朝陽を受けて
手鏡は懐からはみ出す形で陽光を浴びていたので、フヒトは慌てて鏡を手にする。手近な岩を背に座り、鏡面を自分へと向けた。
翡翠の瞳が彼を見つめていて、不意のことにドキリとする。
『すまない。驚かせてしまったか?』
フヒトの狼狽えを、シンデレラは自らに非があると思ったようだった。首を振って否定する。
「何も考えず、海を見ていただけだ。いつもこんな早くに起きているのか?」
『それが私の責務だからな……と言いたいが、実は昨晩良いことがあったんだ。おかげでいつもよりよく眠れて、自然に目が覚めてしまった』
手鏡でこちらが活動しているかたまたま確認したら、朝日の光が鏡から差し込んできたので、声をかけたのだと彼女は説明した。
『アリスの従士たちとは、上手くやれているのだろうか?』
「……たぶん」
歯切れが悪い返事しかできないのは、昨夜の記憶は渡された飲み物を口にしたあたりでふっつり、途切れているためだ。
とはいえ、目覚めたときみたくあれだけ近い距離で寝ていたという事は、馴染めたからに違いないと思っている。
少々、いやかなり苦しい目覚めだったが、なんとなく嬉しい気持ちもフヒトにはあった。
「兄弟がたくさんいるとあんな感じだろうか。なんだか童心になった気分で面白くはあった」
『フム……前後の見境がなくなったのは気を付けるべきだが、その気持ちは分からなくもない。私も小さい頃は姉様たちと寝ることもあったが、ドーリス姉様は寝相が……ああ、いや』
台詞の後半は口の中でとどめ、シンデレラは咳払いをした。
『ともあれ、町で兄弟姉妹が多い家はそんなものだとも聞いた。羨ましいと思うこともあったな……兄弟姉妹と言えば、妹殿の夢はあれから?』
「いや、今日は別の人が夢に出てきた。」
シンデレラの顔つきが変わる。
「さっき夢を見た。父の夢だ。こんな海辺に来て、俺に剣を教えていた」
その言葉で、彼女はフヒトがここにいる理由を悟ったようだった。
『今いる場所に見覚えは?』
「ない。どこか別の場所だったみたいだ」
そうか、と言った後、シンデレラは続けて聞いた。
『剣を教えていたとは、どんな様子だった?』
「そうだな。こう、海岸近くの岩の上で静かに座して……ずいぶん期待している様子だな?」
『ん。そうだろうか?』慌てて表情が戻される。
「今さら真顔に戻さなくとも。修行の中身が気になるのか?」
『当然だ。知っててもったいぶっているなら、ひどいぞ。思いだしたら教えてくれると約束した』
不満を言われ、フヒトは思わず笑った。
「もちろん約束は守る。しかし残念ながら、実践はなかった。ただ奥義を得るための教えを受けていた。それを自分の中で感じろと」
シンデレラがうなずいて、続きを促す。フヒトは夢を見て思い出したことを述べた。
「絶にして極の太刀。自分の力を極限まで練り上げて、技を身体に合わせ昇華させた最高の一撃。父上が俺に叩き込もうとしたのは、その感覚だった」
あるいは、魔法と剣技の双方に関与してるが故のことかとも思うが、ほとんどを忘れた今となっては具体性がなく、よく分からない言葉だ。
『武芸で達意に至る時は、総じて観念的になるとも聞く。それまでの基礎としてやってきたことが、別の意味を帯びるようになると。安易に秘密が漏れないようにする面もあるらしいが』
語られる言葉から何かを読み取ろうとしたのか、シンデレラは目をつぶる。が、やがて首を振った。
『部外者の私ではさっぱりだ。フヒト殿のお父様は、高名な剣士だったかもしれないな』
「かもしれない」
フヒトが気乗りしない声を出す。鏡の相手が訝しむ表情をして、それにためらう顔を浮かべた。
「もう長くはなさそうだった」
シンデレラが口を開きかけ――しかし閉ざす。フヒトは続けた。
「病気のようだ。年も取っていて、隠れて咳もしていた」
『そう、だったのか』
少しのあいだ、二人は黙った。相手がどう反応していいか迷っているのを知りつつ、フヒトは次に話すことをためらった。
「シンデレラ。弱音を吐いてもいいだろうか?」
『私で良いのなら』
居ずまいを正した声だったので、シンデレラもまた、一拍おいて返事をした。
「正直に言うと、何かを思い出すのが怖くなってきた」
『……』
「俺は本当にハイルリーベにいたんだろうか? なら、これから思い出していく俺の大事な人は、全員呪いで苦しんでいるのか……?
