雪の女王
穴からゆっくりと歩んできたのは、妙齢の女性だった。極光と氷を思わせる色の髪の下に、凍てつく瞳がある。その身が近づくたびに、突き刺すような冷気が強まった。厳格さを思わせる足取りに、エインセールが何かを悟ったのか、息をのむ。
「“冬の気配”って、アナタはもしや……」
「その疑問に答えましょう。来訪者の供よ」
玲瓏たる声で、女性が応じた。
「妾は、お前たちが雪の女王と呼ぶ者」
「なに……」
「貴女が、雪の女王ヴィルジナル……!?」
ホッファとエルギデオンの口から、動揺の響きが漏れた。イルゼもまた、声もなく驚いている。
――誰だ。
唯一、話が分からないのはフヒトだ。
しかしヴィルジナルは、そんな彼に視線を向けてきた。
「備えのため、妾のしもべも置きましたが……アナタが相手では荷が勝ったようですね、来訪者よ」
「……なんだって?」
胡乱な目で見返すフヒトの瞳が、氷の瞳とぶつかる。
女王の瞳に宿った光に――意志の力に――フヒトの顔が徐々に理解を帯び始めていった。
同じ視線を、以前にも感じたことがある。
「お前は、最初の森にいた……」
ロゼシュタッヘルで、フヒトたちをうかがっていた人物だ。
そして彼女が纏うものと同じ冷気に充てられ、ゼリルーが凶暴化した。
「なるほど。彼女の想いが、記憶と神性を守っていたのですね。魔狼が追い詰められたのもうなずけます」
「な……」
警戒心が高まった瞬間、見つめていたヴィルジナルがそんな言葉を放ち、フヒトは絶句した。
その間に、ヴィルジナルはフヒトの手鏡に映るシンデレラを見、さらに視線を移す。
「……そちらの三人は違うようですね」
『ええ、私のものよ』
新たな声がホッファの手鏡から聞こえた。ホッファが手鏡を返せば、鏡面にアンネローゼの姿が映し出されている。
「なるほど。いばら姫の妹でしたか」
『その呼び方は失礼極まりなくて、不快ね……それはそうと、こんな場所に何をしに来たか聞かせてもらおうかしら、ヴィルジナル』
『私も聞きたい、雪の女王』
シンデレラも間髪入れず、問いを重ねた。
『今、各地で局地的な冷気が報告されている。巷では、最近の魔獣の凶暴化に貴女が関わっているというウワサもあるんだ。その真偽がどうなのか、今ここで確認したい』
二人の姫の言葉は、しかしヴィルジナルの氷の容貌に何の変化も与えなかった。
「騎士を集めるなど、無駄なこと」
返ってきたのはおよそ、質問の意図とはかけ離れたものだった。
「誰も、ルクレティアの元に辿り着けはしない。呪いにしたって同じこと」
『……その回答は、私の邪魔をし、魔獣を使って民を苦しめているという意味かしら?』
『ルクレティアの元に辿り着けないとは、どういうことだ!?』
当然、二人の舌鋒に険が混ざる。雪の女王は真っ向から二人を見返した。
「想像は勝手になさい。ただし灼熱をもって臨むなら、妾は北風をもってそれを溶かすまで……それを覚えておきなさい」
それで話は終わったとばかりに、ヴィルジナルの視線はフヒトへと戻ってきた。冷たい圧力がさらにフヒトを包み込む。
「無知なる来訪者。アナタの好奇心には忠告が必要のようですね」
「俺もアンタに言いたいことがある」フヒトが切り返した。「俺の失くした記憶のことを、何か知ってるんだな? なら、答えてくれ!」
抑揚が外れた声だった。吠えるようなそれにエインセールの視線を感じながら、フヒトは言葉を重ねる。
「彼女とは誰だ。ルクレティアのことか? 『神性』とはなんだ? 思わせぶりな事ばかり言っても何も解決しないぞ! 答えろ!」
恫喝に、やはりヴィルジナルは何も動じなかった。
いや――
「アナタの求めるものについて、妾の答は真に満たせないでしょう」
女王が浮かべたのは憐れみの表情だ。
「そして妾の答を聞けば、アナタはいずれ後悔をする」
「どういう、ことだ」
「アナタの求めるものと、妾の答は、アナタの答とは違うからです」
謎かけのような返事に、フヒトの顔に強い怒りが灯ってくる。
「そんな言葉で納得できるわけがないだろう!」
「結末をあやふやにせず、答を出したがゆえに今がある。自ら思い出すことです。この世界を夢見る欠片であり続けるか、目覚めて心を引き裂くか……これからどう動こうとご自由に。妾の障害にだけはならぬよう。それが忠告です」
言って、ヴィルジナルは後退り始めた。徐々に大穴に近づいてゆく。それを迎えるように、巨獣の咆哮が外から聞こえてきた。フヒトが呻く。
「『灰色の古狼』か!」
「ひどく傷つけましたね。手なずけるのに苦労しましたよ」
「え!」
雪の女王の言葉の意味を考え、エインセールが声を上げる。その間にもヴィルジナルの足は穴の縁にかかろうとしていた。
『待て、ヴィルジナル!』
『動きなさい。あの女を捕まえるのよ』
離れたことで冷たい圧力は消え去った。アンネローゼの下命にホッファが機敏に接近するが、一足早く女王の身体は氷の欠片となって霧散する。傲慢の騎士が舌打ちした。
「魔法で移動したか」
「……下だ」
遅ればせて縁まできたフヒトが眼下を示す。
そこに古狼がいた。背にはヴィルジナルを乗せ、塔の下からフヒトたちを見上げている。
昨日の戦いのせいか、狼は片目だった。巨大な狼はしばらく見上げたあと、森の中へと消えていった。