10秒の空白
仕事柄、夜の街や人の流れを眺めることが多い生活を送っています。
かつて、謝る順番を間違えて大事な人を怒らせてしまった経験から、「言葉の順序」について深く考えるようになりました。
私の小説に出てくる主人公たちは、だいたい何かにつまずき、立ち止まり、そして「最適なルート」ではなく「納得できる遠回り」を選び直します。
最近は、言葉から情緒を削ぎ落として「骨」を見るために、俳句の歳時記を愛読しています。
派手な事件は起きませんが、読んだあとに少しだけ歩幅が整うような、そんな時間を共有できれば嬉しいです。
「10秒の空白」
第一章 編集された世界
2035年、2月14日。
土曜日だが、世の中の物流は止まらないし、私の憂鬱も止まらない。
窓の外では、朝の配送ドローンが低い羽音を立てて、鉛色の空を滑っていく。静岡市の空は、最近いつも何かが飛んでいる。荷物だったり、監視カメラだったり、誰かの視線だったり。
都市のOSはAIによって最適化され、渋滞も、在庫ロスも、無駄な待機時間も、この社会から消えつつあるらしい。
だから私も、私自身を最適化する。
不快なノイズ、気まずい沈黙、痛みを伴う時間。それらを「なかったこと」にする技術を、私は持っているからだ。
07:12。
私は自室のベッドで目を覚ます。
壁面のライフ・ログ・パネルが、私が覚醒したことを検知して、淡いオレンジ色の光を灯す。
《おはようございます、ハル。睡眠効率は82%。昨日より良化していますが、深部体温のリズムが少し乱れています。起床後に白湯を摂取することを推奨します》
合成音声の女性は、私の母親よりも私の身体に詳しい。
「……うるさい」
掠れた声が出る。喉が乾いている。推奨されなくても水くらい飲む。
布団から出る瞬間が、一日の中で最も嫌いだ。
空調は完璧に管理されているはずなのに、毛布の内側と外側には、明確な「境界線」がある。その境界を越えるには、勇気がいる。そして今の私には、そんな些細なことに使う勇気すら残っていない。
私は、布団の中で左手首を探る。
そこにあるのは、スマートウォッチのような滑らかなシリコンではない。古びた革のベルトと、冷たい金属の感触。
祖父の遺品であるアナログ時計だ。
文字盤のガラスには、斜めに一本のヒビが入っている。針はもう何年も「04:33」を指したまま動かない。ジョン・ケージの『4分33秒』と同じ、永遠の沈黙を刻む時計。
クラスメイトたちは、手首の端末で脈拍も、支払いも、友人との距離感さえも管理している。そんな時代に、こんな死んだ機械を腕に巻いているのは、私くらいのものだ。
けれど、これが私のコントローラーだ。
右手のひらで、冷たい文字盤を覆う。
ガラスのヒビが、掌の皮膚に食い込む感触。
それがトリガーだ。
――スキップ。
頭の中で強く念じる。
カッ、と視界が白く弾ける。
まばたき一回分の暗転。
次の瞬間、私は洗面台の前に立っていた。
鏡の中の私は、すでに顔を洗い終えており、タオルの繊維が肌に触れる感触だけが残っている。口の中にはミントの味がする。歯磨きも終わっているらしい。
布団から出る寒さも、眠気と戦いながら廊下を歩くダルさも、パジャマを脱ぐ時の情けない寒気も、すべて消滅した。
所要時間、約12分。
私の意識は、その12分間を「早送り」したのだ。身体はオートパイロットのように動き、私の心だけが時間を飛び越える。
痛みはない。副作用もない。ただ、記憶がないだけ。
どうせ「眠い」とか「寒い」とかしか感じていない時間なんて、人生のジャンクデータだ。削除しても構わない。
鏡を見る。
濡れた前髪の隙間から、色の薄い瞳がこちらを見ている。
「……おはよう」
自分の姿に声をかける。返事はない。
私は、私という人間の「編集者」になった。人生という長い動画の、退屈なシーンや不快なシーンにハサミを入れる編集者。
この力が発現したのは、二年前。中学二年の夏だった。
吹奏楽部のコンクール直前。私の担当するパーカッションのリズムが、どうしても合奏とズレた日。
『ハルちゃん、また走ってる』
『メトロノーム聞いてる?全体の邪魔、しないでくれる?』
顧問の深い溜息。部員たちの突き刺さるような視線。442Hzに高くチューニングされた音楽室の、張り詰めた空気。
その圧力が、私の許容量を超えた。
消えたい。この瞬間から逃げ出したい。
そう願って、お守り代わりにポケットに入れていた祖父の時計を握りしめた時、私は「飛んだ」。
気づけば練習は終わっていた。私は無言でスティックを片付けていた。
顧問に何を言われたのか、仲間がどんな顔をして私を見ていたのか。その一番辛い10分間(たぶん何度もスキップを連打したのだと思う)は、私の記憶からきれいに切り取られていた。
あれ以来、私は生き延びている。
逃げることは恥ではない。現代における、最も賢い生存戦略だ。
07:30。
リビングへ降りる。
食卓の空気は、洗面所よりも湿度が高い。
父と母がいる。
父はARグラスをかけ、虚空に浮かぶニュースフィードを指で弾いている。視線はここにはない。
「……おはよう」
父が私の気配に気づき、グラスの向こうで言った。
「おはよう」
私も短く返す。それ以上の会話はない。父にとって私は、ニュースの合間に挟まる広告のようなものだ。あってもなくてもいい。
問題は、母だ。
母はキッチンで、AIスピーカーと会話している。
「今日の天気は?」
《午後から小雨の予報です。降水確率は60%。折りたたみ傘の携帯を推奨します》
「ありがとう。……ハル、聞いた?傘、持っていきなさいよ」
母が振り返る。その手には、焼きたてのトーストと、完璧な温度に温められたスープがある。
完璧だ。この家は、何もかもが行き届いている。
私の不登校を除いては。
私は席に着き、トーストをかじる。
サクッ、という音が、静かなリビングに響く。
「今日、センターに行く日よね」
母が、向かいの席に座りながら言った。
その声のトーンは、優しさを装っている。けれど、私には分かる。その裏側にある、「どうせまた行かないんでしょう」という諦めと、「行ってくれないと困る」という焦燥が。
「……うん」
私はスープを啜る。味がしない。
「相良さんっていう方が担当だって。元調律師なんだって。変わった経歴よね。でも、評判はいいみたい。お母さんの知り合いの子も、そこで……」
母の話が始まる。
比較。期待。そして、隠しきれない不安。
母のスマホが、テーブルの上で短く震えた。画面に通知が出る。『不登校親の会・静岡支部:本日の例会について』。
母もまた、小さな画面の中の正解に追い詰められている。
「ハル、あのね」
母がカップを置いた。
その音が、カチャリと硬く響く。
来た。空気が変わる。
「高校の編入試験のことなんだけど。資料、取り寄せておいたから。……見るだけでも、どう?」
――キィン。
耳の奥で、ハウリングのような音が鳴った。
母の声の周波数が上がる。
「無理しなくていいのよ」と言いながら、その声の振動数は「今すぐ動け」「普通になれ」「私を安心させろ」と叫んでいる。
矛盾。ダブルバインド。
それが私の脳をかき回す。怖い。責められる。
私がこの家の「バグ」だから。最適化された社会の、処理落ちしたエラーだから。
息ができない。
トーストが喉に詰まる。
「お母さんはね、あなたのペースを一番に考えてる。でも、社会にはタイミングっていうものがあって……」
母の言葉が続く。
