うそ、ほんと
綺麗な水色だった。
俺は水色が好きだった。
小さかった頃、濃い青色の絵の具に白い絵の具を混ぜたら綺麗な水色ができて、すごく、嬉しかったのを覚えてる。
俺の絵の具セットからは、青と白が、他のどの色よりも早く無くなった。
だって俺は水色が好きだったし、紙いっぱいに空を描くのが好きだったから、だから。
空は、昨日の豪雨が嘘だったかのような、雲一つ無い、透き通った水色だった。
俺はそんな水色が、本当に好きだった。
深く息を吸い込んで、吐き出す。
昨日の雨が、空気中の不純物を全て洗い流してくれたようで、気持ちが良かった。
「わぁっ!」
「うおぉ!? びっくりしたぁ……」
突然大きな声がしたので、俺は驚いた素振りをしてみせた。
でも、嘘だった。俺は全く、驚いてなんかいなかった。
彼女は、彩はいつも通りに、俺の驚く顔を見て、笑った。
彩はいつもこうやって、俺を驚かせた。後ろからやってきて、「わぁっ!」って大きな声を出して、俺の肩をトンッ、って叩いて。
毎日、毎日。一日に、何回も。俺はその度に、驚いたフリをした。
そしたら彩が、笑ってくれるから。
「あははっ。待った?」
「ううん。ぜんぜん」
これも、嘘だった。俺はもうここで、三十分以上待っていた。
でもだからといって、本当のことを言って、彼女に謝らせるようなことはしない。
彼女に無駄な罪悪感を抱かせてしまうようなことは、しなくていいんだ。
行こっか、と言って俺が歩き出すと、彩は「うん」と返事をして、隣に並んだ。
二人並んで帰るのも、今日で最後だ。明日は卒業式だから、両親か部活の友達と、帰るだろうし。
思えば、小学校の頃から数えて九年か。彩と、出会ってから。
小学校の時は、六年間ずっと同じクラスだった。初めて座った教室の席で、彼女は前の席だった。
“一目惚れ”だった。教室に入ってすぐ、目が釘付けになった。目がクリクリッと大きくって、髪はまっくろサラサラで。肌は雪のようにまっしろで。まるで、アニメのキャラクターがそのままテレビから飛び出してきてきたみたいだった。彩は、俺の初恋の人になった。
これは後から知ったたことだけど、彼女の母親はモデルをやっていたらしい。授業参観の時なんかにたまに見ることがあったけど、確かに綺麗な人だった。遺伝、ってやつなんだろう。
俺はとにかく彩と話したくって、「えんぴつわすれちゃったから、かして」って話しかけたんだ。初めての授業の時に。彼女の肩を、トントンッ、って叩いて。
彩は筆箱から鉛筆を一本取り出すと、俺に「はいっ」って言って渡してくれた。その後、前に向き直った彼女は、自分の消しゴムを半分ちぎって、それも渡してくれた。「あげる」って言って。
俺は、心が痛んだ。鉛筆を忘れた、っていうのは、嘘だったんだ。
彩とはすぐに仲良くなって、学校が終わると一緒に帰った。その帰り道が何よりも、一日で一番楽しみな時間だった。
中学校に入ってクラスが変わっちゃったけど、中二、中三時のクラス替えではまた同じクラスになった。彼女はテニス部に入ったから、一緒に帰る機会はぐんと減った。でもたまに、本当にたまに、彼女の部活が休みの日があると、一緒に帰った。
俺はそんな時には、前もって考えておいた、彩の好きそうな、笑ってくれそうな話をした。その話っていうのは大抵誇張された実話で、嘘まじりの話だったとも言える。でも、そんな話でも、彼女は腹を抱えて笑ってくれた。彩に笑って欲しくて、彩の笑顔が見たくって、彩の気持ちのいい、カラッとした笑い声が聞きたくって。俺は一生懸命だった。
彼女は笑い終えるとよく、「やっぱ慎の話はおもしろいね」って、言ってくれた。
そんなことを言われたら、俺は嬉しくって。本当に、本当に……。嬉しかった。
「下駄箱の所でともちゃんに捕まっちゃってさ。ちょっと話してたの。私、慎が待ってるから早く行きたかったんだけどね、ともちゃん話し出すと止まらないから……ん? どうしたの?」
俺が目尻に溜まった涙を指で拭いながら、鼻をすすったのを、彩は見逃さなかった。
「いや、花粉がさぁ。今日、すげぇ飛んでる」
嘘だった。
俺は今までにあった、彩との色々な出来事を思い出していた。そしたら、涙が出てきてしまったんだ。
