初戦
なんだ?
それを見た瞬間、フヒトは思った。
下生えから飛び出てきたのは、半透明の大きな球体か、油滴に見えた。表面で光を照り返すそれは地面に落ちると、勢いを減らすことなく雑草を押し倒しこちらに進んでくる。近づくたび、中で何かが蠢いているのが見えた。
それが次から次へと、下生えから出てきては最初の一つに続く。一直線に向かってくる。
「ゼリルーの群れ……! 早く立ってください!」
「そうした方が良いな」
言われずとも、危険を感じる光景だった。フヒトはパッと立ち上がると、飛んでいるエインセールに続いて走り出す。
「む?」
そして気づいた。身体がふらつく。今更ながら疲労を思い出す。
あとついでに、武器を持っていた。
「えいんせえるとやら、あれは仲間の物の怪か?」
「全然違います!」
器用にもエインセールは宙で反転すると、フヒトへと振り向いたまま進み続ける。
「あれは妖精じゃなくて、魔物です」
「あぁ、魔物か」
「魔物は分かるんですね……」
エインセールの納得いかない声。フヒトは手にした物をかかげた。
「これでどうにかなる、相手か」
「その剣ですか?」
エインセールが目にしたのは、黒漆で鞘や柄を装飾した刀だった。
「旅人さんは強いんですか?」
「それは分からんが、もう疲れて走れぬ」
「えええ!?」
明らかにフヒトの走る速度は落ちていた。ゼリルーの群れは彼らを追って、距離をどんどん縮めてくる。
「俺のことはいいから、逃げるか高い所へ」
「そんな……大丈夫なんですか?」
「心配御無用」
止まったフヒトが振り返り、刀身を引き抜いた。顔には不敵な笑み。
「駆け比べならいざ知らず、これでも数多の戦場を経験し竜すら斬ってきた……気がする!」
「本当に大丈夫なんですか!?」
「む……?」
フヒトは違和感を覚え、得物に目を落とす。刀身はかすかな光をもはね返す、くもりのない輝きを放っていた。動かせば反り返った金属の上を光が伝い流れ、見事な造形を露わにする。
――であるものの、肝心の刃の部分がなかった。
「これでは斬れぬ」
「ダメじゃないですか!」
「いやいや心配御無用」
フヒトが得物を振るう。鋭い音がして、刀は飛びかかってきた最初のゼリルーを両断した。地に落ちた油滴はもう動くこともなく広がり、そのまま溶け崩れていく。
「見た目通りの柔らかさか。なら力任せで押し切れば良し」
そのままフヒトは群れの中に突っ込んでいく。
不安そうにそれを見ていたエインセールだったが、魔物の攻撃はそう早くもなく、フヒトはなんなくかわして二体目を斬り捨てていた。多少身体にふらつきはあるが、最初と同じことが二十回ほど繰り返されたころには、動く個体の方が少なくなってきていた。
「さすがに面倒になってきたな」
無駄かもしれないと思いつつ、残りのゼリルーに言う。
「お前ら、見逃すからよそへ行ってくれないか?」
「旅人さん、油断はダメですよ!」
少し高い場所に逃れていたエインセールが言う。
フヒトが、顔だけ彼女を仰ぎ見て笑い返す。
「いやいや、ここまで来たら大丈夫――」
森の奥からうすら寒い風を感じて、フヒトは言葉を止めた。
「……」
妙な心地がする。反射的に風の出どころへと視線をやれば――氷のような冷たさを放つ瞳と目が合った。
あれは……女か?
薄暗い森の中に誰かが立っている。その姿は容易に分からない。ただその尋常ならざる瞳の力に――意志の光に――、目が離せなくなる。頭の中で警鐘が鳴り響く。
「旅人さん!」
警告がフヒトの知覚を呼び戻した。ゼリルーに異変が生じている。
冷たい風に、残った個体に霜がかかったような変化が起きていた。魔物たちは力を失ったように溶け崩れていき……互いに融け合って大きなうごめきを生み出していく。
そしてすでに倒した個体の質量をも巻き込むと、一瞬にして巨大な一個体へと変貌した。
大きさは、フヒトの上背を優に越えている。
「……この地の魔物はなんと面妖な」
思わず呟いたフヒトへと、巨大質量の表面が白く凍り付き、弾けた。
とっさに地面へと身を投げ出す。フヒトへと射出されたのは鋭くとがったツララだった。起き上がったフヒトへと、再び巨大ゼリルーの表面が白くなる。一足早く動いた彼を追って、ツララが発射される。氷の棘は、寸前で隠れた木に着弾した。高い音が響いて、フヒトへと木くずが舞う。
「……まずいな」
ツララは木の幹を半ばまで貫いていた。こんなものに当たればただでは済まない。
フヒトは先ほど誰かが立っていた場所へと目を向ける。もうそこには誰もいなかった。
「危ない!」
空からの声に跳ね起きる。巨大な質量がすぐそこまで迫ってきていた。速い。直進を横にかわしながら斬りつけるが、刃引きの刀は表面より幾ばくかを裂いたのみだった。
舌打ちする間もなく、巨大ゼリルーの体が視界で広がった。
「……っ!」
衝撃が襲う。壁に突き飛ばされた気分だった。吹き飛ばされたフヒトは背中から木に叩きつけられ、一瞬息が詰まる。
――まずい。
もともと疲労がたまっていた上に、今の一撃が頭を揺らしていた。すぐに立ち上がれない。そこへゼリムーがのしかかってくる。足がその体内に飲み込まれた。踏みつぶされはしなかったが、足は全く動かせず、これで逃げる事も出来なくなった。
――俺を食う気か。
分からないが、そんな気がした。もっとひどいのは、あの中に入ったら息ができずに苦しみ抜いて死ぬと、容易にわかることだった。そしてその時が近づいてくる。
最後に一か八か攻撃するしかないが、果たして通じるのか。
「えい、えいっ」
声が聞こえた。ゼリムーの頭上にエインセールがいる。自分よりも大きな、葉の沢山ついた大ぶりな枝を振り回し、攻撃をしている。
……いや、果たしてそれは攻撃なのか。
乾いた音を立てるそれはもちろん、なんのダメージにもなっていない。しかし気にはなるのか、フヒトを飲み込む速度が遅くなる。
そしてゼリムーの頭上表面が白く変色し始めた。
「ひゃわわわわ!?」
気づいたエインセールが慌てて飛び回る。ゼリムーの中で動きがあるのをフヒトは感じ取った。素早く動く彼女に狙いを定めようと、何かがせわしなく蠢いているのが外から見えた。
そこか。
腰まで飲み込まれていたフヒトは腹の力で上体を起こした。気づかれるより早く、定めた箇所へと刀を突き入れる。根元まで埋めたところで手応えがあった。半透明の巨体がびくりと震える。フヒトが小さく笑みを刻んだ。
――この剣はまともに使えたためしがないな。
妙な感慨を押しやり、手首をひねる。巨大ゼリムーの動きが止まった。剣を引き抜くと形を崩して地面に広がって行き、今度こそ動かなくなった。