。
あの時は何と誇らしく、喜ばしかったことだろう。
それが三年前。それから今日までの日々は、私の生涯で二度目の幸せだった。
彼は、他の人と違って心が変わることなくそこに居てくれていた。
今ごろ、彼は王や民たちを乗せた船を守っていることだろう。
滅びの予知とともに始まった移住計画は、大々的に進められた。
だけど、私が最期までここに残ることを知っているのは、ごく限られた者のみ。
彼が知るころには、方舟はすでに遠い洋上。
たとえ気付いて戻ってきたとして、間に合うはずもない。
そう思っていた。
寝所の前で倒れる、血まみれの兄を見るまでは。
「サクヤ兄様!」
どうして? なぜ? どうやって?
駆け寄って揺さぶる間、そんなことばかりが頭の中を支配していた。
よりによってなぜ今日に!
「う……」
呻いている。良かった、まだ生きてる。
「今、水の神性を活性化します。ご辛抱を」
今代の鳴神・不比等――サクヤ兄様は、鳴神家に受け継がれし水の神剣を持っていない。先代の息子が海竜と戦った際、共に海に没したのだ。
生命力につながる水の神性力が乏しいのは、戦士として致命的。しかしそれを、彼は水の神性が宿る竹の器で補っていた。
私がその力の在り処を『視』て、適切な働きかけを行えば、治癒の術を十全に発揮できる。
「どうして、こんな状態に」
炭化していた傷口を元に戻し、失われかけていた臓器を復元する。巫女姫である私でなければ、とっくに手遅れだった。
私が死んでから来ていたと考えると、ぞっとした。
やがて、サクヤ兄様の目が開かれた。
「タケ……?」
彼しかいう者のいない、かつての私の名前が紡がれる。
こんな時だというのに、それがとても嬉しかった。
「あ、いや、筒姫様か」
そう、筒姫。それが私の今の名前だ。
今だからこそ思うが、タケの名前のあとに付けられた名前が「筒」というのは、どうなのか。
「もう、どちらでもいいですよ。どうせ口うるさい者どもはいません」
私たちの関係を知る者は一握りだ。知らない者は私と彼が親しそうなのを見ては邪推し――それだけならいいのだが、会わせないよう謀ってくる者もいたため、昔の呼び名で呼び合うのはそれぞれの勤めを終えた、ごくわずかな時間だった。
その時間すら、私にとっては何より貴重だったけれど。
「どうしてここに? 将軍は民を守る重役があったはず」
「サクヤに聞いて、戻ってきた」
想像通りだった。
サクヤは私の後継の巫女姫だ。彼と同じ名を持つあの子には、私たちのことを全て話している。
「帰る時に一悶着あってな。まあ、他にも色々だ」
その言葉に、私の脳裏にある光景が幾つも沸き起こった。
『過去視』というものだ。
「なんということを……」
この人は、私を残して去ったことを王たちに糾弾し、それを良しとしなかった他の戦士たちに攻撃されたのだ。
その傷も治さず飛び出し、道中魔物の群れと遭遇しても、ずっとここを目指してきた。
そして溶岩に包まれたこの神殿に入ろうとしたから、さらに傷ついて力尽きた。
「なぜここに残った? 神性にも限界がある。死んでしまうぞ」
「これが、私の務めです」
そして変えられない死の定めだ。
「私がここにいれば、お山の力も幾分かは削げます。皆の命を危険にさらすわけにはいきません」
「もう十分、遠くまで船は進んでいる。お前はもう務めは果たしたはずだ。戻ったところで誰も咎めはしない」
「私をよく思わない方々もいたと思いますが」
「そんな恩知らずども、俺が叩きのめす」
相変わらずの力任せではないか。
私は思わず笑ってしまった。
昔の兄にはなかった性格。先代不比等様の息子であろうと、己を律したためだろう。当人とも親友だったと聞いている。
彼らが居なくなってからもその義理を通すのは、善き間柄を築けたからだろう。
私にはきっとできないことだ。
「さあ、帰ろう」
そして今日死ぬ私には、これからもできないことだ。
だが彼をそれに巻き込むことは断じてできない。
思案した。本当のことを言っても彼は譲らないだろう。力を使うことにする。
「兄様、まずはお身体をお休め下さい。せっかく二人きりの時間なのです。昔の話でもしませんか」
「……確かに、この身体では脱出すら難しいか」
不承不承、座り直す彼を横目に、私は事象の選定に取り掛かった。
こちらは未来視と呼ぶに近いものだ。これから起こる可能性のある未来の時間の中から、より良いと思われる選択肢を探し、手繰り寄せる。
万能かと思いきや、意外と使えない力だ。過去視と違い、まだ起きていない出来事は情報が断片的で、選んだ後に実際にそうなるかはまた別の問題だからだ。
選んだ未来に近づこうとしたせいで、むしろ影響が生じて望まぬ可能性へと進むこともある。
死の運命が決まっている自分には使えず、かといって私から伝聞という形で知った者が上手くいくかは、運次第。
彼がかつて辿った物語は、稀有な成功例なのだ。
それをもう一度、掴み取るしかない。
「ああ、そんなこともあったなぁ」
私の話に、彼は懐かしそうに目を細めている。
不思議な事だが、この未来視を行っている最中でも私は普通に話したり、行動することができる。