一秒が、一時間に感じる。
この時間を耐える意味があるのか?どうせ平行線だ。どうせ傷つくだけだ。
だったら、コストパフォーマンスが悪い。
「タイパ」が悪い。
私は、テーブルの下で、左手首を右手で掴んだ。
ヒビの入った文字盤の冷たさだけが、私の救いだ。
ごめん、お母さん。
私は、お母さんの「心配」を聞いてあげられるほど、強くない。
――飛ばせ。
祈るのではない。事務的に処理するのだ。
カッ、と世界が白く弾ける。
08:14:12。
感覚的な「酔い」が、少しだけ胃の腑に残る。エレベーターで急降下した時のような浮遊感。
目を開けると、母はいなかった。
キッチンの方で、水が流れる音がしている。シンクに食器を置く音が聞こえる。
さっきまで私の正面に座り、私を言葉の綿で締め付けていた気配は、きれいに消失していた。
成功だ。
私は深く息を吐き出す。心拍数は、まだ少し速いけれど、あの窒息しそうな圧迫感はもうない。
テーブルの上には、食べかけのトーストと、空になったスープ皿。そして、私が手を付けなかった「高校編入試験の資料」が残されている。
母はこの10秒間、何を言ったのだろう。
「いい加減にしなさい」と怒鳴ったのか。
「どうして普通にできないの」と泣いたのか。
それとも、私の沈黙に耐えかねて、ただ黙って席を立ったのか。
分からない。私がその時間を「捨てた」からだ。
動画編集ソフトで、不要なシーンを「カット」して繋ぐように。私は自分の人生から、不快な10秒間を削除した。
私の世界は、これでまた少し、滑らかで、傷のないものになった。
「……ごちそうさま」
誰にも聞こえない声で呟き、私は席を立つ。
キッチンの母の背中は、少し小さく見えた。丸まっているようにも見える。
罪悪感が、胸の奥でチクリとする。
私は、母の言葉を聞かなかっただけじゃない。母が言葉を発するために使ったエネルギーも、その表情も、すべて無駄にさせたのだ。
壁のライフ・ログ・パネルが点滅している。《ストレス値が一時的に上昇しました。深呼吸を推奨します》
AIは、私が時間を飛ばしたことには気づかない。ただ「脈が乱れた」としか記録しない。
私は自室に戻り、パーカーを羽織る。
黒いフードを深く被る。これが私の鎧だ。
今日は、センターに行かなければならない。
「相良八千代」という人に会いに。
どうせまた、説教を飛ばして終わりだ。
適当に頷いて、嫌な質問は全部スキップして、それで「行きました」という実績だけ作って帰ってくればいい。
玄関を出ると、予報通りの小雨が降っていた。
傘を開くのが面倒くさい。濡れる感覚も、傘の骨を伸ばす手間も、すべてがノイズだ。
私は時計を握る。スキップ。
――カッ。
気づけば私はバス停に立っていて、ビニール傘はすでに開かれていた。
雨の冷たさも、アスファルトの匂いも、私の世界には存在しない。
バスが来る。
「ShizuokaSmartLoop」と書かれた、無人の自動運転バスだ。
プシュー、とドアが開く。
中に入ると、数人の高校生が乗っていた。
みんな、手元の端末や、装着したARグラスを見ている。
彼らもまた、それぞれの「見たい世界」の中にいる。
ある子はゲームの画面に、ある子は遠くの友人と通話する画面に。
誰も、車窓の風景なんて見ていない。誰も、隣に座った他人の息遣いなんて聞いていない。
私と同じだ。
みんな、現実という名のノイズをキャンセルして生きている。
私は、一番後ろの席に座った。
ここなら、誰の視線も感じなくて済む。
バスが動き出す。モーターの静かな唸りが、足の裏に伝わる。
私は窓の外を見る。
雨に濡れた静岡の街並みが、グレーのフィルター越しに流れていく。
かつて活気のあった商店街は、配送ステーションと無人店舗に変わり、人通りはまばらだ。
効率的で、静かで、寂しい街。
でも、私にはこの寂しさがちょうどいい。
「次は、教育センター前。教育センター前です」
合成音声のアナウンスが流れる。
私の胃が、きゅっと縮む。
到着してしまった。
私は、左手首の時計を、袖の上から強く握りしめた。
大丈夫。
私にはこの「魔法」がある。
どんなに嫌な大人も、どんなに鋭い言葉も、10秒あれば消し去れる。
私は無敵だ。
少なくとも、逃げることにかけては。
バスが止まる。
私は立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。
第二章 重力
10:00。
静岡市教育支援センターの自動ドアは、私の知っているどのドアよりも重苦しく、しかし完璧な静音設計で開いた。
ウィーン、というモーター音すらしない。ただ空気が吸い込まれ、ガラスの壁が左右にスライドして、私という異物を内部へと招き入れる。
ここは、学校に行けなくなった生徒たちのための「適応指導教室」。
行政用語では「教育支援センター」と呼ばれる場所だ。
今、こうした施設の入退室管理は完全に自動化されている。
入り口に設置された白いポール状の端末。その上部にあるカメラが、私の虹彩と、学生証代わりのQRコードを同時にスキャンする。
《おはようございます。出席を確認しました》
合成音声が降ってくる。
壁面のディスプレイに、「現在の在室者数:14名」「空調稼働率:最適」「CO2濃度:正常」といったパラメータが表示されているのが見えた。
人間を「在庫」として管理しているみたいだ、と私は思う。
物流倉庫の荷物と同じ。私たちは、社会というベルトコンベアからこぼれ落ちた「要検品」の箱なのだ。ここでタグを付け替えられ、修理され、再び正規のルートへ戻されるのを待っている。
「……あら、おはよう。ハルさんね」
カウンターの奥から、生身のスタッフが顔を出した。
三十代くらいの女性。胸元に「支援員:松本」という名札を下げている。
彼女の笑顔は、発泡スチロールのように白くて柔らかかった。衝撃を吸収するための、職業的な笑顔。
「雨、大丈夫だった?今日は少し冷えるわね」
「……はい」
私は短く答える。
嘘だ。雨が冷たいかどうかなんて知らない。私はバス停からここまで、移動の時間をすべてスキップしてきたから。私の記憶の中では、家を出た次の瞬間にはもうここに立っていた。
靴は濡れていない。傘も畳んでいない。そういう面倒なプロセスは、全部「無意識の私」が処理した。
「相良先生なら、一番奥の部屋にいますよ。『音楽多目的室』。……あの先生、少し変わってるけど、悪い人じゃないから」
松本さんが、声を潜めて言った。
その言い方には、微かな「共犯者」のような響きがあった。厄介な上司を持つ部下特有の、あの感じ。
「……ありがとうございます」
私は軽く頭を下げ、逃げるように廊下へ進んだ。
廊下の空気は、入り口とは違っていた。
空調の匂いだけではない。学校特有の、チョークの粉っぽさと、古いワックスの匂い。そして、どこかの教室から漏れてくる、押し殺したような話し声。
壁には、生徒たちが描いたと思われる絵や、習字が貼られている。
『未来』『希望』『自分らしく』
それらの言葉が、呪いのように並んでいる。
私のスマートウォッチ(と周囲には思わせている祖父の時計)が、手首に冷たく触れている。
心拍数が上がっていくのが分かる。
怖い。
ここはシェルターのはずなのに、私には地雷原だ。
すれ違う生徒の視線。ヒソヒソという話し声。
――ガタッ。
何かが倒れる音がして、私の肩が大きく跳ねた。
誰か笑った?私のこと?あのパーカー変だねって?
