呑気な商人
頭を踏まれ、商人はようやく我に返った。
(あれ? あ、・・・あー、えーっと、そっか、僕、誰かに殴られたんだね。)
腕や足をさりげなく、少しだけ動かしてみる。どうやら拘束はされていないみたいだ。まずはそこに一安心する商人。
左手は女性の手の中だ。さっき一瞬見えた時、なんだか泣きそうな顔をしていたので、商人は心配になってきた。少し強めに握り返す。
本当は笑顔で勇気づけたいところだが、横向きに地面と引っ付いている頭の上には、誰かの足がそのまま置かれている。
(うーん、まぁ、耳を踏まれてないのは良かったかなぁ。あと、“ぐりぐり”もされてないし。)
どこまでも呑気な商人である。
唯一の憂いは、押さえつけられた状態では、状況が見えないことだ。状況の理解は苦手だが、ラヴィやザックの足手まといにはならないよう、商人は商人なりに精一杯気を張っているのである。
ついさっき暗殺者を窮地に追いやったことは、壊れた故の無意識の行動。すなわち“事故”というやつだ。商人に責任は無い。
(万事休す、かなー・・・?)
商人はぼんやりとそう思って、目を閉じた。
下手に動く事は出来ない。動いても裏目に出ることは明らかだ。
耳からいろんな情報が入ってくる。
右耳からは、石畳を通じてきた戦闘の足音が。
左耳からは、占い師の老婆が呟く微かな声が。
「【――――――~に閉じ込めた蛇の死骸が牙を向く、新たな血を求め黄泉の道を這う、新たな血の名はザック=ロマニー、」
(っ?! ザック?!)
「彼の血を吸い付くし壺の奥底に締め上げて転がせ、運命は私に味方をし、運命は彼に刃を向ける、彼の名は私の手の中にあり、彼の命は私の手の中にある】!」
どう考えても良い内容ではない呪文が、親友の名を絡めて、おそらく完成したようだ。魔法は門外漢だが、雰囲気でそれはわかった。
(なんで・・・ザックの名前を知ってるんだろう?)
つい先程自分が大声でばらしたんだということは、まったく記憶に無い商人であった。
右耳から振動のように伝わる戦闘音が、ほんの少し変化した。
規則正しくは無いが、独特なリズムを持って続いていた機械のような音が、乱れたのである。
(あああ、ザック? ザック?! ザックがやばいの? ヤバイのかな?! どうしよう? 僕に何ができる? 何ができるの?! 足の人が退いてくれれば、いや、あれ? それでも駄目か?)
「おや、どうかしましたか?」
身動ぎしたのが伝わったのだろう。足の人が言った。たぶん見下ろされてるのだろうと思ったが、商人からは見えなかった。
「何か、気になることでもありました?」
「あ、ええと、その、ザック・・・ザックは、大丈夫かなーと、思って・・・。」
「あなたは、彼のお知り合いなのですか?」
「友人です。」
「そうでしたか。それでは、あなたの心配も当然のことですね。戦況としては五分五分、といったところですよ。」
「そうなんですか?! 良かった~。」
一応補足しておくが、この間も商人の頭上に足はある。
足の人が鼻で笑った。
「えぇ、本当に・・・さすがとしか言い様のない戦いぶりです。2人の魔術士から呪いを受けて、まだあれほど動けるとは・・・脱帽ですね。降参はしませんが。」
「・・・呪い?」
「さて、こちらも手を打っておきましょうか。“朽縄”、少々、アリシア殿をお任せしても?」
「あいよ。」
フェルの呟きはすっぱり無視されて、見えない頭上で事が動いていく。
(――――っ、痛い!)
体重がかかった。商人は眉をひそめる。繋いだままの左手に力を込めそうになって、慌ててそれを押し留めた。
ふっ、と頭への圧力がふいに弱まった。
足の人の足が持ち上がる。当然の反射として、商人の頭が少し浮かんだ。
瞬間、再び下ろされた足が圧倒的な暴力を伴って商人を襲った。
「い゛っっ!」
商人の頭の中で火花が散った。目の奥がチカチカして、涙が滲む。石畳に赤い筋が流れた。
商人が左手に力を込めたからか、ジキルの暴行を目の当たりにしたからか、アリシアが悲鳴を飲んだ。
堅い靴底のブーツが、今度は商人の耳をも巻き込んで、まるで煙草の火を揉み消すような気軽さと荒々しさをもって、左右に動く。
商人は手足をばたつかせた。うめき声しか出ない。
(うあああああっ! 痛い! 痛い痛い痛い痛いぃっ! ちょ、“ぐりぐり”やめてーっ!!)
商人の悲痛な心の叫びが聞こえたのか。
唐突に再び、足が離れて――――間髪入れずに同じ足が腹にめり込んだ。
「っぐぅっ!」
衝撃に押されて横に転がる。繋いでいた左手が外れた。
次の被害者はその手だった。
「うああっ・・・!」
投げ出した左手が容赦なく踏みにじられて、アリシアのぬくもりが掻き消える。
商人は本当に泣きたくなってきたが、もはや泣いている暇も無い。ただひたすら、暴力に耐えるしか彼には無かった。
頭を抱えて踞れば、ピンポイントに脇腹を蹴られ、それに反応して手が動けば、すかさず頭を蹴られる。
「無抵抗というものは楽ですが、つまらないものですね、っと。」
「うっ!」
何発蹴られたのか分からないが、商人はだんだん頭が朦朧としてきて、体から力が抜けてきた。
足で肩を押される。されるがままに、仰向けになる。
肩を踏まれて押さえ込まれた。
暴力が止んだのを見て、商人は恐る恐る目を開けた。
ぎらりと光る刃先が顔の上の方で揺れている。
その向こうに足の人の顔があって、商人は初めて自分をいたぶる人物を知った。
(普通の人だなぁ・・・。)
微笑んでいるその人の姿は、普通の優男の風情で、有能な人なんだろうなぁなどと商人は思った。
ナイフが揺れる。
例の切れ味抜群のナイフだ。
柄を人差し指と中指で挟み、わざと不安定にしているようである。
(あぁ、殺されるんだなぁ。)
商人は思った。
死ぬのは怖いが、泣くほどのものではない。泣いてしがみつくほど、生に対する執着もない。なにより彼は、不条理な暴力に耐えることに嫌気が差していた。暴力が無ければ、それでいいかと。できれば即死がいいなぁと、それくらいしか思わなかった。
「さて、どうします? 王子様、“蜃気楼”? 武器を置いて、大人しく投降なさった方が、よろしいかと存じますが。」
戦闘音は今や聞こえなかった。ザックが全て倒したのか、ただ膠着しているだけなのか、商人は知らないし、正直どうでも良かった。
ただ商人はぼんやり、
(名前を聞いておけば良かったなぁ・・・。)
と、見知らぬあの女性に想いを馳せた。




