邪の系譜
クラーケンが近づいてくる前に、魔物の第二陣を蹴散らす。
すでに一戦交えた相手だっただけに、その目標はそう難しいものではなかった。
しかし、
「上から来ます!」
エインセールの言葉に従い、フヒトは全力でその場を飛び退いた。直後、
ズン――!
たった今までいた場所と、そこで対峙していた魚人たちを、巨大な石柱が押し潰した。
いや、石柱ではない。クラーケンの巨大な触腕だ。
「思ったより来るのが早いな……!」
イカのそれに酷似したそれは、大蛇のようにフヒトに迫ってきた。うねるその巨大質量をかわしたかと思えば、予備動作もなく方向転換して捕まえようとしてくる。すんでのところで回避すると、代わりに衝撃を受け止めた大岩が粉々に砕け散った。
「エインセール、傍から離れるなよ!」
巻き起こった砂煙の中を構わず、フヒトは駆けた。その後ろから巨大な触腕がすさまじい勢いで迫ってくる。悲鳴のような妖精の返事を聞きながら、フヒトは背後からの薙ぎ払いを跳んで回避した。
「そこだ!」
そして避けざま抜き打ちでサーベルで斬りつける。が、触腕の表面を浅く斬ったところで、その弾力に押し戻された。
(ダメだ、これ以上押し込めばこちらの得物が先にダメになる)
歯噛みする彼の頭上から、別の触腕が振り落とされた。
「避けるな!」
エルギデオンの声が響き、同時にフヒトの頭上を冷気が支配した。
『氷霜の剣』から発せられた凍てつく斬撃が、触腕を横合いから襲撃した。巨大な腕は先端から氷塊に覆われていく。その感覚にクラーケンは腕の動きを止めた。
致命的な隙だった。
斬――!
今度こそ、フヒトの斬撃は凍りかけていた触腕を半ばから両断した。
「エルギデオン、まとめて凍らせることは可能か? 今度はそちらにも攻撃がゆくぞ」
「俺もそうしたいが、胴体に近づいて引きつけでもしないと無理だ!」
今の一撃でエルギデオンにも軽くない負担が生じている。次の発動タイミングまで相手が狙いを変えてくれば、それだけ今のようなチャンスは少なくなる。
そして狙いがフヒトに向いたままでも、
「正直なところ、一本だけで避けるのが精いっぱいだ」
「フン、所詮その程度か! 情けないぞ!」
そう言いながら、エルギデオンは想定以上の難敵に厳しい視線を向けるしかできなかった。
近づいてみると、改めてその偉容が分かる。
敵の巨体はその腕も合わせると、城に匹敵するほどに大きい。
加えて、魚人をはじめとした配下の魔物という新たな脅威まで発覚している。どう考えても騎士団総出で倒すのが妥当な相手――ならば、まだ無事なうちに撤退するのも一つの手だ。
アリスもそう判断しており、途中から他都市との連絡を取るため手鏡を離れている。
現場での判断は、今決める必要がありそうだった。
「仕方ない、文字通り一本は取った。隙を見て…………!?」
撤退を、と言いかけた少年騎士の視界で、それまで動きを止めていたクラーケンが大きく体を震わせ始めた。
腕を一つ失って警戒すべき相手と踏んだのか、口のような場所から墨のような闇色のなにかを吐き出した。
「あれが魔物たちを包んでいた闇の正体か……?」
フヒトの言う間にも、闇はクラーケンの周囲を更なる深さで覆い、その姿を隠していく。
さらにその状況は巨体だけにとどまらず、辺り一帯をも覆い尽くし始めた。
「こ、これ以上何が起こるんでしょう……?」
前も後ろも闇に囲われ、エインセールの顔は忙しなく周りへと向けられる。
突然だった。
その闇を突き破り、触腕が背後の死角から襲い来る。
エルギデオンは『氷霜の剣』に注力をしていたため、反応して動けたのはフヒトだけだった。
妖精と少年騎士を突き飛ばす。
その間に触腕に巻き付かれたフヒトは、闇の中へと連れ去られた。
「ぐっ……!」
すさまじい勢いで移動する中、抜け出そうとするも、触腕は万力のように締め付けてきてそれも叶わない。
やがて、他の変化にも気づいてきた。
(移動しすぎている……?)