被害妄想だとは分かっている。でも、脳内のノイズキャンセリング機能が壊れたみたいに、あらゆる雑音が私の神経を逆撫でする。
呼吸が浅くなる。酸素が足りない。
早く。早くあの部屋へ。
そして、用件だけ済ませて、すぐに帰ろう。滞在時間の実績さえ作れば、母も文句は言わないはずだ。
廊下の突き当たり。
そこだけ、照明が少し暗いような気がした。
重厚な防音扉。プレートには「多目的室(音楽)」とある。
ドアノブは金属製で、冷たく、少し錆びついていた。
私は深呼吸をする。
吸って、吐いて。手順を確認する。
入る。挨拶する。相良という人に会う。もし説教が始まったら、即座に時計を握る。10秒飛ばす。それでも終わらなければ、もう一度飛ばす。
大丈夫。私には編集権がある。
私はドアノブを回し、その重い扉を押し開けた。
――ポーン。
その音は、部屋の空気を一瞬で「整列」させた。
ピアノの音だ。
真ん中のド。C4の音。
濁りのない、氷柱のように硬く、透明な音が、波紋のように広がっていく。
部屋に入った瞬間、廊下のざわめきが嘘のように消えた。
広さは教室二つ分ほど。
床は古い木のフローリングで、所々にニスが剥げた跡がある。
部屋の中央に、黒いグランドピアノが一台。
窓は大きく開け放たれていて、2月の湿った風が白いレースのカーテンを大きく揺らしている。
空調管理されたビルの中で、ここだけが外気と直結していた。
寒い。
けれど、その寒さは不快ではなかった。澱んだ空気が一掃された後の、清冽な寒さ。
ピアノの前に、一人の女性が座っていた。
背中をこちらに向けている。
黒いタートルネックに、グレーのロングカーディガン。
髪は後ろで無造作に束ねられているが、その背筋は、まるで定規で線を引いたように真っ直ぐだった。
相良八千代。
彼女は、私が部屋に入っても振り返らなかった。
鍵盤の上に置いた右手を、そのまま空中で静止させている。
残響を聞いているのだ。ピアノの音が消え、部屋の隅々に吸い込まれ、完全な静寂に戻るまでの時間を、計測している。
私は動けなかった。
足音を立ててはいけない気がした。
この部屋の空気は、彼女によってあまりにも完璧にチューニングされていて、私の存在そのものが異物であるように感じられたからだ。
やがて、彼女はゆっくりと手を下ろした。
椅子が軋む音ひとつ立てずに、彼女の身体が回転する。
私と目が合った。
銀縁の眼鏡の奥。色は薄い茶色。
感情のない、測定器のような瞳だった。
怒っているわけではない。笑っているわけでもない。ただ、私という物体の「質量」と「重心」を測っているような目。
「……あの、新しく入った、ハルです」
私が声を絞り出すと、その声は自分の耳にも頼りなく響いた。
八千代は答えなかった。
視線を私の顔から、足元へとゆっくり下ろしていく。
そして、スニーカーのつま先で止まった。
「靴」
第一声がそれだった。
低く、よく通るアルトの声。
「入り口のマットで、泥を落としてきてないわね」
「え……」
私は自分の足元を見る。確かに、微かに濡れた土がついている。バス停までの道でついたものだ。
「音が濁るわ」
彼女は短く言った。
「この部屋の床は、響板なの。泥がついた靴で歩くと、振動が変わる。……戻って、拭いてきなさい」
挨拶でもなく、歓迎でもなく、指摘。
それも、人格や心構えではなく、物理的な振動の話。
私の身体が硬直する。
嫌だ。
予想していた「優しいカウンセラー」とも、「厳しい教師」とも違う。この人は、人間を見ていない。私という「音源」が持ち込んだノイズを見ているだけだ。
ここにいてはいけない。
私の本能が警報を鳴らす。この人の前にいると、私は解体される。
逃げなきゃ。
この「気まずさ」から。この「叱責」から。この「重たい沈黙」から。
私は反射的に、左手首の時計を右手で覆った。
冷たいガラスの感触。
これさえあれば、私は無敵だ。
飛ばそう。
私が靴を拭きに戻り、再びここへ戻ってきて、気まずい空気が流れた後の時間へ。
説教が終わった後の、「じゃあ、手続きしましょうか」という事務的な時間へ。
私は時計を握りしめ、強く念じた。
――カット。
カッ、と意識のスイッチが切れる。
世界が飛ぶ。はずだった。
……あれ?
違和感が、冷や水のように背中を伝う。
まばたきをした。視界が一瞬暗転した。
いつもなら、ここで世界がジャンプする。私が靴を拭き終わった未来に立っているはずだ。
けれど。
目の前の景色は、一ミリも動いていなかった。
揺れるレースのカーテン。
ピアノの黒い光沢。
そして、私を見つめる八千代の視線。
彼女は、まばたきひとつせず、さっきと同じ角度、同じ姿勢で、私を見ていた。
「……今、何をしたの?」
八千代の声が、私の鼓膜を直接叩いた。
時間が進んでいない?
いや、違う。窓の外の雲は動いている。カーテンの揺れ方も変わっている。
時間は進んでいる。
私が「意識を飛ばした」10秒間、現実もしっかりと10秒進んでいる。
ただ、状況が変わっていないだけだ。
彼女が、動かなかったから。
「え……」
私は自分の手首を見る。時計は握ったままだ。
失敗?能力が消えた?
いや、感覚はある。私の脳内では、確かに10秒分の記憶が空白になっている。私は10秒間、ここに棒立ちになっていたはずだ。
「あなた、今、逃げようとしたでしょう。時間から」
心臓が早鐘を打つ。
バレている?まさか。誰にも言ったことのない秘密なのに。
「……な、何のことですか。私はただ、考え事を……」
「呼吸よ」
八千代は椅子から立ち上がり、足音を立てずに私へ近づいてきた。
その歩き方は、忍者のように静かだった。床の振動を殺している。
「人は、都合の悪いことがあると呼吸を止める。あるいは、浅くなる。あなたは今、この場の空気を吸うのを拒絶した。……まるで、自分だけ別の小節に飛ぼうとするみたいに」
彼女は私の目の前、わずか1メートルの距離で止まった。
見上げると、彼女の眼鏡に、私の怯えた顔が映っていた。
「目が、死んでいたわよ」
八千代は淡々と言った。
「今の10秒間。あなたの身体はここに在ったけれど、中身は空っぽだった。……回線が切れたスピーカーみたいにね」
見られていた。
私が意識を消して、時間を早送りしている間。
この人は、じっと私を見続けていたのだ。
私が「いない」状態を。私が「戻ってくる」のを。
私のスキップは、相手が動いてくれないと成立しない。私がフリーズしている間に、相手が話し終えたり、移動したりしてくれるから「飛んだ」ことになるのだ。
でも、相手が完璧に静止して待っていたら?
