牧童こやぎの長い日常
これ表紙、でも画像が色々多いのでまた時間がかかります。
アルファポリス版はもう画像出してます。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/568634872/966041043
牧童こやぎを最初に見た時、まず「小さい」と思った。
背丈の話だけじゃない。肩の幅も、腕の細さも、脚の頼りなさも、全部まとめて一つの「小ささ」という概念に集約されていた。
顔は丸い。だが、それだけでは終わらない。顎の先だけが、ほんの少しだけ尖っている。そのわずかな一線が、幼い輪郭を崩さずに留めていた。可愛い。けれど、ただ柔らかいだけではない。そこには明確な「形」がある。
髪の色は薄い。白に近いのに冷たくはなく、灰に寄っているのに沈まない。光を反射するための色ではなく、最初から刺激を抜いてあるような色だった。そこに羊の角と耳が添えられる。普通なら作り物めくはずなのに、こやぎの場合は不自然さがない。最初からそういう生き物として、そこに「在る」みたいだった。
白いワンピースに、生成りのカーディガン。服まで強くない。飾りはあるのに、見せつけるための飾りではなかった。鈴が胸元に下がっている。可愛いはずなのに、媚びていない。全体が静かで、清潔で、相手に警戒心を持たせないように出来ている。
なのに、目元と顎だけが少し整いすぎている。幼さに寄り切らないその凜とした造形のせいで、ただ愛玩のための顔には見えなかった。
バ美肉なんて言葉を知ったのは、こやぎを見た後だった。
男が女の見た目を使って配信することを、そう呼ぶらしい。雑な言い方をすればそれだけだが、見ている側の気分は案外変わる。少なくとも僕は、相手の中身が男だと知ってからの方が安心した。
女の子の顔と声に、余計な気を遣わなくて済む。変な勘違いを起こす余地も薄い。可愛いものを可愛いまま、濁りのない視線で見ていられるのは、むしろその奥が男だと分かっている時の方だった。
こやぎはその典型だった。
優しい。柔らかい。見た目も声も、そういう作りをしている。けれど、そこに妙な湿り気が残らない。甘さだけで押してこない。中身が男だと知っているから、こちらも勝手に熱を持たずに済む。その潔い距離の置き方そのものが、一種の安心感になっていた。
顔を見たことのある同業者たちの評判も、どこか奇妙だ。
「イケメンではない」と、彼らはまず言う。そこは即座に決まるらしい。だが、「けれど、外見はいい」とその後に続く。
格好いいかと言われると難しい。爽やかと呼ぶにも少し違う。風が通るような顔ではないし、派手に目を引くわけでもない。それでも、顔を出して人気が落ちることはないだろう、と言われている。むしろ、これまで見えなかった魅力が加わって、ファンが増えるのではないか、とまで。
イケメンではない。
格好いいとも言い切れない。
それなのに、見せればたぶん得をする。
そういう種類の、説得力を持った外見なのだと、同業者たちは評していた。
しかし、それ以上に気に入っているのが、あの配信の手触りだった。
「緊急お悩みコーナー」は、お便りの一種らしい。マネージャーが選別して持ってくるものだ、と後で知った。だからなのか、投げ込まれる悩みはいつも、単なる感情論や事情では終わらない。「生活の形」をしたものが多かった。
その日の相談者もそうだった。
『同棲していた彼氏に浮気されて、別れることになりました。でも、今の部屋の家賃も生活費も相手に頼っていて、自分一人だと今月を越えられるか分かりません。貯金も仕事もなくて、正直、かなり詰んでいます。悔しいし惨めだし、仕返ししたい気持ちもあります。でも、何から考えればいいのか分からないんです』
こやぎは、すぐには答えなかった。相手の言葉が完全に切れるまで、ちゃんと待った。
「……はい。ありがとうございます」
やわらかい声だった。軽くはない。だが、沈みもしない。
「まず、今のお話ですけど、気持ちは分けなくて大丈夫です。悔しいのも、惨めなのも、全部そのままでいいです」
そこでは切らない。安易に「分かります」なんて顔をしない。
「その上で、順番だけ決めさせてください」
少しだけ、こやぎの顎が引かれる。可愛い顔のまま、言葉だけがまっすぐになる。
「まず生き延びてください」
コメント欄が一瞬、遅れた。
「生活基盤を整えるのが先です。浮気の話も、報復したい気持ちも、後で扱えます。でも、明日を越えるお金がない状態でそこに触ると、たぶん全部一緒に崩れます」