有能なことこの上ない。
おかげで気付かれることなく、有力な事象を引き当てることができた。
さすがに驚いた。まさか、別の世界に行ける可能性があるなんて。
緑豊かな土地。そこに暮らす心良き人々。
何より物語のようなその世界に、私自身が焦がれるものがあった。
気になる危険もあるにはあったが、こちらの神性と親和性があるのが幸いだった。
彼の持つ神性さえうまく働けば、そうそう危ない目には遭わないだろう。
「お前を縛っているのは、巫女としての責務なのか?」
「――え?」
いつもよりずっと長くできた、二人きりの話。
それを終わらせる唐突な切り出しに、私の意識はそちらに注がれた。
「島を守り、民を守り、巫女のまま死ぬ。俺はそれを支えたくてこれまでやってきたが、こんな状況を是とするのは耐えられない」
「……」
「巫女姫だからって、死ぬ必要なんてないんだ。もう十分やってきた」
そう。私も十分『死』に耐えてきたと思う。
でもそれは醜く変わる誰かのためではない。目の前のあなたのためだ。
私にくれた幸せを返すためだ。
「考えた。俺にできる方法を。巫女姫が使命に殉じず生きられる方法を」
その言葉で想像はついていた。確かに前例もある。
「将軍という今の地位なら、巫女を妻として迎え、普通に暮らすことができる! 後継がサクヤとなった以上、他の者に咎められることもない!」
やはり、予想通りだった。
彼は、慌てて居ずまいを正して真剣な面持ちになった。
うん、格好いい。
「姫。ずっと、貴女をお慕いしておりました」
嬉しかった。
今無理やり思いついた言葉ではなく、前々から「そうだった」ということが何となくわかったから。
この状況でなければ、喜んでその申し出を受けただろう。
だけど今日だけは、拒否せねばならない。
私も巫女姫として居ずまいを正した。
「……いずれそなたにも、心に想う方ができます」
「私には貴女しかおりません」
――くっ!
「……いつもはそんなこと絶対言わないくせに」
「は?」
「……いえ。本気ですか? 私との関係は――」
「兄と妹、を気にしているのか? お前はどう思うか知らないが、元々血は繋がっていない。それに、一緒に過ごした年月と同じくらい、会わない期間もあった。それに……」
「それに?」
「初めて王居に来て、兆しの詔伝えるをそなたを見た時……こんなにも美しい人がいたのかと思うくらい、見惚れてしまった」
「……」
「それからだ、この気持ちは、ずっと」
彼の声は震えて、顔を真っ赤にしていた。
たぶん、私もそうなのだろう。
応えてあげたかった。
この幸せの果てに死ぬというのなら、今日という日も悪くないかもしれない。
「…………」
だからこそ、自分の気持ちに私は嘘をつく。
この人には、私と違って未来があるのだから。
「わかりました」
最後の覚悟を決めて、私は未来の一つを手に取った。
だがまだ完全ではない。
彼に託宣を告げ、事象に結び付けねばならない。
別世界への干渉は初めてだったが、その相手が彼であれば話は別だ。
彼の持つ神性は偏りこそあるものの、鳴神家の修練で闇や風の精とも通じている。
光と対をなす闇は、私と同じ『視える』ことを時として可能にする。
彼もまた、遠くの世界を『視た』のだろう。
その世界と、私の選んだ事象とを上手く重ね合わせていく。
よし、つながった。
残るは最後の暗示と、念には念を。
彼の唇に触れ、催眠をほどこす。
只人が異界に渡れば記憶はなくなるだろうが、神性使いには万一がある。今日のことを思い出してもこちらに戻ってこないよう、手に取れば記憶を完全に失う『玉の枝』の名を口にする。
異界で記憶が戻りかけても、暗示で玉の枝を取りに行く使命を行う。そして手にした途端、こちらの世界のことは忘れ去ってしまう段取りだ。
これでいい。
これでいいはずだ。
力が抜け、くずおれた彼を支える。さすがに重かったが、膝の上に頭を乗せてあげると、その表情がやわらいでいた。
ほんの少しだけ、その寝顔を見ていた。
いつか、遠い未来でも、このような時が過ごせたら良かったのに。
最後に、私の力と、想いを。
残されたありったけの火と光の神性を、彼に込める。
これで私の力が、どこでもあなたを守ってくれる。
「今までありがとう……さようなら」
儀式が完成し、光の粒になって彼は消えた。
終わった。やり遂げた。
気づけば、私の『視える』力は失われていた。死の前に光の神性を渡したためだろうか。解放されたのだと、清々しい気分になった。
心残りは、彼が私のことを忘れてしまうことだけれど。
できれば、本当に一瞬で良いから、思い出してくれないだろうか。
そしてできることなら、あの夕日の中で幸せな私を消し去ってほしい。
障子を開ける。天はあまねく赤火に彩られていても、月だけは綺麗に見えた。
私も、じきにあの月に還る。
炎の混じった風が私の髪をなびかせた。
もう、未来が視えなくともこの先のことは分かっている。
火浣布の護りを失い、この神殿は溶岩に呑み込まれる。
神殿が崩れ落ちる轟音と、灼熱の景色が私の見た最後となった。