それはただの「空白」になる。
彼女という重力が、私をその場に縫い止めていた。
「ここはね、シェルターじゃないの。調律室よ」
八千代は私の右手を――時計を隠している震える手を――視線だけで指した。
「私の前では、休符は許さないわ。全部、聞きなさい」
休符は許さない。
その言葉の意味が、じわじわと恐怖として染みてくる。
それは「逃げるな」という精神論ではない。
「音を出す前の静寂も、音楽の一部だ」という、調律師としての冷徹な事実の提示だった。
「……座りなさい」
八千代は机の前のパイプ椅子を顎でしゃくった。
「靴は、後でいい。今は座って」
私は、逃げるのを諦めた。
時計から手を離す。
手のひらが、嫌な汗で湿っていた。
足が重い。重力が増したみたいだ。
私は引きずられるようにして、指定された椅子に座った。
八千代もまた、自分の席に戻る。
彼女は机の上にあるメトロノームに手を伸ばした。
カチ、と留め金を外す。
振り子が動き出す。
カチ、カチ、カチ、カチ。
正確なリズム。BPM60。一秒に一回。
その音が、私の心拍数とズレていて、ひどく不快だった。
「あなたのリズム、狂ってるわよ」
八千代は書類を開きもせずに言った。
「早すぎる。先へ先へと急ぎすぎて、肝心の『今』の音が鳴っていない。……典型的な、現代っ子のリズムね」
窓の外で、配送ドローンがまた一機、通り過ぎていく音がした。
AIが制御する、無駄のない物流ルート。
私のスキップ能力も、その最適化の一種だと思っていた。
無駄な時間を省く、賢い機能だと。
でも、この部屋では違うらしい。
ここでは、無駄こそが「音」なのだ。
「相良です」
彼女は、今さら名乗った。
「ここでは、嘘はつかなくていい。……その代わり、本当のこと以外も喋らなくていい」
八千代は眼鏡の位置を中指で押し上げた。
「さあ、チューニングを始めましょうか。ハルさん」
私は悟った。
ここには、スキップボタンがない。
早送りも、巻き戻しもできない。
ただ、等倍速の、重たくて、でもどこか懐かしい匂いのする「現実」だけが流れている。
私は膝の上で、拳を握りしめた。
時計の針は止まっているのに、私の中の時間だけが、カチ、カチと、逃れようのない音を立てて動き出していた。
第三章 冬馬の沈黙
センターに通い始めて一週間が過ぎた。
私の生活は、劇的に改善したわけでも、何かが解決したわけでもない。ただ、「居場所の座標」が自室のベッドから、この古びた音楽多目的室へと移動しただけだ。
物流で言えば、不良在庫の保管場所が変わったに過ぎない。
それでも、家という閉塞的な倉庫にいるよりは、幾分マシだった。ここには、母の過干渉な視線も、父の無関心なため息もないからだ。
10:30。
私は窓際の事務机で、書類の仕分け作業をしていた。
これが、八千代から与えられた私の「任務」だった。
「ハルさん。この棚の楽譜と、過去のイベントのチラシ。全部、年代順と周波数順に並べ替えて」
周波数順、という意味が分からなかったが、彼女曰く「紙にも音がある」らしい。厚い紙は低い音、薄い紙は高い音。それをグラデーションになるように整理しろと言うのだ。
無茶な注文だ。けれど、私はこの作業が嫌いではなかった。
黙々と手を動かしている間は、誰とも話さなくていい。
紙の端を揃える。角を合わせる。ラベルを貼る。
その単純な反復作業は、乱れた呼吸を整えるメトロノーム代わりになった。
部屋には、ピアノの音だけが響いている。
八千代は、一日の大半をピアノの前で過ごしている。
曲を弾くことは稀だ。彼女が弾くのは「音」そのものだ。
単音を一つ、ポーンと鳴らす。その残響が消えるまで、じっと目を閉じて待つ。完全に消えたら、また次の音を鳴らす。
それは演奏というより、空気の成分分析実験のようだった。
「……Fの音が、湿気ってるわね」
八千代が独り言のように呟く。
「雨が近いのかしら」
私は手を止めずに、窓の外を見る。
天気予報AIは「晴れ」と言っていた。空も明るい。
けれど、彼女の耳は気象衛星よりも敏感らしい。実際に、彼女がそう言った午後は、決まって曇り始めるのだ。
この部屋は、時間が止まっている。
廊下の向こうでは、他の生徒たちがタブレットで学習したり、eスポーツのプログラムに参加したりしている。そこには現代の速度がある。
でも、ここだけは違う。
ここには「効率」がない。「タイパ」がない。
あるのは、埃が光の中で舞う速度と、紙が擦れる音と、八千代の鳴らすピアノの音だけ。
それが、私には妙に心地よかった。
編集しなくても、耐えられる時間。
私は、この「ぬるま湯」のような停滞に、少しずつ身体を沈めていた。
あの日、八千代にスキップを見破られて以来、私はこの部屋で能力を使っていない。
使えない、と言った方が正しい。
彼女の視線が、常に私の手首を捉えているような気がするからだ。
『逃げたら、分かるわよ』
言葉には出さないが、彼女の背中がそう語っている。
だから私は、嫌なことがあっても――例えば、紙で指を切ったり、急に将来の不安が胸をよぎったりしても――グッと奥歯を噛んで耐えるしかない。
それはリハビリのようでもあり、拷問のようでもあった。
その平穏な(あるいは停滞した)空間に、異物が混入したのは、火曜日のことだった。
11:15。
ドアが静かに開いた。
また八千代先生の「実験」かと思って顔を上げると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
背が高い。けれど、猫背だ。
少し伸びた前髪が、目元を隠している。着古したグレーのパーカーに、膝の抜けたチノパン。
彼は、部屋に入るなり、入り口で立ち尽くした。
一歩も動かない。
まるで、透明な壁にぶつかったみたいに。
八千代はピアノから振り返らずに言った。
「どうぞ、冬馬くん。そこ、空いてるわよ」
彼女が顎で示したのは、私が作業している机の、反対側の席だった。
冬馬と呼ばれた少年は、ゆっくりと、恐ろしく時間をかけて頷いた。
その動作の遅さに、私はイラッとした。
現代の動画なら、確実に「1.5倍速」にされる動きだ。
彼は、スローモーションのように足を運び、私の対面の席に座った。
そして、鞄から一冊の本を取り出した。
紙の本だ。
電子ペーパーではない、分厚い文庫本。
彼はそれを開き、読み始めた。
……いや、読んでいるのだろうか?
彼の視線は、最初のページの一行目で止まったままだ。
1分経過。まだめくらない。
3分経過。まだ一行目。
フリーズしているのか?
私は、書類を整理する手を止めずに、盗み見た。
彼は彫像のように動かない。呼吸さえしているのか怪しいほどだ。
この部屋には、私と八千代という「静かな人間」しかいなかったが、彼はそのどちらとも違う種類の静けさを持っていた。
私たちは「音を立てないようにしている」静けさだが、彼は「音が吸い込まれていく」ような静けさだ。ブラックホールみたいに、周囲の時間を重くしている。
「……気になる?」
不意に、八千代の声がした。
ドキッとして顔を上げる。八千代はピアノの椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
「い、いえ。別に」
私は慌てて視線を逸らす。
八千代は微かに口角を上げた。
「彼はね、遅いのよ」
悪口ではない。事実を述べるトーンだ。
「処理落ちしてるんじゃない。……読み込んでいるの。高解像度で」
意味が分からなかった。
ただ、私の生活圏に「理解不能な異物」が現れたことだけは確かだった。
昼休み。
12:30になると、八千代は職員室へ戻っていく。
部屋には私と冬馬だけが残された。
私は持参したサンドイッチを急いで食べた。食べるという行為を他人に見られるのは好きじゃない。咀嚼音も、飲み込む動作も、生物としての「生々しさ」が出るからだ。
冬馬は、コンビニのおにぎりを一つ、これまたスローモーションで開封していた。
パリ……パリ……というフィルムの音が、永遠に続くかと思った。
さっさと開ければいいのに。
私は心の中で舌打ちをする。
私の体内時計は、常に「効率」を求めて急いている。だから、彼のトロさが生理的に合わない。
これが動画なら、間違いなくスキップしているシーンだ。
私は逃げるように席を立ち、部屋の隅にある給湯スペースへ向かった。
持参したマグカップを洗うためだ。
蛇口をひねる。冷たい水が出る。
ジャー、という水音が、部屋の沈黙を埋めてくれる。
スポンジでカップを擦る。キュッ、キュッ。
早く終わらせて、またヘッドホンをして自分の世界に籠ろう。そう考えていた。
その時だった。
背後に気配がした。
振り返ると、冬馬が立っていた。
いつの間に移動したのだろう。足音がまったくしなかった。
距離が近い。
私のパーソナルスペース――半径1.5メートル――の内側に、彼が侵入している。
「っ……」
私は思わず身を引いた。背中がシンクに当たる。
冬馬は、手におにぎりのゴミを持っていた。
ゴミ箱は、私の足元にある。
彼は、それを捨てに来ただけだ。
「す、すみません」
私は場所を空けようと、横へずれた。
冬馬はゴミを捨てた。
そして、顔を上げた。
初めて、彼と目が合った。
前髪の隙間から覗くその目は、驚くほど澄んでいた。深い湖の底のような、静かで暗い色。
彼は、私を見て、口を開いた。
何か、言おうとしている。
「あ……」
彼の唇が動く。
「あ、あの……」
声が小さい。震えている。
私は身構える。
何を言われる?
『邪魔だ』とか?『こっち見んな』とか?
それとも、もっと面倒な『ねえ、名前なんていうの?』という馴れ合いの接触?
どちらにしても、嫌だ。
私は他人と関わりたくない。言葉のナイフで刺されるのも、粘着質な好意で絡め取られるのも、もう御免だ。
「き、君の……」
冬馬の言葉が続かない。
詰まっている。
吃音なのだろうか。それとも、極度の緊張?
