姉と僕
空になったゼリー入りの炭酸飲料の缶を、爪先で弾く。乾いた金属音がワンルームに響き、消えた。
昨日、僕は虹色の髪を持つ美少女として、六十人の「定着」を勝ち取った。だが、現実の僕を待っているのは、六十万人のフォロワーを持つ「父」が散らかしたリビングの掃除と、腹を空かせた姉の世話だ。
「斎太くん、ごはんまだー?」
ソファでだらしなく足を投げ出しているのは、常盤だ。
彼女は読者モデルをしている。誌面の中では、光の加減や角度を計算し尽くし、他人の視線を奪うことに特化した「見られる側のプロ」だ。立ち姿一つで紙面の温度を変えるだけの華がある。だが、カメラがなければこの有様だ。
僕は無言でキッチンに立ち、手際よく食事を整える。
姉がモデルとして「見られる」ために費やすエネルギーを、僕はこうして背後から補填し続けている。それが佐倉家の日常であり、僕の役割だった。
「はい、どうぞ」
「わーい、斎太くんの作るごはんは世界一。……あ、これ。今月のサンプル」
常盤が差し出してきた雑誌の誌面には、僕が昨夜の配信でトレースした「元気で健気な少女」の元型が、さらに洗練された形で収まっていた。
彼女がプロとして「見られる」ために作り上げている虚像を、僕はさらに論理的に抽出して美少女アバターへと流し込んだ。あの高いリピート率は、いわば「見られるプロ」の技術を僕が盗用した結果に他ならない。
食卓を囲む姉の姿を横目に、僕はスマートフォンを取り出した。
配信外の僕は、ただの大学生だ。しかし、仮想空間に放たれた僕のガワは、僕の預かり知らぬところで勝手な物語を編み上げられている。
「牧童こやぎ」でエゴサーチをかける。
父の正体が佐倉桜太であることは伏せられているが、中身が男性である「バ美肉」であることは公然の事実だ。視聴者はその空白の情報を、自分の都合の良い推測で埋めていく。
「昨日の新人、こやぎとの距離感がおかしい」
「あの動きのシンクロ率と、阿吽の呼吸。ただのビジネスパートナーじゃない」
スクロールする指が、ある一文で止まった。
「これ、中身はこやぎの奥さんだろ。妻ポジション確定」
吐き気がした。
提示されている根拠は、どれも曖昧なものばかりだ。掛け合いに遠慮がない、献身的に見える、好みを理解しすぎている。
僕が姉を参考に、ポジティブで健気な「お姉ちゃんっぽさ」を演じれば演じるほど、その振る舞いは外部の観測者によって「内助の功」という色眼鏡で濾過される。
中身が実の息子であるなどと、誰が想像するだろうか。
父という絶対的な個体の隣に立つ美少女。その構図だけで、ネットの海は僕を「妻」という記号で固定し始めた。
「……何、難しい顔してんの? せっかく可愛く載ってるのに」
常盤が口いっぱいに頬張りながら、雑誌を指差す。
彼女は知らない。自分が弟に「妻」のロールモデルとして消費され、その結果として僕が父の配偶者として誤認されているという不条理を。
バ美肉であることは知られている。だが、中身は特定されていない。
その歪な隙間に、僕と父の関係性は「夫婦」という誤った認識で塗り潰されてしまった。
僕は再び、空になった炭酸飲料の缶を見つめる。
この誤解を解く術はない。解けば、父のビジネスが崩壊し、姉の平穏が消える。
僕はこれからも、姉のフリをして父の妻として振る舞い続ける。それが、この家を維持するための最も合理的な、そして最悪な解決策だった。




