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父の形見は美少女Vtuber  作者: 伊阪証


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6/8

無知と知

空になった炭酸飲料の缶を、指先で弾く。昨日のエゴサーチの結果が、今も脳の片隅にこびりついて離れない。「父の妻」という歪んだラベリング。不条理だが、それを否定するコストを考えれば、放置が最適解だ。その毒を孕んだ認識を背負ったまま、僕は一人の女と向き合う。僕には、彼女がいる。


彼女には、今日という日を全力で使い切り、翌日にはすべてを鮮やかに切り替える性質があった。過去の交際相手など、彼女の脳内では既に消去されたデータに過ぎない。その冷徹な忘却のシステムの中で、僕は唯一「覚えられている側」という特権を維持していた。


僕は、自分が虹色の美少女として父の隣で「妻」を演じている事実を、彼女に話していない。配信という遊戯は、僕の知的好奇心を存分に満たしている。もし、この活動をやめるか彼女と別れるか、という二択を突きつけられれば、僕は迷わず別れる方を選ぶ。今の僕にとって、仮想の皮を被った論理的な構築作業は、それほどまでに代えがたい。


隠し通す労力は非効率だ。僕は躊躇なく、事実を打ち明けることにした。


「実は、父のサポートでバ美肉を始めたんです。一度、家に来てください」


カフェのテーブルを挟んだ彼女は、理解を示すような素振りも見せなかった。


「は? バ美肉? 何それ、ウケる。おじさんが美少女になるやつでしょ? 斎太くん、そういう趣味あったんだ。全然いいけど、明日には忘れてるかも」


その軽薄な、いかにも馬鹿げた反応。それが僕の知る彼女だった。


数日後、彼女を自宅の作業部屋へ招いた。モニターには、東風煮さんが心血を注いだ虹色の少女が、僕の動きに合わせて緩やかに瞬きをしている。彼女は、その画面と、マイクの前に座る僕の姿を、興味なさそうに眺めていた。


「へー、結構ガチなんだ。この機材とか、高そう。でも、斎太くんがこんな可愛い声で喋るの、想像するとマジで笑えるんだけど」


彼女は笑いながら、机の上に置かれたVRゴーグルやトラッカーに手を触れる。その手つきは、単なる好奇心によるものに見えた。だが、彼女がふと、僕のアバターのアナリティクス画面や、モーションの補正設定を覗き込んだとき、その瞳の温度がわずかに変わる。


「……ねえ、斎太くん。これ、自分で設定したの? モーションの反応速度、あえて少し遅らせてるでしょ。脳の処理と実際の動きに、意図的にラグを作ってる」


「……ええ、その方が、キャラクターとしての『お姉ちゃんっぽさ』が出ると思って。父の理論です」


「ふーん。理論、ね」


彼女は笑うのをやめ、じっとモニターの中の少女を見つめた。その視線は、もはや「面白いもの」を見るそれではない。検体を見る医者の、あるいは構造の欠陥を探す技術者のそれに近かった。


「バ美肉とか、ただの遊びだって思ってるんでしょ。でも、あなたが今やってること、医学的に見ればかなり危うい橋を渡ってるわよ」


不意に投げかけられた言葉の鋭さに、背筋が冷たくなる。


「適応障害、あるいは転換性障害。その予兆が、この設定とあなたの振る舞いに出てる」


「……何の話ですか」


「特定のロールプレイへの過度な没入。それも、自分とは正反対の『健気な美少女』という役割への。脳は、現実のあなたと、画面の中の理想像との乖離に耐えられなくなる。今はまだリピート率とかいう数字で誤魔化せてるけど、そのうち、自分がどちらの自分なのか、出力の整合性が取れなくなるわよ」


彼女は僕の顔を覗き込む。そこには、先ほどまでの軽薄な馬鹿っぽさは微塵もなかった。


「あなたが、あなたでなくなるのなら、私は交際を継続する理由を失う。私は明日には忘れるって言ったけど、それはあくまで、価値のない記憶を処理してるだけ。あなたが壊れて、別の何かに書き換わるのを、黙って見てるほど私は愚かじゃないの。医者の言葉を過信するつもりはないけど、ロールプレイ没入による自己乖離を、単なる遊びだと片付けるほど、私の知識は浅くない」


医学的観点からの冷徹な指摘。転換性障害、自己の乖離。彼女が口にした言葉は、僕が「論理的」だと思い込んでいた活動の脆弱性を、正確に射抜いていた。


言葉を失った僕の胸に去来したのは、安っぽい愛着ではない。僕を忘れないでいてくれる特別な存在だと思っていた彼女への、決定的な再評価だ。彼女は、僕が仮想の海に溶けて消えないように、現実の岸辺で冷徹に杭を打ち込んでくれる「観測者」だった。


僕の口から出たのは、場違いな告白だった。最初は、僕を忘れないでいてくれる特別な存在だと思っていた。だが、今は違う。彼女は、僕が仮想の海に溶けて消えないように、現実の岸辺で冷徹に杭を打ち込んでくれる「観測者」だ。


彼女に対する印象は、最初と最後で一変した。彼女は僕の癒やしなどではない。僕の論理が暴走したときに、それを断罪し、現実に引き戻すための、冷たくて硬い壁。その壁の向こう側には、僕を救おうとする圧倒的な優しさが、論理という形を借りて存在していた。


「活動を続けるのは勝手。でも、私の命令一つで、あなたはその電源を切る準備をしておきなさい。それが、私という現実を繋ぎ止めるための条件よ」


「はい。肝に銘じます」


僕は彼女の冷淡な宣言を全面的に受け入れた。関係は継続する。だが、僕の虹色の活動は、彼女の命令次第でいつでも消滅しうる不安定な均衡の上に置かれることになった。

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