ハイルリーベから助かったのなら、なんで俺だけ無事だったんだろう? ヴィルジナルはなぜ教えてくれなかった? 今知れば後悔するとは、どういう意味だ。考えれば考えるほど自分が、何か大きなことを見落としている気がするんだ」
シンデレラがたじろいだ。自問を続けるフヒトの顔が、見ることはないと思っていた恐怖を浮かべている。
「もしかして本当は、俺は卑怯者で、みんなを捨てて逃げたから助かっただけかもしれない」
『落ち着いてくれ。貴方はルクレティアのこと、玉の枝のことを教えてくれた。ルクレティアが助けを呼んだ者が、卑怯者なわけがない!』
「嘘かもしれないぞ」
強い口調に、負けじとフヒトも返した。
「ルクレティアを見たというのは、俺が喋っただけだ。それは全部口から出まかせか、頭の病気で変な幻でも見たのかもしれない。信じてくれてる君を利用して、俺は何か企んでいるかもしれないぞ」
『フヒト殿』
「不安なんだ」
うわ言のように言葉が続く。
「自分が誰か分からないことだけじゃない。いつも、何をしてても後ろめたい冷たさがあって、どんどんそれが大きくなっていくんだ。ここはみんな優しいのに、俺はそれを胸を張って受け止められない。俺はやるべきことをほっぽり出して、逃げているのではないか」
『フヒト』
静かに呼ばれ、フヒトが口を閉ざした。鏡の中の少女が、彼を見据えていた。
『私の顔を見ろ。目を合わせるんだ』
有無を言わさぬ声に、いつしかさまよっていた視線を彼女と合わせる。すると濃い翡翠の瞳が、強い意志で射抜いてきた。
『つい先日会ったばかりだ。私には想像できても、貴方の抱える悩みは真には分からないだろう。だからその不安を否定はしないよ。かといって、慰めるつもりもない』
「…………」
『私と歩んでくれると言った時に、貴方はこうも言ったな。後悔したくないなら己の胸に聞けと。今、聞いてみて欲しい。思いだすのをやめるべきかどうかを」
フヒトが瞠目した。恐怖ばかりが張り付いていた顔に驚愕が混ざり、別の感情へと様相を変えていく。
『記憶を取り戻せば、きっと嫌なことも思いだすだろう。それは私には想像もつかない恐ろしいことかもしれない。その時は、私が支えよう。この力が及ぶ限り、分かち合おう。
恐怖に負け立ち止まっていては何も得られないぞ。そのままずっと、知る怖さと知らない不安で後悔を重ねるつもりか? 貴方は立ち向かう強さも持っているはずだ。もしそうでないなら、私は貴方を友と思ったことを恥じるだろうな』
フヒトは無言で目をつぶった。深呼吸して、次に目を開けた時には、憑き物が落ちたように笑みを浮かべている。
「そうだな。自分が誰か一生分からずに過ごすなんて、まっぴらごめんだ」
『良かった。とはいえそう言っても、心から不安を払拭できたわけではないだろう? 笑顔が不自然だ。何かあれば、また遠慮なく相談してくれ。力になる』
シンデレラの浮かべた笑みに、フヒトは顔をしかめた。
「気持ちは嬉しいが、容赦がないな。これでも完全に立ち直ったフリをして安心させようという、精いっぱいの心づくしなのだが」
『虚勢を張っているのはすぐ分かったからな』
鏡の中の像が肩をすくめた。
『それに私と貴方は友だ。悩みまで聞かせておいて、今更体面を保つなど無意味だろう?』
