奇跡の軌跡
高校に向かう電車のなかで、わたしは音楽を聞き流しながら、ぼんやりと外を眺めた。
地面を這って走る電車が、大阪駅に着く前の少しだけ、高架の上を走る。時間にして、三分くらい。
わたしは、この三分が大好きだ。
ラッシュに湧く街が見える朝も好きだけど、夜はもっと。街に灯る明かりのひとつひとつの近くに誰かがいるのだと思うと、世界は広いんだなあ、なんてあたりまえに気づけるから。
いま、この地球上には七〇億人が暮らしているらしい。よくわからない。日本だけでも、一億と少し。やっぱりよくわからない。大阪市だけに限っても、二六〇万人くらいだっけ。これでも実感がわかない。
一円玉が二六〇万枚あって、わたしはそのひとつ。それならなんとかわかる気が――しないでもない。たぶん。
でも、それは今だけのこと。
過去に生きていた人、これから生まれる人、それも含めれば、わたしが生きているうちに存在した人って、一体どれくらいになるんだろう。
そんななかで、誰かに出逢うこと。
それは、わたしが思っているよりももっと、いや「もっと」なんて言葉で言い表せないほど、奇跡なんじゃないかなって思う。
生まれた場所が違えば、住んでいる場所が違えば、その日たまたま偶然同じところにいなければ、永遠に出会わなかったんだから。
だから、わたしは奇跡の出会いを大切にしたい。
せっかく出会えたから。いつも遠巻きに見ているだけの、名前も知らないあの人と巡り逢えたんだから。
ちょっとくらい、仲良くなってもいいんじゃないかなって。メアドかラインくらい、聞いちゃってもよくないかなって。
――今日こそは、声をかけてみよう。
わたしは決心して、電車を降りた。今日も、いい天気だ。
とは言ったものの……やっぱり勇気が出せなくて、隅っこの席にキャラメルマキアートひとつを持って鎮座するわたし。学校が終わった午後四時半、中之島のスターバックスだった。
さすがオフィス街だけあって、スーツ姿のサラリーマンばっかりだ。制服姿のわたしは、明らかに浮いている。といっても気にしているのはわたしだけみたいで、特に視線を浴びることもなかった。わたしが気づいていないだけかもしれないけど。
今日もわたしは、二人がけのテーブルにキャラメルマキアートと教科書を置いていた。勉強するわけじゃない。視線は――いた。あの人だ。
いつもテーブルを拭いていたりお客さんに気を配っている、女の人。笑ったところがすごくかわいい。軽く握った手で口を隠しながら、とてもとても上品に笑う。家で真似してみたら、だめだった。わたしはまだ幼すぎる、と精一杯の言い訳をしておいた。
年は、どれくらいだろう。わたしの見立てでは、二〇歳くらい。大学生だと思う。「ありがとうございます」の「す」を強く言う癖があって、その声はわたしの耳にクリアに届く。きっと、わたしが彼女の声を注意深く聞いているだけだけど。
時折、サラリーマンさんと軽く言葉を交わしている。ここでの仕事が長いのか、絵に描いたような常連さんと店員さん、といった関係だ。わたしの高校にもいるような男を勘違いさせる様子じゃなくて、あくまで店員さんとしてニコニコしている。ここもまた、上品なところだ。すごい。
だけど、名前を聞いたことがない。
店員さんに名前を呼ばれているところは見たことないし、サラリーマンさんとの会話にも出てこない。緑のエプロンには名前が書いてないから、こっちからもわからない。
二日に一回、ここに来ている。もちろん、目的は彼女に会うため。会うため、というか眺めているため、というか……初めて彼女を見かけた日から、今日でちょうど三週間目だ。だから、まだタイミングよく名前を呼ばれてないだけかもしれない。
