昼前の事件
僕は、ずれかけた眼鏡を、人差し指でくいっとあげた。
歌いながらのスキップのせいか、けっこう疲れて息が切れて、肩が上下する。跳ねまくったせいで髪は乱れたし、大分みっともない格好だろう。
けれど今の僕には、眼鏡を直すという自然な動作しかできなかった。
僕の目の前には、一本の曲がり角。高い塀のせいで曲がってくる車が見えないということで、ミラーが設置されている。そのミラーに、とんでもない美少女が写っていた。
え、あれ、僕って人だよね?
思わず指さし確認したくなるほどの美少女。しかしどういうことか、鏡に写った少女は塀に顔をむけていて、肝心の顔がよく見えない……!!
なんで美少女とわかったかといえば、彼女の髪があまりにきれいに日に反射して、少し覗く華奢なひざの裏や、白い首筋が、「美人ですよー」と僕に笑いかけていたからだ。
きれいな赤っぽい色の髪をまっすぐ、腰のあたりまで伸ばしていて、その割にはわりと小さな背丈だ。僕と比べたら結構身長差がありそうで、ノースリーブの淡い緑のワンピースから覗く細くて白くて折れそうな肩も合わせると美人というよりかわいい、の方があっているかもしれない。
僕が肩で息をしながら少女を見つめているのをもし人に見られたら、通報されたかもしれない。いや、一応女さ、女同士なんだけどさ。
……駄目だ、しまったしまった。
僕は軽く咳払いを二度して、光速でショートヘアの黒髪を整えた。、そうだ、僕はピアノ教師なのだ。無理やり資格を持っているんだ、今日も午前、予定が入っているんだっ。
心を乱すな、僕。
絵に書いたら口が直角に曲がっているような笑顔を無理にうかべて、ミラーを見ないように、ぎこちなく歩を進め始める。
だけど、三十分のレッスンで、幼稚園の子に「ぶんぶんぶん」を教えている間にも、その後の小学生に教えているときも、あの後ろ姿が頭から離れなかった。
僕は女の子だもん。惚れてなんかないもん。でもあの美しさだけは、くそう、正直、羨ましい。
僕はそそくさと従兄妹の家を出ていくと、自宅へと歩き始めた。角を曲がって、そして、運命のあの角。
はたして、そこには。
あの少女が立っていた。
僕は硬直する。
彼女の胸の前には「ひろってください。」と書かれた段ボールがぶらさがっていた。