ルチコル村の夜
「――そうだね、これなら完治まですぐだよ」
マリアンネはしばらく傷口を見たあとに、そう付け加えた。
フヒトの肩に刻まれた爪痕は思いのほか深かったが、すでに傷口の周りには桃色の肉が盛り上がりを見せていた。治癒魔法と包帯の取り替えを数回行えば、明日にでも全快するとのことだ。
「早めに治癒魔法をかけてもらったのが幸いしたね。おかげで爪の毒が防げたんだ」
「ええっ、灰色の古狼って、爪に毒をもってたんですか!?」
「それは危なかったな」
ベッドに上半身を起こしたフヒトは、神妙な顔でうなずいた。一歩間違っていれば、死んでいたかもしれない。
「ほんとにね、良かったよ。だけど治るまでは、肩を動かしちゃダメだよ。下手すれば筋肉が切れたまま、物が持てなくなってしまうからね」
マリアンヌが消毒液をフヒトの患部に塗ったのち、その上から包帯を巻いていく。老女であったが、その手つきはてきぱきとしていて、危うげない。
だが、その顔には疲労の影があるようだった。
「申し訳ない。今日の騒ぎで大変だったろうに」
「私のことかい? 確かにびっくりしたけど、アンネローゼ様の騎士たちがすぐに駆けつけてくれたからねぇ。ちょっと走って疲れたくらいさね」
にこやかに顔のしわを深ませて、マリアンネが言った。
「それより、お礼を言いたいのはこちらの方だよ。孫娘たちを助けてくれたんだからね」
「えっ、それじゃあおばあさんは……」
「リーゼロッテとオランジュのおばあちゃんさ。夕ご飯は腕によりをかけて御馳走するから、楽しみにしておいで」
気づくと、窓の外は黒く染まっていた。
食事を終え、フヒトとエインセールはあてがわれたベッドへと戻っていた。枕元には、ランプの炎がほんのりと瞬いている。
「美味しかったですね。おばあさんの手料理」
「うむ、うむ。怪我をしてなければもっと戴けたのに、残念だ」
「傷に障るので食べ過ぎはダメですよ? でもでも、おばあさんも嬉しそうでした!」
食事は三人でとった。リーゼロッテとオランジュは今夜、アンネローゼとともに村長の屋敷で食べるのだそうだ。リーゼロッテにとっては自分を助けてくれた他の街の者たちに対する、『姫』としての仕事でもあるらしい。帰りは夜遅くになるとのことだった。
もう一人、怪我をしていた赤毛の少年はヘンゼルというらしく、彼についてはフヒト以上に傷が浅く、自分の家で養生しているのだそうだ。
「お菓子でできた不思議な家に住んでいるそうですよ。一緒に住んでる妹さんがいらっしゃるとかで、その方が様子を診てくれてるんじゃないでしょうか」
「妹か……」
エインセールの話を聞いていたフヒトは、天井を見ながらポツリと呟く。
「どうかしたのですか?」
「いや、俺には果たしてどんな家族がいたのだろうかと、な」
記憶喪失であるフヒトには、そうした記憶ももちろんない。エインセールも忘れていたのか、「あ!」と声を漏らした。
「聖女を助けたり、花を探すという目的があったから気にはならなかったが……夜のせいか、少し寂しい気もしてくるな」
「フヒトさん……」
「だがなエインセール、良いこともあったのだ」
マリアンヌと話したり、一緒に食事をしていた時、ふと心に残る温かさを感じた。何か良い思い出を懐かしむような、そんな感覚だった。
以前、こうして誰かと話し、笑いあい、食事をしていた。
「俺には誰か、家族がいたのだ。少なくとも天涯孤独ではなかった。それが分かっただけでも幸いだ」
「そうでしたか……良かったですね、フヒトさん!」
このまま思い出すことが増えていけばいいですね……と言ったエインセールだったが、後半、その口からあくびが混じって出てくる。
「……すみません。今日は色々あったせいか、私も疲れてしまったようです」
「そうだな。もう寝るとしようか。今日はたくさん助けてもらったな……ありがとう」
「いえいえ、お役に立てて嬉しいです~」
妖精がベッドを離れ、眠たげな眼で飛んで行く。聞けば、気に入った寝床を見つけたようだった。
「……さて、俺も寝るか」
エインセールが外へ出ていくと、フヒトは伸びをする。
今日は色々とあった。疲れが出ないよう、早々に寝るべきだ。
ランプの灯を消そうと、フヒトが手を伸ばしたその時――、
『フヒト殿、聞こえるか?』
ベッド脇に置いた荷物――魔法の手鏡からシンデレラの声が聞こえてきた。小さな声だ。
『起きているのだろうか』
「……うむ。寝てないぞ」
フヒトが手鏡を取り、返事をする。
どうやらまだ、寝るには早いらしい。




