恋人の仲
「はい、診断モード終了。ここからはただの彼女」
モニターを睨みつけていた鋭い視線が、一瞬で弛緩する。つい数秒前まで転換性障害だの適応障害だのと理屈を並べていた専門家は、どこかへ消えた。彼女は椅子の背もたれに深く体重を預け、僕の顔をまじまじと見つめる。
「で、この配信環境。マジで意味わかんないんだけど。OBS? なにこれ、カルテのシステムより不親切。定着率とかいう数字、血圧測定みたいに語らないでよね。……まあいいわ、やり方は今覚える」
彼女のPC操作は、カルテ入力に特化していた。美容や外科、精神的サポートへの志向はあるが、ストリーミングという遊びのインフラへの理解は低い。それでも、彼女は拙い手つきでマウスを動かし始めた。医者の卵としてのリスクヘッジ以上に、今はただ、目の前の彼氏が夢中になっている不条理な遊びに首を突っ込みたいという、恋人としての好奇心が勝っているようだった。
「ねえ、これ画面切り替わった? ……あ、間違えた。これじゃアバターが消えて顔が映っちゃう」
「危ない、それは放送事故だ。僕の顔がバレたら、父と刺し違えるしかなくなる」
「いいじゃん、こんなに整ってるんだから。視聴者にお裾分けしてあげたいくらい」
彼女はケラケラと笑いながら、不慣れな手つきで設定画面と格闘する。高度で合理的な配信システムに対して、彼女の拙いオペレーションが摩擦を生む。だが、その不合理な状況こそが、僕にとっては唯一の現実の重石となっていた。
配信が始まれば、僕は再び姉をトレースした、健気でポジティブなツン寄りの少女になる。隣で操作を補助する彼女は、モニターの中で瞬く虹色の少女と、マイクの前で喉を鳴らす僕を、交互に観察していた。
「……やっぱり、このガワ、あなたの骨格と親和性が高すぎるわ」
彼女の瞳に、医学的な懸念とは別の熱が灯る。女装衝動。僕の外見的魅力を再認識すると同時に、この美しいアバターの中身である僕自身に、物理的なガワのコンバート――つまり、僕を本物の女装させてみたいという衝動が、彼女の中で膨れ上がる。
「ねえ。配信終わったら、ちょっと着替えてみない? 私、外科的アプローチは得意だけど、こういう装飾のアプローチも嫌いじゃないの。……っていうか、このアバターより斎太くんの方が絶対可愛くなる」
「……やめてください。乖離が進むって言ったのはあなたでしょう」
「それはそれ、これはこれ。今は恋人モードなの」
彼女は、僕が壊れるのを危惧する理性を、女装させて愛でたいという私情で上書きしようとしていた。チャット欄が「お姉ちゃん最高」「今日も妻が可愛い」という賞賛で埋め尽くされる。それを見た彼女は、不慣れな操作への苛立ちを通り越して、微かな、しかし明確な嫉妬を口にした。
「……なんか、腹立ってきた。私の彼氏なのに、画面越しに数千人の夫に愛想振りまいて。私の前でだけ、そのデレ見せてればいいのに」
医学的理解と、恋人としての独占欲。不慣れなスキルによる摩擦と、女装衝動。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った、歪な協力関係が成立した。
配信終了後、彼女は僕の頬を軽くつねりながら、水を差し出してきた。
「はい、お疲れ。……次は、私が選んだ服に着替えてもらうからね。命令よ」
最初は、僕を忘れないでいてくれる特別な存在だと思っていた。だが、今は違う。彼女は、僕が仮想の海に溶けて消えないように、現実の岸辺で冷徹に杭を打ち込み、時に欲望のままに僕を引き回す観測者だ。恋人としての視点が決定的に強まり、僕の活動は彼女の監視と趣味によって、さらに逃げ場のない場所へと追い込まれていく。