「……」
言い返せず。しかし釈然としない感情にフヒトは憮然として、口をへの字に曲げた。それを見て、シンデレラが笑みを深める。
『ああ、なんとなく妹殿の気持ちが分かったぞ』
「……どういうことだ」
『ふむ。聞きたいか?』
どこかからかいを含んだ声に、フヒトは楽しくない顔で首を振る。
「やっぱり聞きたくない」
『言わせてくれ』
「言うな。言ったらもう口はきかん」
そこでシンデレラが声を出して笑った。フヒトが眉を寄せる。
「鏡、ここに置いていくからな」
『待った、待ってくれ。私が悪かった』
その声は笑いながらだったので、フヒトは首を振った。
「アンネローゼの騎士になってやる。聞いた秘密も全部暴露だ」
『なんという裏切り……!――ではなくて、すまない。少しやり過ぎた』
「……」
『フヒト?』
無言で見返していると、シンデレラが徐々に狼狽えてきた。
『何か言ってくれ。もしかして、本気で怒っているのか? その、すまなかった。貴方と話していると楽しくて、つい、はしゃいでしまったのだ。ほんの出来心だったんだ……』
どんどん語勢を弱めていくシンデレラに、フヒトは思わず口元を拳で隠した。笑いをこらえる。そしてできるだけ厳かな声で言った。
「反省してるか?」
『う、うむ。もちろんだ』
「なら、シンデレラが励まされた時の話を聞かせてくれ」
『なに……?』
疑念の色をにじませつつ、シンデレラはうなずいた。
『これから謁見の間に行くので今は無理だが……今夜、時間がある時で構わないだろうか? それで機嫌をなおしてくれると嬉しい』
「かまわんぞ。機嫌をなおそう」
声を戻して、フヒトが笑顔を見せる。シンデレラが一瞬呆然として、それから一転、目を鋭くさせた。
『だましたな……!』
「誤解だ。誠意に怒りが解けたのだ」
『ふざけるな! 今の約束は、なしだからな!』
「そんな」フヒトは心外だ、という顔を意識した。「ルクレティアの騎士とあろう者が、約束をたがえるのか」
シンデレラの眼光がひときわ鋭くなった。顔がやや赤くなる。
『今ほど、鏡越しであることが口惜しくなったことはない……』
絞り出すような声に、まずいとフヒトは思った。
なぜか分からないが、鏡の端できつく握りしめられた彼女の拳に、危機感を覚える。
牙を抜く必要がある。
「直接話すのは、いただけないな」起き抜けの頭を全稼働させて、言葉を探す。「周りに護衛もいるだろうし、いなくてもきっと俺は、まともに話せん」
『それはどういう意味だ』
「シンデレラは美しいから、見惚れてしまう」
――何を言ってるんだ、俺は。
言ってからそう思っても、もう遅かった。
自分の言葉に絶句して鏡を見れば、シンデレラも目を丸くしていた。
先ほどよりも紅潮してるのは怒りか。それとも――
『……ッ。この馬鹿!』
怒鳴った直後、鏡の中の像は消えた。フヒトはしばし鏡面を見つめたあと、
「……何を言ってるんだ、俺は」
口に出して呟いて、赤面した。
しばらくしてフヒトが馬車に戻ると、ティーパーティの面々が起きたところだった。朝食をとった後、港町へと出発する。
途中迷走したこともあって、ウォロペアーレに到着したのは昼頃だった。
更新遅くなりすみません。
二つ幕間を挟み、次の章となります。