クラーケンはフヒトを捕まえたまま、高速で離脱をしていたのだ。流れる視界の中で、闇の狭間から見える光もどんどん消えていく様子に、彼の中で嫌な予感が芽生えてきた。
この光は、『人間が人魚と同様になる魔法』によって感じている明るさだ。
そしてこの魔法は、ウォロペアーレから完全に離れると解けてしまう。そうなればエルギデオンが言っていたように打つ手もなく死ぬだけだ。
(なんとかして止めねば!)
しかし、肝心の剣ごと一緒に巻き付かれては抜けるはずもなく。
どんどん暗闇になっていく中、なす術もまったくなかった。
(せめてこいつの住処に、魔法が解ける前に着くことを祈るしかないのか……?)
そもそも、そこに向かっているかすら判別できない状況で、クラーケンは突き進む。
祈りが届いたのか、やがて速度が減じてきた。
その頃には、辺り一面に闇が広がっており、息をするのもほとんどできなくなっていた。
朦朧とする意識の中で、巨獣の目的地を見ようとしたフヒトに、今度こそ戦慄が走った。
もう、底がどこまであるのかさえも見えない、深い深い海のただ中。
どこまでも広がる巨大な空間の中に、それはあった。
ほとんどなにも見通せないはずの視界の中でさえ、はっきりと分かる、黒い塊。
水の中に浮遊しているようなそれに比べると、クラーケンなど塵のように小さなものだった。
近づくにつれ、他にも闇色をまとったクラーケンが多数泳いでいることがわかる。
(クラーケンも、こいつのしもべにしか過ぎなかったのか……!?)
直感的に、フヒトはそれの正体に気付いた。
これが、今回の元凶だ!
エインセールの言葉に感じた違和を、今ならフヒトは理解できた。
これは、ヴィルジナルとは関係がない。
もっと悪意を持った、この世界とすら関係のない存在だ!
クラーケンが、完全に止まる。
伸ばされた触腕の先、フヒトは巨大な黒い塊と対峙した。
(見られている……!)
そう、感じた。
こいつは、『意思』を持っているのだと、狂気に陥りそうな感覚の中でフヒトは悟った。
『ああ……お前、か』
「……!?」
『また……お前たちか』
明らかな声が、黒い塊の向こうから聞こえてきた。
物憂げな、女の声だった。
『あれから幾時、眠ったというのに……それでも邪魔をしてくるのだな、「不比等」よ!!』
明確な怒りと殺意が向けられ、海が揺れた。
まるで世界そのものが揺れたかのようだった。
黒い塊から、幾多もの衝撃波が襲いかかってくる。
それだけで、フヒトは身体が引き裂かれそうだった。無我夢中で、必死に抗う。
気づけば、フヒトは大の字で水中を落ちていた。
(いつの間に、クラーケンから逃れたんだ……?)
そこで、自分とともに沈んでいく、クラーケンの残骸に気付く。
(そうか、先の衝撃でクラーケンは――)
ならばなぜ、自分は無事なのだろう?
その疑問はすぐさま消えた。途絶えそうな意識の中で、次の『死』が猛烈な勢いで近づいてくる。
海面のある上方から、多数のクラーケンが迫ってきていた。
『まだ、死なないか!』
そのさらに向こうから、夜のとばりを降ろすかの如く、黒い塊が近づいてきていた。
動くことすらままならない水の中で、フヒトは刀の柄を握る。
全力で迎撃しないといけない。
死を前にしたその行動は、ほとんど無意識のものだった。
咆哮とともに、その身が淡く輝いたことには、彼自身が気付いていなかった。
「――――!」
一体何を叫んだのか、フヒト自身にも分からない。
次の瞬間、白光が世界を引き裂いた。
真っ白になった視界の中で、先ほどの声が絶叫をあげているのが聞こえた。
『不、比、等ォ! お、の、れぇぇ……!』
「待て、逃げるな!」
自分で自分の言った言葉が、信じられない。
あの存在が逃げる? なぜ?
だが視界の端に、はるか上に向かって靄のように消えていく闇が見えた。
白い光はもう消えていた。
フヒト視界もどんどん黒く染まっていった。