「……」
沈黙。
長い。
1秒。2秒。3秒。
私の体内時計が警報を鳴らす。
この「間」が耐えられない。
相手が何を言うか分からない状態で待たされる、この無防備な時間。
まるで、処刑台の上で執行人の合図を待っているみたいだ。
怖い。
心拍数が上がる。呼吸が浅くなる。
逃げたい。
この気まずい時間を、切り取って捨ててしまいたい。
私の右手は、無意識のうちに左手首へと伸びていた。
袖の上から、硬い文字盤を掴む。
八千代はいない。今なら使える。
飛ばそう。
10秒後には、彼は何かを言い終えて、自分の席に戻っているはずだ。
私はただ、適当に頷いている自分を想像すればいい。
内容は聞かなくていい。どうせ、たいしたことじゃない。
「どいてくれ」とか「天気がいいね」とか、そんなノイズに決まっている。
――スキップ。
私は強く念じた。
指に力を込める。
「編集」のトリガーを引く。
その瞬間だった。
脳裏に、あの人の声が響いた。
『休符は許さないわよ』
『全部、聞きなさい』
八千代の、冷徹な眼鏡の光。
私は、ビクリとして動きを止めた。
ここに彼女はいないのに、部屋の空気が私を見張っているような気がしたのだ。
『逃げたら、分かるわよ』
呪いだ。あの人の言葉は、私のOSに深く食い込んでいる。
私は歯を食いしばる。
飛ばせない。
もし今飛ばして、後で八千代に見抜かれたら?「また逃げたのね」と、あの温度のない目で見下されたら?
それは、死ぬほど悔しい。
私は、指の力を緩めた。
時計から手を離す。
その代わり、両手でシンクの縁を強く握りしめた。
耐えるしかない。
この、永遠に続くかのような「空白の時間」を。
生身で受け止めるしかない。
「……」
冬馬は、まだ言葉を探していた。
顔を真っ赤にして、視線を泳がせて、喉を上下させている。
苦しそうだ。
見ているこっちが息苦しくなる。
早くしてよ。
イライラが募る。
やっぱり飛ばせばよかった。こんな時間の無駄。生産性ゼロのバッファリング時間。
私が口を開いて、「何?」と急かそうとした時だった。
ようやく、冬馬の唇から、言葉がこぼれ落ちた。
「……君の、選んだ、きょく」
え?
私は瞬きをする。
曲?
冬馬は、一度息を継いで、今度は少しだけ滑らかに続けた。
「昨日、片付けの時に、流してた……あの曲」
昨日の夕方だ。
私は八千代に言われて、部屋の掃除をしていた。その時、スマホをスピーカーに繋いで、私のプレイリストを流していたのだ。
誰かがいるとは思わなかったから、私の好きな曲――少しマニアックな、アンビエント系のインスト曲――を流していた。
それを、彼が聞いていたのか。
「……それが、何」
私は警戒して聞き返す。
うるさかった、と文句を言われるのだろうか。
暗い曲だと笑われるのだろうか。
冬馬は、私の目を見た。
さっきまでの怯えたような色は消えていた。
その瞳の奥に、確かな熱があった。
「……すごく、よかった」
時が止まった気がした。
よかった?
「……え?」
「ずっと、耳鳴りがしてたんだけど」
冬馬は、自分の耳に手を当てた。
「あの曲が流れてる間だけ、……止まったんだ。静かだった」
彼は、はにかむように、少しだけ口元を緩めた。
「だから、……ありがとう。それだけ、言いたくて」
それだけ言うと、冬馬は踵を返した。
逃げるような足取りで、自分の席へと戻っていく。
そしてまた、あの分厚い本を開き、世界を閉ざしてしまった。
私は、シンクの前に立ち尽くしていた。
水の流れる音だけが、ジャーと響いている。
心臓が、変なリズムで跳ねていた。
怖いからじゃない。
驚きと、そして、胸の奥から湧き上がる温かい痺れのような感覚のせいだ。
「よかった」
たった四文字。
それを伝えるために、彼はあんなに時間をかけたのか。
数十秒の沈黙。吃音。赤くなった顔。
それら全部が、「ノイズ」ではなかった。
あれは、彼が私に言葉を届けるために必要とした「助走」だったのだ。
丁寧に、誤解のないように、嘘にならないように。
言葉を選び、積み上げ、ラッピングするための時間。
もし。
もし、私がさっき、時計を握って時間を飛ばしていたら?
私は、冬馬が口をパクパクさせた後、無言で去っていく姿だけを目撃していただろう。
そして思ったはずだ。
『あいつ、何か文句を言おうとして、やめたんだな』と。
あるいは、『気持ち悪いな』と。
「ありがとう」という言葉は、私が切り捨てた10秒間の中に埋もれて、永遠に消滅していただろう。
私は、無傷でいられた代わりに、この温かい「肯定」を受け取り損ねていたのだ。
背筋が寒くなった。
私は今まで、どれだけの「宝石」を、ゴミだと思って捨ててきたのだろう。
母の説教の中に。
部活の顧問の溜息の中に。
クラスメイトの沈黙の中に。
私が「ノイズだ」と断じて削除した時間の中に、本当は私を救う何かが混ざっていたのではないか。
私は、濡れた手で蛇口を閉めた。
水音が止まる。
静寂が戻る。
けれど、その静寂は、さっきまでとは少し違って感じられた。
窓際で本を読む冬馬の背中を見る。
彼は動かない。
けれど、今はその「遅さ」が、ただの停滞ではないことが分かる。
彼は、深く潜っているのだ。
言葉の海に。情報の波に。
私みたいに水面を滑って逃げるのではなく、深く、深く。
『処理落ちじゃない。読み込んでいるの』
八千代の言葉が蘇る。
私は、自分の左手首を見た。
時計の針は止まっている。
私の編集能力は、まだそこにある。
いつでも逃げられる。いつでもカットできる。
でも。
私は、冬馬の席へ向かって、一歩足を踏み出した。
話しかける勇気はまだない。
でも、せめて。
彼が読んでる本が何か、タイトルくらいは見てもいいかもしれない。
部屋の空気が、少しだけ揺れた気がした。
それは、私の心が初めて「自分以外のリズム」に合わせようとした、微かな振動だった。
第四章 アナログな買出し
2月も下旬に入り、静岡の街には「三寒四温」という言葉通りの、不安定な空気が漂っていた。
昨日は春のような陽気だったのに、今日はまた冬の冷たい雨が降っている。
気圧の変化は、私の頭痛の種だ。
気象病予報AIが、朝からスマホに《警戒レベル3:頭痛薬の携行を推奨》と通知してきている。
私は、その通知をスワイプして消した。
推奨されなくても分かってる。私の頭の中では、すでに不協和音が鳴り始めているのだから。
13:30。
私は、教育支援センターの玄関で、傘を広げようとしていた。
「……これ、頼むわね」
八千代から渡されたのは、一枚のメモと、古いレコードプレイヤーの交換針が入っていたらしい、小さな空き箱だった。
「街中の、あのお店にしか置いてないのよ。ネットで注文すると配送に三日かかるけど、直接行けば在庫があるはずだから」
彼女はそう言って、私と、そしてもう一人――冬馬を指名した。
「二人で行ってらっしゃい。荷物持ちが必要だから」
荷物持ち、というのは口実だ。
あのカートリッジなんて、ポケットに入るサイズだ。
八千代の狙いは明白だった。私と冬馬を、この静かなシェルターから追い出し、外の世界のノイズに晒すこと。
荒療治だ。
私は拒否したかったが、八千代の眼鏡の奥にある瞳が「行きなさい」と無言の圧を放っていたので、渋々承諾した。