だいたい、店員さんの名前なんて知らなくて当然だ。でも、知りたい。知りたくて知りたくて、仕方ない。三週間前の今日なんて、彼女はどんな名前だろう、かわいい名前なんだろうなあ、なんて考えて寝れなかったくらいだった。わたしが彼女に一目惚れしたんだと気づいたのは、次の日の現代文の授業中。気づく前も含めて一日中、彼女の笑顔が離れなくて、しかも心臓までバクバクで、大変だった。
その次の日にもここに来たけど、彼女はシフトが入ってなかったのか、いなかった。帰ってから禁断症状が出たみたいにベッドで暴れて、大泣きしたわたし。初恋にしては燃え盛りすぎだと自分でも思う。
勤めて長いのかな、というわたしの予想に反して、彼女はいつも雑用ばかりしていた。めったにドリンクを作らないし、レジにも出てこない。そのせいで、わたしがこの三週間で彼女と交わした言葉は、トレーを返すときの「預かっておきますね!」「あっ、ありがとうございますっ」なんていうたどたどしいものが一度だけだった。
今日もまた、わたしの視界のなかでテーブルを拭いたり、窓を拭いたり、お客さんと少しばかり話したり。今日もまた手の前で拳を軽く握って、ころころと笑う彼女。
「……かわいい…………」
小さく声を洩らして、ふと見惚れていたら、目が合った。気がした。どきっ! と恋の意識がなければ大急ぎで救急車を呼ぶレベルに心臓が跳ねる。
まえに一度――三回目に会ったときだったか、外に出てスマホを触っていたときにも目が合ったっけ。満面の笑みで会釈してくれて、これはわたしを覚えてくれてるな、なんて思った。恋愛経験のなさがバレる。
今回も、微笑んで会釈してくれた。わたしも小さく返す。笑顔は硬くなってなかったかな、変な顔してなかったかな、髪型はおかしくなかったかな、なんて済んでから慌てても、どうしようもなかった。わたしは肩を落とした。
教科書の隅に、「今日は声をかける!」という小さな文字を発見。そういえば、授業中にせっせと全ページに書き込んだっけ。そうだ、声をかけよう、声をかけなきゃ、お話したい、と気持ちが盛り上がってきた。
よし、声をかけよう。
「あの、すみません」? おかしいか。おかしいなあ。
「キャラメルマキアートおいしいなあ」? ひとりごとを装ってみようか。やめよう、これじゃ変な人だ。
「あれ、もしかして佐々木先輩? 中学のときの!」とか。「いえ違いますけど……」と気まずくなって終わりだ。一巻の終わりだ。却下。
どうしよう。「声をかける」ということしか決めてなかった。アホなわたし。
やっぱり無難に、「あの、すみません」で初めて、「かわいいですね」とか……言えるわけがない。「いつも来ちゃって邪魔じゃないですか」とか。あ、これがいいかもしれない。「いつも来ちゃって邪魔じゃないですか?」「いえ、そんなことないですよ」「すみません、居心地がよくって。えへへ」……いい。最高。これだけの会話が実現したと想像するだけでも嬉しくなってくる。
作戦は決定した。あとは、彼女がわたしのそばを通ってくれればいい。呼び止めて、お話しよう。彼女の名前は知れなくても、わたしのことは知ってもらえるかもしれない。店に来た大多数のなかの一人から、名前を知ってるなかのひとりに昇格できるかも。
それからも、わたしはずっと彼女を眺めていた。ふと我に返って時計を見るたびに、三〇分くらいが過ぎている。振り返ると、外は薄暗くなりはじめていた。七時半に閉店だから、わたしはいつも七時に店を出る。
あと三〇分でタイムリミット、という頃だった。
彼女が、わたしの隣のテーブルを拭きにきた。ちらっとわたしを見て、あの輝く笑顔。
「こんにちは」
完全に不意打ちだった。わたしも裏返った声で「こ、こんにちはっ」。嬉しさで目の前がホワイトアウトして、好きな人がまぶしくて直視できない、という現象を味わっていると、いつの間にか拭き終わってしまっていた。最悪だ。
気持ちが沈んで、少し冷静になった頭が――忘れかけていたことを思い出させた。
わたしは、どうしたい?
わたしは、彼女とどうなりたい?
