幕間:記憶の残滓
「兄上様、兄上様」
「ん……」
どうやらうたた寝をしていたらしい。いつの間にか閉じていた目を開ければ、目の前に白い衣に身を包んだ美しい少女が座していた。
少女が笑うたび、身に着けた高価な装飾品が音を奏でて揺れる。
「このようなところで寝ては、風邪を引きますよ」
「……おおっ!?」
優しい声に意識がはっきりとした。慌ててあぐらを解いて正座し、平伏し頭を床に打ち付ける。
「申し訳ありません! 私としたことが、つい!」
「赤水を飲んだのですね。いびきが轟いてましたよ」
「面目次第ありません……あれ」
「目が覚めましたか。兄上様?」
袖を口元に寄せて、少女が美しく笑う。
ようやく、状況を理解する。
「もう、夜か?」
「はい。だから、身分のことはお忘れくださいませ」
たしかに夜であった。陽があれば光の射し込む部屋には、天井につるした小さな灯りの明るさのみである。
それを確認して、神妙な顔つきを意識する。
「タケ、兄を慌てさせるとは。そんなはしたない娘に育ったか」
「ご自分で勝手に勘違いしただけでしょう」
呆れたように目を半眼気味にされる。
彼女が人前では、絶対に見せない表情の一つだ。
「ご自分の非を妹に押し付けるというなら、王様に頼んで任を解いてもらおうかしら」
「すまなかった。俺が悪かった。この通りだ!」
再び平伏する。しばらくして笑い声が聞こえてきたので、そのまま首をひねって見上げる。
目が合うと、さらに大きな声で笑われた。
「そこまで笑わずともよいだろう。兄を苛めて楽しいか」
「ええ、はい、とても」
くつくつと、少女は腹を抱えて笑いを忍ばせていた。
「兄上様は知らぬのです。黙っていれば少しは凛々しく見えるのに……」
「少しは余計だ」
「しょんぼりすると子犬のタロのよう」
「そんなわけがない」タロとは、昔死んでしまった子犬のことだ。「あのような甘えん坊に、俺が似ているわけがない」
「そうでしょうか」
「そうであろうよ」
「つい、可哀そうに思って頭を撫でたくなるのですが」
「撫でようとしたらその手、噛んでやる」
「まあこわい」
ちっとも怖そうでない声で、少女が笑った。
「もうよい。明日も早かろう。寝たらどうだ」
「あら、拗ねたのですか?」
「知らん」
背を向けて、横になる。
「そんな。つまりません」
「つまるもつまらないもない。つめろ。無理やり」
もう少し話したい気持ちもあるが、今日は自分がつい眠ってしまった。彼女の立場上、自分に付き合って少ない睡眠を削ってはいけないのだ。
そもそも、夕暮れとともに眠る彼女がどうして自分の所へ来ているのか。
「明日、寝ぼけて俺を『兄上様』と呼んだらことだ。埋め合わせは明日しよう」
「もうっ。では約束ですよ、『フヒト』」
声から「遊び足りない」感を漂わせて、少女が立ち上がる気配がした。
「でも、今日来た子には会ってください。そのために起こしに来たのです」
「なんだ。新入りがきたのか。付き人はもういらんだろう」
「会えばわかります」
やや硬さをにじませた声で、少女が部屋の戸を引いて開けた。
「サクヤ、来なさい」
「……『サクヤ』?」
「驚きましたか?」
少女が少し笑って、やがて歩いてきた七、八歳くらいの女児を示す。
「フヒト、よく聞いてください。この子は明日から、私と共に過ごします。私の『次の子』として」
そこで景色がぼやけ、フヒトは夢から目覚めた。