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幻影の塔

 フヒトの目覚めは決して良いとは言えなかった。

 泥沼から浮き上がったような息苦しさに思わず目を開けると、風に揺れる布天井がまず目に入ってきた。

 どこだ、ここは……?

 大きく息を吸って、全身にへばりつく汗の冷たさに思わずギョッとする。声を控えたのは、あまりに静かな場所だったからだ。

 まだ完全には醒めやらぬ意識で、周囲に視線を走らせた。

 先ほど見た天井と同じ厚い布、そして木組み。それらが壁となっている。簡易的なテントのようだった。その中央のこれまた簡易的に作られた寝台の上で仰向けになっている。

 混濁した記憶を、フヒトは遡った。

「――そう、か」

 海の中で、戦っていたのだ。そしてクラーケンに捕まり……

 その後のことを思い出して、戦慄が彼を身震いさせた。

 続いて湧き起ったのは疑問である。なぜ、あの状況から自分は生きているのか?

 状況から考えると助けられた、と考えるのが妥当だろう。しかし、誰に?

 服は着替えさせられている。困ったのは得物も手近には見当たらないことだ。もし相手が敵意を持った者だと、憂慮すべき事態である。

「む……」 

 そこまで考えて、ようやくフヒトは気がついた。

 周囲は静かではある、しかし無人ではない。テントの外には人の気配が多数あった。

 その気配の一つが小屋のすぐ前まで近づいてきている。どうすべきか逡巡する彼の視線の先で、気配は止まった。

「よぉ、その様子だと気がついたようだな」

「!?」

 テントの外・・・・・から掛けられた女の声に、フヒトの毛が逆立つ。

「入るぞ。ダメならそう言えよ」

 沈黙を選んでいると、入口の布がめくられた。入ってきたのは長い灰色の髪を無造作に伸ばした、二十代半ばくらいの細身の女だった。

 武器は持っていない――とっさにそう判断しつつも、警戒心はむしろ増した。均整の取れた身体は粗末な上下しか身に付けていないが、入ってくる動作も含めてすべての動きに隙が無い。美貌といって差し支えないその顔には、無残にも斬られた跡があった。左目の上から肩先まで伸びて見える一筋の大きな傷は、痛々しいというより彼女のまとった「歴戦の戦士」の風格をより一層強めている。

 強烈な眼差しが、フヒトのそれと合って好戦的に細められる。

「気力は衰えてないようだな。よくそこまで無事なもんだ」

「あ、ああ……どうも?」

 無事を労っているような言い回しに、おずおずと返事する。その様子に女はハッ、と笑った。

「そう警戒すんな。お前と闘う(やる)気はねぇ。ウチの『姫さん』から我慢しろって言われてるからな」

 その言い方からすると、本心は戦いたいのだろうか……?

 フヒトはそう思ったが、より気になったのは『姫さん』の単語の方だ。

「ということは、アンタも騎士か? それにしては、格好が、騎士らしくないが」

「お前が言うのか?」

 即、返されてフヒトは押し黙った。

オレがこの格好ナリなのは、『姫さん』の指示だ。感謝しろよ? 『姫さん』が言わなきゃ、オレがお前を助けるなんてなかったんだからな」

「アンタがあの海から助けてくれたのか!?」

「そうだ。もっとも、溺れかけているところを引き上げただけだがな」

 ――なに?

 では、あの存在から助けてくれたわけではないのか?

 湧いた疑問が解けぬままの彼に、女が告げる。

「これだけは言っておく。お前とは元来、敵同士だ」

 彼女はニヤリと顔を歪める。寝台に手を突き、フヒトに顔を近づけてきた。

「それをここに着くまで、オレが手づから看てやったんだ。これで『姫さん』の邪魔でもしてみろ。八つ裂きじゃすまないと思え」

 次々と、獰猛に言葉が吐き捨てられていく。フヒトにとっては感謝したい情報が山ほどあったものの、伝えられ方のせいで素直に反応できない。

「……感謝している。アンタにも、その『姫さん』にも」

「そうかい。なら、行動で示せ。ちゃんとできたらまた助けてやる」

 ようやく絞り出した返事にもすげなく、女は唐突に離れた。

「お前の仲間が来るみたいだ。詳しい話はそいつらに訊け。オレたちのことはしゃべるな」

「……分かった」

 有無を言わさぬ圧の乗った口調に、頷くしかなかった。

 フヒトにとってはしゃべるな、という以前に状況をまったく把握できていないので、しゃべりようもないことだったが。

 ともあれ、女は本当にそれ以上話をせずに出ていくようだった。彼女の言うフヒトの「仲間」に会わないように。気配を探ることは、ある程度彼にもできることではあった。しかしフヒトには、外から誰かが近づいてきているのかさえ、まだ分からない。彼女はより高度ななにかで感知できたのだろうか。