「……行こう」
私が言うと、冬馬はゆっくりと頷いた。
彼は、大きな黒い傘を持っていた。ビニール傘ではない、きちんとした布の傘だ。それを開く動作も、やはりスローモーションだった。
バサッ……と布が広がり、カチッ……と留め金がかかるまでの数秒間。
私は雨の中で立ち尽くし、イライラしながら待った。
早くしてよ。濡れるじゃん。
私の体内時計は、常に「最短ルート」を計算している。彼のリズムは、その計算式を根底から狂わせる。
私たちは、雨の降る歩道へと歩き出した。
目的地は、静岡駅の南側にある、古いオーディオ専門店だという。
バスを使えば10分。歩けば30分。
「バスで行こう」と私が提案しようとした時、冬馬が言った。
「……あ、歩いて、いい?」
「え?雨だよ?」
「……バスは、匂いが、するから」
彼は申し訳なさそうに、眉を下げた。
匂い。ああ、そうか。
彼は聴覚だけでなく、嗅覚も過敏なのかもしれない。バスの芳香剤や、他人の柔軟剤の匂いがダメなのだろう。
私は溜息をつきたいのを堪えて、「……分かった」と言った。
14:15。
私たちは、並んで歩いていた。
いや、正確には「並んで」いない。
私が常に二歩、三歩先を行き、冬馬が遅れてついてくる形だ。
私の歩幅は速い。効率的に移動したいからだ。
冬馬の歩幅は遅い。水たまりを避け、ショーウィンドウを眺め、赤信号の点滅を確認しながら歩くからだ。
街は、ノイズで溢れていた。
都市空間は、視覚と聴覚への情報量が多すぎる。
空には配送ドローンの羽音。
ビルボードには、AR(拡張現実)広告が浮かび上がり、最新のコスメやゲームの宣伝を私の網膜に直接送り込んでくる。
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商店街のスピーカーからは、AIが生成した「誰もが心地よいと感じるはずのポップソング」が流れている。
うるさい。
私はフードを深く被り、視線を足元に落とす。
これら全てが、私にとっては攻撃だ。
逃げたい。
左手首の時計に触れる。
今ここでスキップすれば、一瞬でお店に着ける。雨の中を歩く不快感も、冬馬の遅さにイライラする時間も、全部カットできる。
指が震える。
誘惑が、甘い蜜のように脳を浸食する。
『楽になれるよ』
『どうせ移動時間なんて、無駄なデータだよ』
もう一人の私が囁く。
でも。
私は後ろを振り返った。
冬馬がいた。
彼は、傘を少し傾けて、道端のアジサイ(季節外れの狂い咲きだ)を見つめていた。
私が立ち止まったことに気づき、彼はハッとして、小走りで追いついてきた。
「……ご、ごめん」
息を切らせて、彼は謝った。
その顔を見て、私は時計から手を離した。
私が時間を飛ばせば、彼は一人で取り残される。
私が「瞬間移動」したように見える間、彼は雨の中を一人で歩き、私を探して彷徨うことになる。
それは、さすがに可哀想だ。
それに、八千代の言葉が呪いのように効いている。
『全部、聞きなさい』
「……ううん。大丈夫」
私は嘘をついた。大丈夫じゃない。イライラする。
でも、私は歩く速度を少しだけ緩めた。
私の「早送り」のリズムに彼を合わせさせるのではなく、彼の「スロー再生」に私が合わせる。
それは、私の人生で最も苦手な「調整作業」だった。
「……あの」
冬馬が口を開いた。
「なに?」
私は足を止めずに聞く。
「ハルさんは、……歩くの、速いね」
悪口だろうか。
「せっかちなの。無駄が嫌いだから」
私は刺々しく答える。
冬馬は、少し考えてから言った。
「……風、みたいだ」
「は?」
私は思わず足を止めた。振り返る。
冬馬は、真剣な顔で私を見ていた。
「風みたいに、……通り過ぎていく。……かっこいい、と、思った」
時が止まった気がした。
かっこいい?私が?
ただ余裕がなくて、逃げ回っているだけの私の背中を、彼はそんなふうに見ていたのか。
「……馬鹿にしてる?」
「し、してない。……俺は、石みたいに、重いから。……羨ましいんだ」
彼は自分の足元を見た。泥のついたスニーカー。
石。
確かに彼はそうだ。動かない。重い。
でも、石は風に飛ばされない。
私はいつも、何かに怯えて吹き飛ばされているけれど、彼はそこに留まっている。
「……行こう。店、閉まっちゃう」
私は顔が熱くなるのを感じて、再び歩き出した。
でも、さっきより、歩く速度はさらに遅くなっていた。
雨音が、少しだけ優しく聞こえた。
14:45。
目的地である「サウンド・ガーデン」という店は、路地裏の雑居ビルの二階にあった。
看板は錆びついていて、営業しているのかどうかも怪しい。
重い木のドアを開けると、カウベルがカランコロンと鳴った。
店内は、驚くほど静かだった。
外の喧騒が嘘のようだ。
壁一面に、レコードが並んでいる。真空管アンプ、スピーカー、そして見たこともない古いオーディオ機器の数々。
埃と、古紙と、油の匂いがした。
それは八千代の部屋の匂いと似ていた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の店主が出てきた。
ARグラスもスマートウォッチもつけていない、完全なアナログ老人だ。
「八千代さんの使いです」
私が言うと、店主は「ああ、あの気難しいお嬢さんか」と笑った。四十代の八千代を「お嬢さん」と呼ぶあたり、この店主も相当な年代物だ。
「針だね。取り寄せといたよ。ちょっと待ってな」
店主は奥へ引っ込んだ。
私と冬馬は、店内に残された。
「……すごい」
冬馬が、小さな声を漏らした。
彼は、棚に並んだ真空管アンプに見入っていた。
ガラスの管の中で、オレンジ色の灯りがぼんやりと灯っている。
「これ、……生きてる」
彼が呟く。
私は、店内の商品にはあまり興味がなかった。ただ、この空間の「時間の遅さ」には安堵していた。
ここは、私のスキップ能力が必要ない場所だ。
誰も急いでいない。誰も効率を求めていない。
ここなら、息ができる。
「……ハルさん」
冬馬が私を呼んだ。
彼の手には、ジャンク品コーナーから拾い上げた、一台の機械があった。
メトロノームだ。
木製で、傷だらけの。
「これ……」
「壊れてるの?」
「うん。……ネジが、巻けない」
冬馬は、愛おしそうにその傷だらけの木の箱を撫でた。
そして、私を見た。
何か、言おうとしている。
まただ。
あの「間」が来る。
私は身構える。
冬馬の唇が動く。喉が上下する。視線が泳ぐ。
言葉が出てこない。
店内のBGMは、古いジャズだ。サックスの音がけだるく響く。
その背景音の中で、彼の沈黙だけが、強烈な空白として際立つ。
1秒。2秒。3秒。
イライラする。
何を言いたいの?欲しいの?直したいの?
早く結論を言って。
私の右手が、ポケットの中の時計を探る。
癖だ。
不快な空白を埋めるための、私の防衛本能。
飛ばしてしまいたい。
10秒後、彼が話し終わった世界へ。
指先が、冷たいガラスに触れる。
スキップ。
その誘惑に負けそうになった時、私はふと、さっきの雨の中での彼の言葉を思い出した。
『風みたいだ』
『かっこいいと、思った』
私の「速さ」を、彼は肯定した。
なら、私は彼の「遅さ」を、どうする?
切り捨てるのか?編集して削除するのか?