声はあくまで穏やかだった。
「なので、今日考えることは一つ。今週から来週までの金銭確保です。家賃、食費、移動費。その三つを先に見てください。感情の整理は、その後で間に合います」
相談者はまだ何か言いたそうだったが、それも待つ。
「あと、相手への仕返しは今は保留でいいです。今の状態だと、報復というより自分の傷に触り続ける形になりやすいので。お金のことは配信でどうにかしようとせず、自治体の緊急小口や窓口を先に使ってください。こういう時は、強がらずに制度を使う方がいいです」
そして最後だけ、少しだけ声が落ちた。
「裏切られて苦しい、は正しいです。ただ、死なない順番の方が、今はもっと正しいです」
こういうところだった。可愛いとか、優しいとか、そういう言葉だけでは届かない場所までちゃんと届くのに、乱暴に踏みにじった感じが残らないのは。
哲学的な思想とまで言えるコンパクトな思考と言語化は、悩みによく効く。未成年だから酒は飲めないが、酒の肴の豚モツ焼きを口に運びながら眺めるには最適だった。
人狼ゲームでは『うるせぇ、コイツには殺す必要性以上に生かす価値がねぇ』なんて暴言の顔をしたまま妙に形のいい言葉を吐くくせに、真面目な話になると返しは急に締まる。
『事実から価値判断まで一足飛びに進むのは、少し想像力に欠けます』
『証拠無しの主張であれば、そのままでは採用出来ません』
雑に言っているようで、雑ではない。短いのに崩れない。悩み相談でもあの調子だから、感情の泥を増やさずに、問題の輪郭だけを先に手渡してくる。そういうところが、やたらと効いた。
その思考の鋭さは、企画にも現れている。「科学猫カフェ」という、シュレーディンガーの猫のような学術用語ばかりを集めた企画がある。ふざけた題名なのに、やっていることは意外と真っ当で、思考実験や概念の骨だけを綺麗に抜き出して並べていく。雑談に流さず、難しさをわざと崩しすぎもしない。その匙加減が、ちょうどよかった。
家に帰ると、最初に目に入るのは大抵ソファだった。
今日も同じだった。姉がそこに「沈んでいる」という言い方が一番近い状態で転がっていた。クッションの形に体を預け切り、半分だけ人の形を残している。床にはペットボトルが一本転がり、キャップは斜めに閉まりきっていない。テーブルの上にはコンビニの袋が二つ、口を開けたまま置かれていて、中には食べ損ねたらしいサラダとおにぎりが残っていた。
「またそのまま?」
声をかけると、姉がゆっくりこっちを見た。疲れがそのまま皮膚の裏に溜まっていて、うまく押し戻せていない顔だった。
「……うん」
返事も短い。普段なら雑に笑うか茶化すかのどれかなのに、今日はそのどれでもない。
僕はキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。肉、玉ねぎ、昨日の残りのキャベツ。とりあえずフライパンを出す。包丁を入れる音が、静かな部屋にやけに響いた。
「今日、なに作ってんの」
「適当。食べられるやつ」
姉の声は少し掠れていた。張っていたものが一回全部落ちたまま、戻っていない感じだ。
油を引いて、玉ねぎを落とす。音が立つ。
その音に安心したみたいに、姉がソファにもたれたまま息を吐いた。
「……今日、ちょっと無理だった」
「なにが」
「全部」
そこだけは妙にはっきり言う。
火加減を落として振り向くと、姉は「来い」の合図を適当に送ってきた。近づくと、そのまま服の裾を掴まれる。次の瞬間には、姉の頭が僕の肩に乗っていた。
重い。でも全体重を預けてくるほどじゃない。甘えたいし、甘えるつもりもあるのに、完全に崩れるのは少しだけ気が引ける。そういう生々しい重さだった。
「……だる」
「見れば分かる。一回どいて、焦げる」
「やだ。一分」
「一分で長いは知らない」
そう言うと、姉は小さく笑った。やっと少し、いつもの顔に戻る。
「今日さぁ、なんか全部うるさくて。別に誰かが悪いとかじゃないんだけど、ずっと人が喋ってるだけで疲れる日あるじゃん。今日それ」
肩に乗ったまま、指先で僕の服をいじっている。落ち着きたい時の癖だ。
「食べれば少し戻るでしょ」
結局、無理やり頭を離して調理を続けた。炒めた肉と玉ねぎに卵を落とし、皿に盛る。
「食べな」
「持ってきて」
「そこまではやらない」
文句を言いながらも姉は起き上がり、一口食べて「おいしい」と零した。