わたしは、彼女と仲良くなりたい。
仲良く? 仲良く、ってなんだろう。どこからが仲良くて、どこまでが仲良くて、わたしの目指すところは、どこにあるんだろう。
これは恋だ。紛れもなく、恋だ。これが初恋だけど、わたしに備わった本能が叫んでいる。わたしは恋をしているのに、たぶん彼女のことが好きなのに、仲良く? 仲良く、で終わってしまっていいの?
だけど、「恋人になりたい」なんてことは言えなかった。
だってわたしは女の子だ。彼女も、女性だ。女の子同士で好きなんて、おかしい。恋は男と女の間で芽生えるもので、少なくとも世界中のほとんどの人が、そう思っている。
――きっと、彼女だって。
なら、わたしはどうするべきだろう。仲良くなって、いいのかな。わたしの土台は恋だから、恋心の臨む「仲良く」だ。困らせてしまうんじゃないかな。
今まで何度も悩んで、三回くらい徹夜して、だけどあえて考えないようにしていたことだった。友達は応援してくれたけど、だからって彼女も受け入れてくれるとは限らない。
考え始めたら、きりがなかった。
気づけばわたしが自分で決めたリミットの七時を超えていて、飲みかけのキャラメルマキアートを手に、スタバを出る。「ありがとうございますっ」と彼女の声がして、またどきりとした。
今日もまた話せなかった。
だけど、明日がある。明後日がある。きっと、明後日こそは話しかけられる、と思う。
わたしは高二だ。まだまだ時間は、たっぷりあるはずだ。
家に帰ってからも、さっきの問題がわたしの頭のなかをめぐる。
ベッドに寝転がって、天上を見上げて、ぼんやりと考えた。あいにく頭に自信はないけど、それでも自分なりの答えは出せるはずだ。
で、どうしよう。どうなんだろう。
わたしは、どうしたいんだろう。
そうだ。そういえば、あの人が本当に大学生かどうかもわからないんだった。もしかしたら社会人で、旦那さんとか、子供とか、いるかもしれない。
だからって、この恋が無駄だったとは思わない。思わないけど……なんだろう。つらい、でいいのかな。
わたしは、どうしたい?
伝えるだけ、伝えてみたい。たとえ砕けるとしても、当たってみたい。
だけど……もし、嫌がられたら? 嫌われてしまったら? わたしは、どうすればいいんだろう。どうしようもない。というか、考えるだけで泣きそうになってくる。
「……まあ、いいか」
わたしは天井を見上げて嘆息した。
いまのわたしは、遠くから眺めているだけでも満足だ。十分楽しんでから、勝負に出てみよう。それがいつになるかは、いつにするかは、いま急いで決めなくてもいい。
だって、まだまだ時間はあるのだから。
☆☆☆
一度チャンスを逃すと、再来はなかなかないわけで。
それから二週間経っても、わたしは彼女と一度も話せないままだった。
あっても、「こんにちはっ」「こ、こんにちは!」くらいの挨拶が往復するだけだ。ここのところ来れば毎日彼女がいるから、日曜と火曜と木曜の夜はなかなか寝られない。月水金の授業は気が遠くなりそうなほど長く感じられる。ついでに、いろいろ支度するので学校に遅れる。今日も怒られた。
隅っこの席で、今日もキャラメルマキアートをちびちびと飲みながら教科書を開くわたし。一〇月の末だった。
五時を過ぎると、仕事が終わったらしいサラリーマンが押し寄せてくる。席がいっぱいになると、わたしをいかにも邪魔そうな目で見てくるけど、こっちも本気だ。二人がけの席だし。とはいっても、彼女にも邪魔だと思われると嫌だから、一五分くらいで帰るけど。
入れ替わりが激しい時間だから、あの人も大忙し。わたしの隣を通り過ぎていく回数が、だんだんと増えていく。
わたしは、この時間帯も嫌いじゃなかった。
馴れ馴れしいサラリーマンたちが、彼女に話しかけるから。わたしにとって、彼女の声を聞ける数少ないチャンスのひとつだ。
彼女の動きを目で追っていると、今日も始まった。いかにも課長か部長か、といった中年さんが、彼女を呼び止める。
笑ってくれるだけでもいい。口の前で手を軽く握る、あの上品な笑顔を見られるだけで、わたしは最高に幸せだ。
いつもどおりなら、きっと自分のことは話さない。サラリーマンの質問に答えたり、相槌を打ったりするだけだと思う。
だけど――声が聞ける。透明感のある、かわいらしい声を。
視線に気付かれないように注意しながら、耳を傾けていると――
「いつ辞めるんだっけ」
と、さっきの課長さんが尋ねた。
辞める?