「名前くらい、聞いてもいいだろ」

「なんでだ?」

 振り返らず、女が聞いた。

「命の恩人だからだ。ちゃんと感謝したい」

「……アセナだ」

 言い辛そうに、女が発音した。

「ありがとう、アセナ」

「……」

 呼ばれた名前に顔を歪ませて、灰色の髪が外に消えた。

「アセナ、か」

 寝台に体重を預けたフヒトは、ようやく身体の力を抜いた。

「とんでもない奴だったな」

 全身に、寝汗の時とは違う類の冷たさがあった。

 先ほどまで感じていたのは、気を抜けば瞬時に命を取られる、そんな張りつめた空気だったのだ。

 今まで会った人間だと、フヒトが知る中ではエルギデオンやホッファ――彼は本気を見せていないが――が、戦いに秀でていた。

 優劣をつけるものでもないが、『姫』の中だとラプンツェルもそうだろう。

 だが、先ほどのアセナという女性は、それらを差し置いて一番強い可能性があった。それは騎士としてではなく、戦士といった意味合いでのものであったが。

 因縁めいたことを口にしたので、もしや記憶を失う前の知り合いかとも思ったが、試しに聞いてみた名前にも響くものはなかった。

 彼女の言った『姫』も気になる。

 フヒトは六都市の『姫』とは全員会ったことがある。なら、なぜわざわざ所属などを明かさなかったのだろう。助けてくれたうえで、釘を差すようなことまで言ってくる相手。

「シンデレラ、は絶対違うだろうな。アンネローゼなら堂々と言ってくるだろうし……ああ、謎ばかり残していったな」

 そこで、テントの外から足音が近づいてきた。声も聞こえてくる。

「ここですか?」

「そうだよ。今日は起きていると良いんだが」

 聞き覚えのある声に、フヒトからようやく身体の力が抜けた。

 入口の幕が上がる。

「おや、気が付いているようだね」

「フヒトさん! 良かった!!」

 現れたのは、オズヴァルト、そしてエインセールだった。

「ずっと心配してたんですよ! 大丈夫ですか!? どこか痛くないですか!?」

「うん、ちょっと疲れているが、問題ないぞ」

 身体を軽く動かして見せて、フヒトは心配する妖精に応えた。そして『賢者』へと向きなおる。

「オズヴァルト殿。起き抜けに不躾だが、ここがどこか、今どういう状況なのか教えてもらえますか?」

「分かった。君ならそう言うと思ったよ」

 オズヴァルトは微笑み、ゆっくりと話し出した。


「落ち着いて聞いてほしい。まず、ここはアルトグレンツェだ。君たちがクラーケンと戦ってから、七日が過ぎている」

「!?」

 思わず息が止まるフヒトだったが、黙ったまま続きを促す。

「順番にいこう。まず、ウォロペアーレの異変は去った。あれから被害は出ていないし、おかしな魔物を見た話もない。君たちがクラーケンと戦って撃退したからと言われている。あるいはあの後、君がクラーケンを倒したのかな?」

 前者は噂、後者はオズヴァルトの推測のようだった。真相を求める視線に、フヒトは経験したことを語った。

 エインセールが真っ青になり、オズヴァルトも今までになく険しい顔つきになった。

「これが、俺が連れ去られた後のことだ。なんで助かったのか、今だに分からない」

「ふむ。クラーケンをも従える闇の塊と、そこから聞こえた、君の名を呼んだ女の声、か……色々と合点がいった気がするよ」

「どういうことだ?」

「話を元に戻そう。恐らく君がその塊と遭遇した頃、ウォロペアーレの近海で巨大な落雷・・・・・があったらしい。君の言う白い光は、それじゃないかな」

「なるほど。天災に助けられたというわけか」

「……もう一つ、その黒い塊、靄のように逃げたソレだけど、目撃されているよ」

「本当か!? いったい、どこに!?」

「こっちだよ。立てるかい?」

 促され、フヒトは小屋の入り口をくぐった。見えてきた光景に目を大きく見開く。

「知っての通り、アルトグレンツェの丘には『いばらの塔』がある。君から逃げた日の翌朝、アレはここに飛んで来たんだ」

 賢者が指した先、いばらの塔の横に新たな塔が出現していた。

 それはいばらの塔と酷似しているが、同時に似ても似つかないものだった。周囲を薄気味の悪い闇色の瘴気が覆い、常に揺らめいて見える。まるで蜃気楼のように、揺らめく塔の向こうに空が見え隠れしていた。

「近づいても塔は存在する。でも外からはそこに存在しないような見え方をしていて、一方で中は実際のいばらの塔よりはるかに巨大な空間が広がっている。強力な魔物もたくさん確認された。支援を要請された近隣都市が、あまりの規模に騎士団を派遣するほどにね」

 アルトグレンツェの町から丘へとかけて、数多くの人が見えた。初めてこの場所に来た時よりも、ずっと多い。そしてあちこちで簡易の建物が建てられており、人が忙しなく行き来している。

 フヒトもまた、その内の一つで眠っていたのだ。

「僕はこの塔を『幻影の塔』と名付けた。そしてさっきの話から、君があの塔を攻略する鍵だと思っている」

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