名前
「助かりました~」
エインセールがぐったりした様子で降りてくる。
フヒトは魔物の残骸から抜け出ると、大の字に転がった。
「つ、疲れた……もう立てん」
「ダメです、立って下さい」
妖精がフヒトの胸に降りてきた。
「この辺りはとても危険なんです。さっきみたいな魔物だって」
「あんなやつがゴロゴロいるのか?」
「いえ、あの魔物はあんなに凶暴ではなかったのですが……」
不安そうな顔で嘆息する。
「これも例の『呪い』のせいでしょうか」
「呪い? さっきも言ってたな」
「はい。ご存知ですよね?」
問われて、フヒトは倒れたまま首を揺らした。
「いや……」
それどころか、ここがどこで、なぜこの場所にいるのかすら分からない。
――そもそも、俺って何をしているやつだったか?
考える。だが何も思い出せなかった。
「変な話だが、さっき起きたときより前の記憶がない」
「ええっ、大変じゃないですか!」
「そう、だな……」
応えながら、妙に身体の芯が急にひんやりとした気がした。確かに大変だ。とはいえ真剣に考えても何も浮かんでこない。そもそも何を考えたらいいのかさえ、分からなかった。
「何か、大事なわけがあってここにいる気はするが――」
思い出せない。まったく思い出せなかった。
――なぜだ……。
「えとえと、とにかく場所を移しましょう」
寝転がったままショックを受けているフヒトを見かねたのか、エインセールが声を高くして言った。
「ここは本当に危険なので、思い出すにしても安全な場所に行ってからの方がいいです。というか、また襲われたら私、困っちゃいますし」
「……そう、だな」
フヒトは身体を起こす。
「しかし、アテはあるのか?」
「はい。近くに村があるので、そこにご案内します」
「……よーせえとやらの村か?」
「ご安心ください。ちゃんと、人のいる村ですよ」
フヒトの声が弱くなっていることに気づいて、エインセールは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ゆっくり身体を休めたら、きっと何か思い出せます」
妖精の言葉に、フヒトも笑みを浮かべる。彼女の後を追って歩き始める。
「感謝する。えいんせえるは優しいな」
「えへへ……あ、でもでもその呼び方はちょっとおかしいです。私はエインセールです」
「む。え、エインセエル……で、良いか?」
「まだちょっと違います。セ・エ、じゃなくて、セー、です」
「セ、エ」
「セー」
「せーぇ」
「セー」
「えいんせえるは手厳しいな……」
フヒトはむっつりと顔をしかめる。
「名前ですから……そういえば、旅人さんの御名前はなんとおっしゃるんですか?」
「俺か? フヒトだ」
「フヒトさん! 名前は憶えてらっしゃるんですね」
「そういえば、そうだな」
「それにしてもフヒトさん、ですか」
妖精は一瞬、妙な顔をした。
「ステキなお名前、ですね!」
「……待て」
「え」
「今の間はなんだ。『ステキ』の前に、何か思っただろう」
「ムムム、手厳しいですね」
「さっきのお返しだ」
ニヤリと笑うフヒト。
「負けず嫌いなんですね……」
「そうかもな」
「少し、珍しい名前かなーって思いました」
「そうなのか?」
「はい。あ、でもでもそれより、どこかの街で似たようなお名前を聞いたことがあるような」
フヒトの眉が「ほう」とでも言いたげに上がった。
「じゃあ、その辺りの出身かもしれぬな」
「かもしれませんね。どこだったでしょうか……」
飛びながらうーん、と考え込むエインセール。それを見ていたフヒトは、前方に人影が現れるのに気づいた。
「誰かおるな」
「あ、兵士さんですね。もうすぐ村に着きますよ!」
エインセールが同じ人影を見て、飛ぶ速度を上げる。フヒトは足早に後を追った。
その頃には、森はもう薄暗くはなかった。陽光が地面を十分に照らし、木々の間隔もだいぶまばらになっている。森が終わろうとしている。
――しかし、これは一体なんだ?
陽の光がはっきりと射し込んできて、フヒトは森の中の異様さがよりわかるようになった。
牙を生やした実。別の植物に巻き付き脈打ち、不自然に色鮮やかな花を咲かせる蔦。樹木のように太い茎か何かが木々の間に横たわっていて、棘のはえたそれは森の奥までずっと続いている。そして風もないのにギシギシと、軋みを上げて揺れていた。
まるで魔境。悪い夢でも見ている気分だ。
「フヒトさーん」
エインセールが声をかけてくる。横にさっきの人影があった。金属の鎧で全身を覆い、槍を手にしている。
「話は聞いた。行き倒れてたんだって? 無事で何よりだ」
最近呪いで物騒だからな、と兵士は鎧の隙間からくぐもった音を漏らす。
「ここから先は安全だ。魔物が来ても俺たちが対処する」
「ああ、ありがたい」
フレンドリーな兵士にそう返しながら、フヒトがエインセールを見る。大丈夫ですよー、と笑顔を浮かべていた。
「……そういえば、村の名前はなんと?」
ふと、思った疑問をぶつけてみる。
「旅人さんは、ここは初めてか。ということは騎士志望者か?」
「?」
謎のフレーズが返ってきた。よく分からないが、フヒトはとりあえず頷いておいた。
「まだ分からないが、とりあえず初めてだな」
「そうか。歓迎するぜ、旅の人。この先は教会の村アルトグレンツェ。静かで平和な村……だった場所さ」
兵士のその言葉は、どこか皮肉げな響きがあった。