わたしは、思わず声のする方を凝視してしまう。尋ねたわけじゃなかったのかもしれない。部下に言ったのかもしれない。心のどこかで、それはわたしの虚像の永遠を崩す言葉だとわかっていても、信じられなかった。信じたくなかった。
「あと、今日合わせて四回ですね」
だけど、彼女は無情に答える。いつもの笑顔で、かわいい笑顔で。直視できなかった。
四回。
今日は一〇月二八日、水曜日。四回ってことは、毎日入ったとして、ちょうど一〇月三一日まで。ちょうど、きりがいい。……たぶん、本当だ。
わかっていたはずなのに。永遠なんてないんだって。
時間は無限にある気がしていた。わたしが高二だから、少なくともあと一年半くらいは、ここに通えるはずだった。毎週月水金はあの人を見ながら、ここでキャラメルマキアートを飲んでいられる、と信じて疑わなかった。
そんなわけがないのに。
物事には、いつか必ず終わりが来る。時間は限られている。理由は――なんなのかわからないけど。就職活動とか、大学卒業して故郷に帰るとか、なんだってありえる。わたしにはたくさん時間があるかもしれないけど、彼女は違う。本当に大学生だったとしても、少なくとも二〇歳以上だろうから、わたしより先にここを離れる可能性が高かった。
四回。
だけど――明日はダメだ。狙ったように都合悪く、個人面談がある。
明後日、金曜日。必ず来よう。土曜日も、必ず。少しくらい貯金崩したっていい。
明後日までに、気持ちを決めよう。この広い広い世界で、名前も連絡先も知らない人と離れてしまったら、きっともう一生会えない。
わたしの初恋は、永遠に叶わない。こっちの永遠は、たぶん実像だ。触れてしまう、確かなものだ。
ふと我に返ると、彼女と目が合った。笑顔で会釈してくれる。わたしも返した。硬い表情だったかもしれない。
なんだかよくわからないうちに、わたしは荷物を片付けて、冷たいキャラメルマキアートを持って、店の外に出る。薄暗い。帰ろう。
今日の夜、明日一日、よく考えよう。で、心を決めよう。
もう決まってるんじゃないか、とわたしのなかで誰かが言ったのも無視して、わたしは地下鉄の駅へと降りた。
☆☆☆
金曜日を、一睡もしないまま迎えた。
今日もわたしは、いつもの時間、いつもの場所に行く。アイスキャラメルマキアートを持って隅っこの席に鎮座して、教科書を広げた。今日もあの人がいる。
なんだか、とても落ち着く。今日は席についたらタイミングよく彼女が顔を見せてくれて、挨拶を交わした。相変わらず、かわいらしい笑顔だ。
完全に完璧に寝不足なわたし。ガラスにうっすらと映る自分の顔は、アライグマみたいとかではなかったけど、やっぱり眠そうだった。
時計を見る。レジのときに見えたら会話のきっかけになるかなと思って買った、本体に百合の花がついた小さい腕時計だ。ハートをかたどった二本の針の先が、もうすぐ四時半を示そうとしている。
――今日くらいは、いいよね。
わたしは頬杖をついて、教科書を読んでいるふうなんて装わず、ただ彼女を眺める。
わたしの目に気づいて、彼女はニッコリ笑ってくれた。少なくともわたしから見て、怪訝そうにするでもなく、嫌そうでもない。いつもどおり、テキパキと動いている。
わたしは、そんな大好きな人を、どんな顔で眺めていたんだろう。
「あの、わたし迷惑じゃないですか?」
口が勝手に動いたかのように、言葉が出た。彼女はわたしの隣で立ち止まって、
「全然、迷惑だなんて。いつもありがとうございます」
と笑ってくれた。しかも――座った。わたしの前に。わたしの前の席に。
驚いたわたしは、声も出せず目を丸くする。そんなわたしがおかしいのか、彼女は口元を手で隠しながら、上品に笑った。
