美少女化までの執行猶予
「……何を言ってるんだ」
喉の奥が引き攣れた。
父が「牧童こやぎ」の中身だという事実だけでも、処理能力を越えている。それなのに、この男は今、何を口にした。
「これからはお前がやれ、だと? ふざけるな。俺には俺の生活がある。大学で、やりたい勉強だってあるんだ」
当然の拒絶だった。父の道楽に付き合う理由なんて、どこにもない。
だが、父は椅子を回しもしなかった。モニターに映る「こやぎ」が、父のわずかな肩の動きを拾って、冷淡に小首を傾げる。
「お前にやれと言っているのは、趣味の話ではない。事業の継承だ」
「知るかよ。そんなの、自分で勝手に畳めばいいだろ」
「畳む理由がない。数字が出ている。……だが、俺もいつまでもこの声を維持できるわけじゃない。だから、スペアが必要だ」
スペア。実の息子を呼ぶ言葉ではなかった。
僕は机の上の箱を押し返そうとした。だが、父の手がそれを制するように、別のフォルダを開いた。
「お前が断るなら、それでいい。無理強いはしない」
父の声があまりに淡白だったので、一瞬、解放されたのかと思った。
けれど、画面に現れたのは、見たこともない「作りかけの女の子」だった。
こやぎほど完成されてはいないが、その未完成ゆえの危うさが、妙に目を引くモデル。
「……なんだ、これ」
「お前の次の、候補だ」
父は平然と言った。
「これは、お姉ちゃん用だ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……は? 姉ちゃん……? 何を言って」
「お前がやらないなら、本来の適性順に戻すだけだ。彼女は顔がいい。声も悪くない。何より、疲れている時ほど無自覚に人を寄せる。ああいう湿り気のあるタイプは、今の市場では数字になる」
胃の奥が、冷たい氷を飲み込んだように冷えた。
さっきまでリビングで、ペットボトルを転がして「だるい」と溢していた姉。あの無防備な崩れ方。父は、あれをずっと観察していたのだ。家族としてではなく、素材として。
「待てよ……。ふざけんな。あいつを、こんな……見せ物にさせるのか」
「ふざけてはいない。適材適所の話だ。お前がその席に座らないなら、空いた席には彼女が座る。それだけだ。機材も、モデルも、準備は終わっている」
終わっている。その一言が、一番の毒だった。
父は、僕も姉も、最初から同じ天秤に乗せていたのだ。僕が配信に救われ、姉がその声に癒やされている間、この男は僕たちの商品価値を測っていた。
「……最低だな」
「知ってる」
父はようやく椅子を半分だけこちらへ回した。
説明を足す気などない。ただ、合理的な選択肢を提示しただけだ、という顔だった。
僕がここで首を振れば、明日にでも、あのソファで丸まっている姉の前に、この不気味な機材が置かれることになる。あの無防備な弱さを、カメラの向こうの何万という視線に晒させるわけにはいかない。
逃げ道は、最初から一つしかなかった。
その出口を塞ぐように、父は姉を立たせたのだ。
画面の中の、作りかけの女の子を見る。
こやぎのように正解で固まっていないその顔が、僕を試すように見つめていた。
「……分かった」
声が、自分のものじゃないみたいに低く出た。
「俺が、やる」
父は頷きもしなかった。当然の処理が一つ片付いたかのように、静かにフォルダを閉じた。
「明日、設定を詰める」
僕は、呪いの塊のような箱を掴んで立ち上がった。
ドアに手をかけたところで、父が背後から声をかけた。
「こやぎの方は俺が続ける。お前は、そのモデルとしてやれ」
慰めにもならない、徹底した役割分担だった。
けれど、最悪の事態を免れたことに、ほんの一瞬でも安堵してしまった自分が、何よりも吐き気がするほど気持ち悪かった。