それは、彼自身を否定することになるんじゃないか。
私は、ポケットの中で拳を握りしめ、時計から手を離した。
待つ。
待つんだ。
これは、動画のバッファリングじゃない。
彼が、私に伝えるための言葉を、脳内の深い図書館から探してきている時間だ。
私は彼を見つめる。
急かさない。視線を逸らさない。
ただ、あなたの言葉を待っていると、姿勢で伝える。
5秒。10秒。
長い。永遠みたいだ。
でも、不思議と苦痛ではなかった。
店内の真空管の灯りが、温かく揺れているのが見えた。
雨音が、窓ガラスを優しく叩いているのが聞こえた。
空白の中にも、音はある。気配はある。
やがて、冬馬が口を開いた。
「……壊れてる、けど」
彼は、ゆっくりと、一語ずつ置くように言った。
「リズムが……聞こえる気がする」
「え?」
「止まってるのに、……中で、音楽が、鳴ってる。……ハルさんの、時計と、同じだ」
心臓が、ドクンと跳ねた。
私の時計。
祖父の遺品。針の止まった、死んだ時計。
私はそれを「現実逃避のスイッチ」としてしか見ていなかった。
でも、彼は違う見方をしている。
「……同じ?」
「うん。……止まってるんじゃなくて、……大事な時間を、守ってるように、見える」
彼ははにかんだ。
「だから、……このメトロノーム、好きだ」
私は、言葉を失った。
彼には、見えているのだ。
私が「編集」して切り捨ててきた残骸の中にある、本当の意味が。
私の時計は、逃げる道具じゃなかったのかもしれない。
彼が言うように、何かを守るための――私自身を守るための、シェルターだったのかもしれない。
もし、今、時間を飛ばしていたら。
私はこの言葉を聞けなかった。
彼が「ガラクタを持って何かボソボソ言っていた」という記憶しか残らなかっただろう。
危なかった。
私はまた、宝石をドブに捨てるところだった。
「……そっか」
私は、喉の奥の熱い塊を飲み込んで、言った。
「買えば?それ」
「えっ、でも、直せないし……」
「八千代先生なら直せるかもよ。調律師だし」
私が言うと、冬馬の顔がパッと明るくなった。
「……うん。そうする」
彼は、お小遣いを数えて、その壊れたメトロノームを買った。
店主から交換針を受け取り、私たちは店を出た。
16:30。
外に出ると、雨は上がっていた。
西の空に、雲の切れ間から夕日が差し込んでいる。
濡れたアスファルトが、オレンジ色に光っている。
マジックアワー。
世界が一番美しく見える時間。
私たちは、帰り道を歩く。
行きと同じ道なのに、景色が違って見えた。
私の歩調は、行きよりもずっと遅くなっていた。
冬馬の横を、並んで歩く。
沈黙はあった。
でも、それはもう「気まずい空白」ではなかった。
言葉がなくても、隣にいる体温を感じられる、心地よい静寂。
共有された沈黙。
私は、ポケットの中の時計に触れた。
冷たかった時計が、私の体温で少しだけ温かくなっていた。
スキップしなかった時間。
編集しなかった現実。
それは、重たくて、面倒で、でも、驚くほど鮮やかな色をしていた。
「……ハルさん」
「ん?」
「雨、止んでよかったね」
「うん」
ありふれた会話。
AIなら「降水確率0%になりました」の一言で済ませる情報。
でも、今の私には、その「無駄な一言」が愛おしかった。
私たちは、センターへの道をゆっくりと戻っていく。
私の心拍数は、いつになく穏やかだった。
八千代に報告しよう。
針は買えました、と。
そして、私の時計はまだ動かないけれど、私の中の時間は、少しだけ動き始めた気がします、と。
第五章 消失した告白
その週、センターの音楽室には、新しい音が加わっていた。
カチ、カチ、カチ、カチ。
冬馬が買ってきた、あの中古のメトロノームだ。
八千代の手によって分解され、油を差され、ゼンマイを調整されたそれは、驚くほど温かい音で時を刻むようになっていた。
BPM60。一秒に一回。
現代のデジタル時計のような、原子振動に基づいた「正しさ」とは違う。木の箱の中で、物理的な機構が時を押し出す音。
そこには「ゆらぎ」があった。
完璧ではないけれど、心臓の鼓動に近いリズム。
「……直ったね」
冬馬が、嬉しそうに言った。
彼は休憩時間のたびに、そのメトロノームの針を見つめていた。
「うん。いい音」
私は、彼の向かい側で作業をしながら答える。
私たちの間には、もう気まずい沈黙はなかった。
冬馬がページをめくる音。私が紙を揃える音。そしてメトロノームの音。
それらが重なり合って、一つの和音を作っている。
私は、この時間が好きだった。
外の世界では、AIが効率を叫び、人々が情報の波に溺れているけれど、ここだけは真空管の中のように時間が守られている。
私たちは、この「遅い時間」の共有者だ。
同志、と言ってもいいかもしれない。
そう思っていた。
その「同志」という安易なタグ付けが、私の一方的な願望に過ぎなかったことを、私はすぐに思い知らされることになる。
異変は、金曜日の朝に起きた。
09:00。
いつものようにセンターに行くと、冬馬の姿がなかった。
彼の席は空っぽで、あのメトロノームだけが、机の端にポツンと置かれていた。
「……おはようございます」
私は八千代に挨拶をする。
八千代は、ピアノの蓋を開けたまま、調律ハンマーを手に持っていた。
「おはよう、ハルさん」
彼女の声は、いつもより少し低かった。
私は自分の席に着く。
目の前の空席が、やけに広く感じる。
風邪だろうか。
それとも、あの気まぐれな雨のせいで、気圧にやられたか。
私は、冬馬がいない理由を、なるべく軽く想像しようとした。
「……冬馬くん、今日は休みですか?」
私は、事務作業をするふりをしながら聞いた。
八千代の手が止まる。
彼女は、ハンマーを置いて、私を見た。
その視線は、ピアノの弦の張り具合を確かめる時と同じ、冷徹で、少し哀れむような色をしていた。
「彼はね、今日、高校に行っているのよ」
指先が滑って、持っていた書類を落としそうになった。
「……え?」
「元の高校。担任の先生と、復学の相談をしに行ったわ」
八千代は淡々と告げた。
「そろそろ、タイミングだと思ったんでしょうね。彼のリズムが、外の世界と合い始めてきたから」
頭の中が真っ白になった。
復学。
元の世界へ戻る。
「普通」の高校生に戻る。
それは、不登校生にとっての「ゴール」であり、祝福されるべきことだ。
分かっている。頭では分かっている。
でも、私の胃の底から湧き上がってきたのは、黒くて粘着質な感情だった。
裏切りだ。
私は思った。
彼は、こっち側の人間じゃなかったの?
社会のスピードについていけなくて、重たくて、石みたいに動かない、私と同じ「バグ」じゃなかったの?
私を「風みたいだ」と褒めたのは、自分が飛び立つための準備だったのか。
私だけを、この停滞した部屋に残して?
「……そうですか。よかったですね」
私の口から出た言葉は、驚くほど冷淡だった。
自分でも引くほど、心のこもっていない声。
八千代は何も言わなかった。ただ、じっと私を見ていた。
その視線が痛い。
「あんたは置いてけぼりね」と言われている気がした。
私は、左手首の時計を強く握った。
飛ばしたい。
この、胸がえぐられるような惨めな時間を。
でも、八千代がいる。
私は唇を噛んで、耐えた。耐えるしかなかった。
その日、私はどうやって過ごしたか覚えていない。
ただ、目の前の空席にあるメトロノームが、止まったまま黙り込んでいるのが、死体のように見えて怖かったことだけは覚えている。
17:00。
帰り道。
雨は降っていなかったが、風が強かった。
安倍川の土手に沿って歩く。
スマートウォッチの通知が震える。《強風注意報が出ています》
私の心の中は、とっくに暴風域だった。
フードを被り、イヤホンで耳を塞ぐ。
世界を遮断したい。
冬馬は、今頃どうしているんだろう。
高校の教室で、友達と笑っているんだろうか。
「やっと戻ってこれたよ」なんて言って。
「変な女がいてさ」なんて、私のことを話のネタにしているかもしれない。
被害妄想だ。分かっている。彼はそんなことを言う人じゃない。
でも、一度芽生えた「置いていかれる恐怖」は、黒いインクのように思考を染めていく。
土手の向こうから、人影が歩いてくるのが見えた。
背が高い。猫背。
見間違えるはずがない。
冬馬だった。
彼は、制服を着ていた。
少しサイズの合わなくなったブレザー。ネクタイ。
その姿は、私服のパーカー姿とは別人のようで、完全に「あちら側(社会)」の記号を身にまとっていた。
逃げよう。
私は反射的に思った。
会いたくない。惨めになるだけだ。
私は視線を逸らし、すれ違おうとした。
「……ハルさん!」
風の音に混じって、彼が叫んだ。
私の名前を呼んだ。
足を止めざるを得なかった。
ゆっくりと振り返る。
冬馬が、走ってきた。
あの遅い彼が、息を切らして。
「ハルさん、……待って」
彼は私の前で立ち止まり、膝に手をついて呼吸を整えた。
制服のズボンが、風に煽られている。
「……何?」
私は冷たく言った。
フードの中で、私の表情は見えないはずだ。
「今日、いなかったね」
「……うん。学校、行ってたから」
彼は顔を上げた。
その表情を見て、私は動揺した。
笑っていない。
晴れ晴れとした「復帰」の顔じゃない。
顔色が悪い。目が充血している。まるで、泣き出しそうな、あるいは何かに怯えているような顔。
「どうだったの。学校」
私は意地悪く聞いた。
「楽しかった?」
冬馬は首を横に振った。
「……ううん。……すごかった」
「何が」
「音が。……教室の、音」
彼は胸元を掴んだ。
「みんな、速くて。……声が、大きくて。……俺だけ、やっぱり、違う回転数で回ってるみたいで」
彼は苦しそうに言葉を吐き出す。
それは、弱音だった。
以前の私なら、「分かるよ」と寄り添えたかもしれない。
でも今の私は、彼が「制服」を着ていることへの嫉妬と、置いていかれた疎外感で歪んでいた。
「それで?」
私は突き放すように言った。
「無理なら辞めれば?またセンターに戻ればいいじゃん」
「……違う」
冬馬は私に一歩近づいた。
「違うんだ。俺は……」
来る。
私の本能が警報を鳴らす。
彼の目が、真剣な光を帯びていた。
弱音じゃない。相談じゃない。
彼は今から、何か「決定的なこと」を言おうとしている。
「俺は、……ハルさんに」
言葉が詰まる。
吃音。沈黙。
あの「間」が訪れる。
でも、今日の「間」は、以前のような温かいものではなかった。
強風の中で、彼の唇が震えている。
苦しそうだ。悲痛だ。
何を言う気?