「えっと、あの……居心地、よくって」
どぎまぎしながら言うわたし。彼女は頬杖をついて、わたしを上目に見つめて、
「よかった、嬉しい。私、――――。佳穂ちゃんが来てくれるの知ってて、いつも月水金のこの時間に入ってたんだよ」
なんて言うのだった。
私、――――。なんて言ったんだろう、よく聞こえなかった。隣の外国人さんトリオの声がでかい。
「へー……か、かわいい名前ですね!」
こんなかわいい人なら、名前もかわいいに違いない。名前は聞き取れなかったけど、わたしは本心を言った。
「あっ、ていうか、どうしてわたしの名前を……」
佳穂。そのきれいな声で呼ばれると違う人の名前みたいで一瞬わからなかったけど、間違いなくわたしの名前だ。どうして知ってるんだろう、というわたしの疑問に、彼女は教科書をトントンと示した。
なるほど、名前が書いてある。七瀬佳穂、読みにくい名前じゃない。
「佳穂ちゃんが来てくれる日は、緊張したんだよ? 私のこと、ずっと見てくれてるから。カッコ悪いところ見せられないなーって」
「へぁ! いや、その……す、すみません」
見ていたことを気づかれていて真っ赤になるわたしの頭を、彼女はポンポンと優しく撫でてくれる。なんだか夢みたいだった。急接近だ。わたしが望んでいたよりも、近づけたかもしれない。
「ううん、いいの。嬉しかったよ、私」
「わたしも嬉しかったです! 目が逢ったら微笑んでくれて、そのたび癒やされました」
「私も。疲れたときは佳穂ちゃん見ると、元気が出たんだよ」
これはいける。わたしの本能が教えてくれた。
恋人になれるかどうかはさておき、少なくとも仲良くは。このスタバの外で会えるくらいには、仲良くなれるはずだ。彼女は、きっと受け入れてくれる。
わたしは深呼吸して、気持ちを落ち着けて、思い切った。もはや無意識というか、本能的というか、考えるより先に身体が動く。
「連絡先、交換しませんか?」
言った。言っちゃった。
自分の行動に驚いて、さぞアホ面を晒してしまっているだろうわたしに、彼女はしっかりと一度頷いてくれる。そして――スマホを取り出した。
バンプを立ち上げて、軽くコツン。手が触れ合った。頭がオーバーヒートしそうになるわたし。
視界がやたらと明るくなって、大好きな人と連絡先を交換できたんだと実感したとき、わたしはきっと満面の笑みをしたはずだ。そうに違いない。だって、いままで一六年以上生きてきて、一番幸せな瞬間だったから。
それから、少し話して、わたしはスタバを出る。浮ついた足取りで肥後橋駅に向かう途中で、ふと思い立ってメールを打った。わたしは確実に暴走していた。
『今夜、一緒に映画でも見ませんか?』
やってしまった。いきなり、デートのお誘いだ。いや、デートとはわからないか。一緒に映画を見るだけ。ふつうの友達同士だって、あたり前にする。わたしにとっての嬉しさは、それとは比べ物にならないけど。
返信は、すぐに来た。地下駅でも携帯の電波が入る四つ橋線、バンザイだ。
OKを知らせる文字たちが、まるでわたしを祝福しているかのように見える。わたしこそ文字たちを胴上げしたいくらいだった。
しかも、八時半という時間指定つきだ。高校生のわたしを気遣ってくれたのか、「このあとどう?」なんて。このあと。このあたりの映画館なら、梅田にたくさんある。中之島からなら、歩いていける範囲だ。せっかくだから一緒に歩きたい。慌てて降りようとして、ドアに激突した。
泣く泣く諦めて、上映作品数が一番多い梅田ブルクで待ち合わせをする。わたしが到着して一〇分ほどで、彼女が見えた。人混みの向こうから、大きく手を振ってくれる。キャメル色のコートだ。初めて見る、スタバの店員さんじゃない彼女だった。