「そっかぁ。慎、花粉症ひどいもんね。私は花粉症じゃないからよくわかんないけど、もう飛んでるんだぁ。でも今年はね、去年に比べたらそうでもないって。昨日ニュースでやってたよ」
「マジ? よかった」
「うん」
人気の無い、静かな住宅街を、二人で並んで歩く。
それはいつもの、帰り道だった。
今日、学校は卒業式の練習しかなくて、今はたぶん、一時くらい。
陽光は暖かくて、吹き抜く風は涼しかった。
「明日、卒業式だね」
彩が、ぽつりと言った。
「うん」
「私ね、明日は泣かないよ」
「えぇえ!? うっそだぁ!」
俺はおどけた調子で、からかうように言った。
「ほんとだもん!」
彩は笑いながら返す。
「だって小学校の卒業式の時はすげぇ泣いてたじゃんか」
それだけじゃない。小学校四年生の時、学校の授業の一環でミュージカルを観に行った時も。五年生の時、友達が転校しちゃった時も。この前の合唱コンクールでクラスが優勝した時も。
彩は泣いてた。俺は彩の泣いている所を、何回も見たことがあった。
涙を流す彩の横顔は、本当に美しかった。
「いや、明日はね。泣かない」
微笑みながら、きっぱり言い切る彩。
そんなこと言って、でもやっぱ泣くんだろうなぁ、なんて思う。
「そっか」
それでも俺は、それ以上は追求しなかった。彼女がそう言うんだから、そうなんだろう。
「……今日は慎、静かだね」
「そうかな」
「うん」
「俺にだって、そんな気分の日はあるさ」
俺はもう、嘘をつくのが嫌だった。
口を開けば、嘘がこぼれ出してしまう。もう嘘を、つきたくなかった。
「高校……どうして違う所にしたの?」
ドキッ、と胸が高鳴った。
俺は空を見上げながら、言う。
「いや、俺には光才は向いてないかな、って。思ってさ。ほらあそこ、校則厳しいらしいからさ」
でも、これも嘘だった。
彩含めて、うちの中学からは近くにある光才高校に進学する人が多かった。
でも俺は自分で選択したんだ。そこには行かない、って。
「そっか。慎も、光才行くんだと思ってた」
「俺は俺でがんばるからさ。彩は将来、“お花屋さん”になりたいんだろ? がんばれよ」
彩は小学校一年生の時から言っていた。“お花屋さん”になりたいって。それは今でも変わっていないようだった。俺のこの言葉は、嘘じゃなかった。純粋に、彼女の夢が叶いますように、と想った。
「うん」
彩は前を向いたまま、頷いた。
もう少しで、彩の家だった。
この道をまっすぐ行って、路地を曲がれば、そこにある。
「違う高校行ったらさ、もう会わなくなるのかな」
少しさみしそうに、彩が言った。
「いや、なんだかんだ言って、結局また会うだろ」
嘘だ。俺は高校に入ったら、もう彩と会うつもりはなかった。
でも俺は、彩のさみしそうな表情を見るのなんて、耐えられなかった。
「そうだよね」
確認するように、彩が言う。
路地の入り口で立ち止まる。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。じゃあ」
バイバイ、と手を振って、彩が行く。行ってしまう。
家に入るまで、俺は見ていた。彩は扉を開け、中に入る直前にこちらを見て、もう一度手を振った。
俺も手を振り返した。扉がバタンと音を立てて、完全に閉まる。俺は元来た道を引き返した。
ごめん、彩。この道の先に、俺の家があるっていうのは、嘘だったんだ。
俺は九年前、彩と一緒に帰るために、嘘をついた。同じ方向だって。俺の家は本当は、真逆の所にある。
今まで君に、どれだけの嘘をついてきたんだろう。
彩と付き合いたいと思ったことは無かった。この友人関係が壊れてしまうのが怖かったというのもあるけど、何より、彼女は美しすぎた。
容姿が、というのもあるけど、それだけじゃない。なにより精神が、心が美しかった。
嘘つきで、何も誇れるものを持っていない俺じゃ、君とは釣り合わない。俺じゃ、君を幸せにしてあげられない。
わかっちゃいるのに、君に会うとどうしても、俺は君とずっと一緒にいたいって、叶わない夢を見てしまう。
だから、俺は、もう君には会わない。
俺は君とは違う高校に行って、君じゃない人のことを好きになる。
もうこの道を、俺はもう二度と歩かない。なぜなら歩けば、思い出してしまうから。
二度と歩かない道を、一人まっすぐに歩いた。
でも、でもね、彩。
君のこと、本当は、
本当に、
本当に