これから用事が発生する気がする
伊行という男を、単なる「姉の彼氏」という記号で片付けるのは正しくない。
僕が彼と最後に会ったのは六年以上前だ。一時期の留学を経て、彼は大学のカリキュラムを前倒しで消化し、今では彼女に匹敵する知的な優秀さを備えている。つまり、適当な誤魔化しが通用する相手ではないということだ。彼をこの家の盤面に引きずり込むには、相応の重力が必要だった。
決戦の朝、僕は台所に立っていた。
前日から低温で発酵させていた生地を切り分け、オーブンに入れる。香ばしい匂いが家の中に満ちるが、これは単なる朝食ではない。警戒心の強い野良犬を餌で手懐けるような、極めて事務的な「抱き込み」の第一歩だ。伊行を腹から屈服させ、逃げ道を塞ぐための物理的な準備。家事の延長線上で人を嵌める手つきは、自分でも驚くほど淀みがない。
「今日、来るのよね」
姉がリビングに現れ、僕の動きを見て短く言った。彼女は僕のように論理を詰めはしないが、空気の変化を察する速度だけは異常に速い。僕が何も説明せずとも、彼女は今日という日が「伊行を処理する日」であることを理解し、そのための表情を整え始めていた。
一方で彼女――アキは、朝食の準備には加わらず、自分の担当分を冷徹に処理していた。
「昨晩のうちに、必要なデータはすべてパッケージングしておいたわ。彼に渡す証拠も、医学的な適性の診断も。準備はできている」
彼女はこの家で、姉からは「アキちゃん」、母からは「似雲さん」と呼ばれている。その呼び方の自然さが、彼女がもはやこの家にとって外部の人間ではないことを示していた。伊行という新たな異分子を迎えるための免疫機能として、彼女はすでに組織の一部と化している。
準備は整った。
僕が用意した食事と場。
姉が作る、拒絶を許さない空気。
アキが携える、逃げ場のない調査資料。
そして、それらを日常として受け入れている母。
家全体が、巨大な捕食者の口のように開いて彼を待っていた。
チャイムが鳴り、六年以上ぶりの再会が訪れた。
「久しぶり」
玄関に現れた伊行は、かつての面影を残しつつも、どこか洗練された優秀な他人の空気を持っていた。彼はこの家の異常な密室感にまだ気づいていない。
だが、居間に足を踏み入れ、食卓を囲んだ瞬間。
僕たち家族全員が、一斉に彼を向き、そして絶妙に不気味な笑顔を浮かべた。
歓迎の意など微塵も含まれていない、獲物を追い詰めた側だけが共有する、歪で均質な微笑みだ。
「あ、……ちょっと用事を思い出した」
伊行の直感が、かつてない警鐘を鳴らしたのだろう。彼は靴も脱ぎ切らぬまま、引き返そうと背中を向けた。
だが、その肩を姉が力強く掴み、僕が背後のドアに手をかけ、アキが手元に資料を広げる。
「逃がさないわよ、伊行くん」
姉のその言葉を合図に、僕たちの家庭内面談が始まった。