「おまたせ、ごめんね遅くなって」
「いえ! わたしも、いまついたところです! ――ひゃっ!」
ふいに、冷たい手を頬に当てられた。冷たかったのと驚きとで、悲鳴を上げるわたし。
「ふふっ、かわいい」
いつものように笑う彼女。かあっと耳の先まで熱くなるのを感じて、わたしは照れ隠しに頬をふくらませた。
「……きゃっ」
「仕返しですっ!」
完全に暴走中のわたし、超大胆にも彼女に抱きついた。なんだか泣きそうだ。嬉しくて。
わたしたち二人は、家路を急ぐ通行人たちの視線も気にせず、二人でビルに入る。映画館以外にも、雑貨屋とかいろいろあるみたいだった。映画を見終わった後にはきっと閉まっているだろうから、また今度、一緒に来よう。
そうだ、大阪駅ビルとか、あべのハルカスとかも行きたい。十一月になっても、彼女と連絡が取れるんだから。離れ離れになるわけじゃ、ないんだから。
わたしのなかにあった虚像の永遠は、永遠ではなくなったけど、確かにある未来として実像を結びはじめている。
七階でエスカレーターを降りると、映画館はすぐだ。タイムスリップ系の青春ドラマを見ることに決めて、わたしたちはカウンター向かう。
座席指定をしたり、学生証を見せたりしている間、わたしはもう一度、自分に尋ねる。
――わたしは、どうしたい?
今ならもう、なにも怖くない。女の子同士だとか、彼女にカレシさんがいるかもしれないとか、そんなの気にしなくていい。
――わたしは、彼女とずっと一緒にいたい。
その願いは、いま、現実になろうとしている。もう少し、手を伸ばせば、掴めそうだ。
確かにある未来を。最高の未来を。
わたしは、これからなにがあっても、彼女と一緒なら世界一幸せだ。誰がどれだけわたしたちを不幸だと言っても、自信を持って否定できる。
「行きましょう!」
チケットを受け取るのも忘れて、わたしは振り向いた。
……いない。
彼女だけじゃない。チケットもない。チケット係の人もいない。ここにいるのは、わたしだけ? おかしい、そんなはずがない。
「――――さん?」
あれ、わたしはなんて呼んだんだろう。あの人の名前、のはずなのに。わたしは今、なんて言った?
七階フロアを探しまわってから、エスカレーターを下りた。やっぱり見つからない。どうでもいい人たちはいるのに、彼女だけがいない。
外かもしれない。一階に降りようと思って――気づいた。
迷った。出られない。
おかしい。そんなに広いビルじゃない。一階に行くだけなら、エスカレーターを降りればいいだけのはずなのに……どうして。
そんなことよりも、彼女がいない。さっきまで隣にいてくれた、大好きなあの人が。
耐えきれそうになかった。いまにも泣きそうになって――
目が覚めた。
「あぇ?」
梅田ブルクじゃない、スタバだ。いつもの、あの中之島のスタバ。なのに、人が少ない。
顔を上げると、いた。彼女だ。わたしの前の席で、わたしを心配そうに眺めている。
思わず名前を叫ぼうとした。だけど――思い出せない。名前、なんだっけ。
「あれ?」
急に頭がはっきりしてきた。もしかして、もしかしたら――。頭に浮かぶ最悪な想像を否定しながらスマホの連絡帳を見る。
ない。
連絡先が。登録されていない。しかも、時刻はまだ七時半すこし前。
夢、か。
全部全部、夢だった。あの人と仲良くなれたのも、映画に行ったのも、全部夢だ。
「大丈夫ですか?」
わたしの前に座った彼女が、心配そうな声で尋ねてくれる。さっきとは違って、どこかよそよそしい。
「は、はいっ。すみません、もう閉店ですよね、帰ります」
