海(記憶の残滓)
「フヒト、フヒトよ」
呼ばれ、フヒトは閉じていた目を開ける。
潮騒の響く海岸。波打ち際のすぐ近くにたくさんの岩が転がり、フヒトはその一つの上で胡坐をかいていた。
むっとするような海の香りが、心地よい風とともに吹いてくる。
「なにか視えたか」
再び声。すぐ近くの岩の上に、同じく老人が座していた。
老人の言う意味を考え、フヒトは首を振った。
「何も視えません。父上」
「今は修行中だ。師と呼べ」
「はい……師よ、どれほど考えても、私には視えてきません」
素直に言った。同時に申し訳なくも思う。
「それに、戦が始まるまでそう時はない。私は少しでも剣術を学んだ方が良いのではないでしょうか」
「考えては、視えるまいよ」
急く子の声に対し、老人の声は遅々としていた。
「今更、付け焼刃で覚えた剣術がなんになる。時間がないなら、せめて本質を見極めようとせよ」
「しかし……」
言い募ろうとするフヒトに、老人は初めて閉じていた目を開けた。老いてもなお、死線を潜り抜けてきた目が鋭くフヒトを射抜く。
「お前は剣を知らずとも、十分強いて。儂よりも、この広い島のだれよりも。ただしそれは神性を振り回しているからに過ぎない。内なる力を御するために、人は剣術をとることもある。しかし神性はそれだけで御すことは無理だ」
「……意味が分かりません」
「分からんでよい。じっくり教えたいが、儂も老いた。お前を追い詰めて悟らせる力も、教える時間もそう多くない。限られた時間で、お前に儂の知るすべての技術と、秘剣を授ける。絶極剣と、黒き太刀をな」
「師匠、嬉しいのですが、どうかご無理はしないでください」
「それこそ我が不幸よ。これだけ恵まれた子を持って、喜ばずに、頑張らずにいられようか……ああ、腹が減ったな。一度帰ってクソして寝るか」
「師匠、その言葉遣いは」
「馬鹿、修行が終わったから今は父上と呼べ」
理不尽にも殴られ、そこでフヒトは夢から醒めた。
消えやまない波の音に、一瞬自分が何処にいるのか分からなくなった。
薄く目を開けたフヒトは、頭に乗ったリューゲの足を持ち上げて放る。足は爪先から綺麗にライツの鳩尾に吸い込まれた。喘鳴のような声が聞こえ、ライツが白目をむく。
ぼんやりとした目でそれを見たフヒトは、片手で拝んで哀悼の意を示すと、折り重なって倒れているティーパーティの間から脱出した。そのままエインセールの姿を探せば、導きの妖精は座椅子の上で、破れた幌の切れ端で枕と布団を作って寝ていた。ずれていた毛布代わりの切れ端を、フヒトは掛けなおす。
「風邪ひくなよ」
ぼろきれの様に破けて垂れた幌を押しのけ、フヒトは外に出た。草原を駆け抜ける朝風が出迎えた。露に濡れた緑の香りをまとっていて、フヒトの身体を包み込んでくる。
心地よい冷たさに、フヒトの目は完全に覚めた。時刻はちょうど夜明けごろ。層状にだんだん澄んでいく空の青を追って、馬車の前方へと振り返る。
そこに海があった。
広がる水のおもては、顔を出したばかりの太陽に白く染め上げられている。
その輝きに惹かれた気がして、フヒトは歩いていった。鼻腔をくすぐる潮の香りが強くなる。足が草原から段差を下り、砂を踏みしめる。
波打ち際まで来て歩を止めた。
海は湿った音を奏で、湿った風を乗せていた。岩に梳られた水は白い泡となって砂に乗り上げ、夢の様に消えていった。
――綺麗だよな。
『フヒト殿、起きてるのか?』
懐の手鏡から声が上がった。