「……今日、ほんと無理だったんだよね。だから、あんたいてよかった」
その言い方があまりにも自然だったので、こっちも何も返せなかった。姉はこういうところがある。礼儀じゃない形で、不器用に世話を焼かれる側に回る。
皿の中身をきれいに食べ切り、姉はまたソファに戻った。今度は完全に沈まず、クッションを抱えて少しだけこっちに寄って座る。
「今日さ、もうなんも考えたくないから。あとで配信つけて」
「自分でつけなよ」
「疲れてるって言ってんじゃん」
リモコンを押し付けられ、画面をつける。
見慣れた配信が流れる。あの声が部屋に入ってくる。
『――それは“可能性”であって、前提ではありませんね』
少しだけ、姉の息が軽くなるのが分かった。隣でだらけたまま、画面をぼんやり見ている。
「この人さ。なんか、ずっと同じテンションだよね」
「そう」
「疲れないのかな」
「疲れてると思うよ」
それ以上は聞いてこない。興味がないわけじゃないが、深くは踏み込まない。
僕はこの距離感がちょうどよかった。
僕はそのまま食事を済ませ、風呂に入る。
湯気の中で、さっきの配信の言葉が頭に残っていた。短くて、無駄がなくて、形が崩れない。ああいうの、いいな、と思う。
あれがもし、中身もそのまま(あの見た目どおり)だったら。いや、むしろ逆か。あのままの見た目で、中身が「男」だからこそ、こうして安心して消費できるのか。
「……どっちでもいいか」
湯の中で呟く。
風呂から上がってリビングに戻ると、姉はさっきと同じ位置で、今度はちゃんと画面を見ていた。
「風呂空いたよ」
「あとで入る。寝ないって」
半分目が閉じている姉を横目に、僕は自分の部屋に戻ろうとした。
「――ちょっといいか」
父の声だった。廊下の奥、書斎の方からだ。
短い呼び方。急いでもいないし、怒ってもいない。だからこそ、逃げられない重みがあった。
ドアを開けると、父は机に向かっていた。
背中を向けたまま、父は引き出しから小さな箱を取り出し、机の上に置いた。
「これ、持っていけ」
「……なに、急に」
「今のうちに渡しておくだけだ。俺の人生をかけて磨き上げた、最高傑作だ」
父は振り返らない。だが、その声には職人が秘蔵の業を弟子に授ける時のような、厳かな響きがあった。
箱を開けると、そこには使い込まれたオーディオインターフェースが入っていた。丁寧に手入れされ、鈍い光を放っている。重さの割に、なにか得体の知れない「意味」だけが乗っているような手触りだった。
「使い方は、お前なら分かるはずだ。……その中には、モデルの全データと、機材の最適化設定が入っている」
嫌な予感が、背筋を駆け上がった。
父がゆっくりとモニターの電源を入れる。
そこに映し出されたのは、僕が先ほどまで眺めていた、あの「牧童こやぎ」だった。
マウスを動かす父の手首の動きに合わせて、画面の中の羊耳の美少女が、あざとく首を傾げる。父が喉を鳴らすと、こやぎの胸元の鈴が、チリンとデジタルな音を立てた。
『事実は一つですが、解釈で死ぬのは効率が悪すぎますね』
スピーカーから流れる、あの「理屈の通った清潔な声」。
それが、目の前で不愛想に座っている親父の唇の動きと、一分の狂いもなく同期していた。
僕が心酔し、姉が救われていたあの高潔なロジックは、この、風呂上がりで加齢臭のする男の脳から出力されていたのだ。
父が椅子を回転させ、初めて僕を正面から見た。
「明日の配信からは、お前が中に入れ」
「……は?」
「好みが丸被りのお前なら、キャラを壊さずに運用できる。俺のロジックを、お前の声で完成させろ。……それが、我が家の継承だ」
父の目は、冗談を言っているようには見えなかった。
むしろ、一族の誇りを守る騎士のような、狂気に満ちた真剣さだった。
――この、クソ親父が。
僕が「理想」だと思っていたものは、血という名の、逃れられない呪いだった。
姉がリビングで「こやぎ、落ち着くわぁ……」と呟いている声が、壁越しに聞こえてくる。
その癒やしの源泉が、いま目の前で鼻をすすっている親父だと知ったら、あいつは一体どんな顔をするだろう。
僕はインターフェースの冷たい感触を手に、震える声で絞り出した。
「……せめて、キャラデザは変えさせろよ」
「ならん。この顎のラインこそが、俺たちの正解だ」
最悪だ。
僕も、このラインが正解だと思っている。
父と子の、救いようのないシンクロに吐き気がした。