明日、また来よう。今日は寝ちゃったけど、明日は悔いのないように、彼女の笑顔を目に焼き付けよう。
荷物をまとめて立ち上がると、背中からなにかが落ちた。キャメルのコートだ。
「あ、それ私のです。すみません、余計なことして」
夢に出てきたのと、同じコートだった。拾い上げて返すとき、涙が溢れそうになるのを、ぐっとこらえた。
「いえ。あの、ありがとうございます」
わたしがお礼を言うと、彼女はいつもの笑顔で「いえ」と。
急に現実に戻されて、確かにある未来も、最高の人生も指の間からすり抜けていった後、急に頭も心も冷静になった。
「……ホットのキャラメルマキアートひとつ、もらっていいですか?」
閉店準備が始まった店内で、無理かもしれないとわかっていながら、財布から全財産を手に取った。明日のための四二〇円だ。
「少々お待ちくださいね。――ホット、キャラメルマキアートー!」
その声と笑顔を見ると、やっぱりまた涙が上がってくる。
彼女はレジを他の人に任せて、わたしのためにキャラメルマキアートを作ってくれた。一ヶ月と少し通ってきて、初めてだ。
カップに記された『CM』の文字も、カップを満たすエスプレッソやミルク、格子状にかけられたキャラメルも、全部全部、あの人がわたしのために。
「ありがとうございます!」
少し高めのカウンター越しに、キャラメルマキアートを受け取るわたし。無意識のうちに狙ってしまったのか、手が触れ合った。
温かいカップを受け取って、わたしも「ありがとうございました」と、少し別の意味を込めて言った。受け取ってくれたのか、彼女はまたニコリ。
その笑顔から、視線を外す。もう振り返らない。
スタバを出ると、すっかり夜になっていた。キャラメルマキアートに口をつける。上のほうは、ミルクばっかりみたいだ。ホットもおいしい。
夢に見た世界は、もちろん最高だった。これ以上にないくらい、幸せだった。
でも、ここは夢じゃない。現実だ。ああもうまくいくとは思えない。
なら――これが、最高なんじゃないかな。
あの人は、わたしにコートをかけてくれた。わたしを心配して、わたしの前に座っていてくれた。最後に、あの人の作ったキャラメルマキアートを飲めた。
夢は夢のままにしておこう。
夢に比べたら小さいけど、嬉しいことがあったのだから。これを最後にしよう。有終の美だ。かけがえのない想い出として、青春の一ページに刻んでおこう。明日も明後日も、これから彼女に会うためには、ここに来ないでおこう。
この恋は、今日で終わりだ。このキャラメルマキアートを飲み終わったら、それで。
――さよなら、わたしの初恋。
冷たい風が、わたしの髪を撫でる。
頬の涙が冷やされて、わたしはようやく、自分が泣いているのだと気づいた。
☆☆☆
それから恋をしないまま、一年半が過ぎた。
わたしは高校を卒業して、大学に進学。受験もそこそこ頑張ったから、そこそこの大学には入れたと思う。
一ヶ月でなんとか学校に慣れたわたしは、念願のバイトを始めた。家の近くの、スターバックスだ。
あの恋は終わった。もう一年半も前に。だけど、忘れたわけじゃない。
中之島のスターバックスも、店内の雰囲気も、あの人の笑顔も、全部覚えている。一生、忘れたくない思い出だ。
あの人はいま、なにをしているだろう。
幸せかな。幸せに暮らしていてくれたら、嬉しいな。
あれから何人の人が生まれて、何人の人が死んで、どれだけ世界が動いたんだろう。もし彼女とどこかで逢ったら、それは初めて出逢ったときよりもすごい奇跡だ。
だから、もしまたどこかで、
「こんにちは! ――あっ」
彼女と巡り逢えたら……
Fin.