『もう会えない』?
『君とは住む世界が違う』?
『さようなら』?
――怖い。
過去の記憶がフラッシュバックする。
部活で、「お前のリズム、邪魔なんだよ」と言われたあの日。
母に「どうして普通じゃないの」と泣かれた朝。
大切な人だと思った相手から、拒絶される瞬間。
その痛みが、予感として脳を焼き尽くす。
聞きたくない。
決定的な言葉を聞いてしまったら、もう戻れない。
「同志」だった私たちは終わる。私は一人になる。
傷つきたくない。
私が壊れる前に。彼がその刃を振り下ろす前に。
私の右手は、ポケットの中の時計を掴んでいた。
ヒビの入ったガラス。
私の最強の盾。
八千代はいない。誰も見ていない。
逃げろ。
この恐怖から。
冬馬が、大きく息を吸い込んだ。
意を決した顔。
その口が開く。
「……俺はっ、……」
――スキップ。
私は、トリガーを引いた。
躊躇いはなかった。恐怖が理性を上回っていた。
「待つ」なんて約束は、自分を守るためには無力だった。
カッ、と視界が白く弾ける。
ごめん、冬馬。
私は、あなたの「サヨナラ」を聞けるほど、強くない。
17:10:12。
風の音が、鼓膜に戻ってくる。
土手の草が揺れる音。遠くの車の走行音。
目を開ける。
目の前に、冬馬はいなかった。
成功だ。
心拍数が、嘘のように落ち着いている。
私は無傷だ。
彼が何を言ったのか、どんな言葉で私を突き放したのか、あるいは別れを告げたのか。
その「毒」は、私の人生からきれいに削除された。
私はゆっくりと息を吐く。
助かった。
これでいい。
これでまた、明日から「他人」に戻れる。傷つかずに済んだ。
ふと、視線を遠くに移した。
土手の道を、背中を向けて走り去る人影が見えた。
冬馬だ。
彼は走っていた。
いつもの遅い彼じゃない。全力疾走で。
その背中は、逃げるように、あるいは何かを振り払うように見えた。
その時。
私の足元に、何かが転がっているのに気づいた。
冬馬が立っていた場所。
私はそれを拾い上げる。
小さな、紙切れだった。
ノートの切れ端。
そこに、走り書きで文字が書いてある。
風に飛ばされないように、彼が握りしめていたのだろうか。クシャクシャになっている。
私は、その文字を読んだ。
『ハルさんと同じ』
それだけだった。
書きかけの文字。
『同じ』の後に、何かが続くはずだった余白。
――え?
冷たい風が、私の背中を突き抜けた。
『同じ』?
何が?
『同じ世界じゃない』?『同じ高校には行けない』?
それとも――。
『ハルさんと同じ、高校に行きたい』?
思考が停止する。
もし、そうだったら?
彼が言おうとしたのが「サヨナラ」じゃなくて、「一緒に行きたい」という願いだったら?
彼は、あの10秒間で、必死にそれを伝えたはずだ。
震える声で。勇気を振り絞って。
なのに、目の前の私はどうした?
私が時間を飛ばしている間、私の身体は「抜け殻」になる。八千代が言った通り、目が死んで、反応しなくなる。
彼は、必死の告白をしたのに、私が「無視」したのだとしたら?
無反応。無表情。
それは、言葉による拒絶よりも残酷な、「存在の無視」だ。
「……あ」
声が出た。
遠ざかる彼の背中が、小さくなっていく。
彼は泣いていたかもしれない。
「やっぱり、届かなかった」と絶望して。
「俺の声は、風には聞こえないんだ」と諦めて。
私は、手の中の紙切れを握りしめた。
取り返しがつかない。
私は、削除してはいけないファイルを削除した。
動画なら「元に戻す(Undo)」ができる。
でも、現実にはそのボタンはない。
消えた10秒は、宇宙の塵になって、二度と戻らない。
「……違う」
私は呟く。
「違うの、冬馬。私は……」
風が、私の声をかき消す。
もう遅い。
彼は見えなくなった。
私はその場にしゃがみ込んだ。
左手首の時計が、氷のように冷たく感じた。
私が守っていたのは、自分じゃなかった。
ただの「臆病」を守っていただけだ。
その臆病さが、たった今、私にとって一番大切な可能性を殺したのだ。
スマートウォッチが震える。
《心拍数が急上昇しています。ストレスケア・モードを起動しますか?》
「……うるさい」
私は端末を叩いた。
ケアなんていらない。
この痛みは、私が背負わなきゃいけないノイズだ。
最適化なんて、クソ食らえだ。
私は雨上がりの冷たい土手で、握りしめた紙切れの「同じ」という文字を、滲んで読めなくなるまで見つめ続けた。
第六章 八千代の再生
翌日、土曜日。
私は、這うようにして教育支援センターへ向かった。
空は突き抜けるように青い。気象制御AIが「週末の行楽日和」を演出しているのだろう。その明るさが、今の私には暴力のように眩しい。
昨夜は一睡もできなかった。
目を閉じると、冬馬の背中が遠ざかっていく映像が、壊れた映写機みたいに何度も何度も再生された。
『同じ』
あの紙切れの文字が、網膜に焼き付いている。
私は彼を殺したのだ。社会的には生きていても、彼の「勇気」を、私の身勝手な防衛本能で圧殺したのだ。
11:00。
音楽室のドアを開ける。
手が震えて、ドアノブがうまく回せなかった。
部屋の中には、いつものようにピアノの音が――いや、今日は違った。
音が、濁っている。
不協和音。
八千代が、鍵盤に肘をついて、わざと汚い音を鳴らしているようだった。
「……おはようございます」
私の声は、掠れて幽霊みたいだった。
八千代は振り返らなかった。
「冬馬くんは、来ないわよ」
彼女は、私の質問を先回りして言った。
「学校にも行っていないそうよ。家で、布団を被って出てこないって」
心臓が早鐘を打つ。
やっぱり。
私のせいだ。私が彼を、またあの暗い部屋に押し戻してしまった。
「……先生」
私は、泣きそうな声で訴えた。
「私、どうすれば……」
すがった。
この人は、すべてお見通しだから。大人だから。正解を持っているから。
しかし、八千代は冷たく言い放った。
「知らないわよ」
彼女は椅子を回転させ、私を睨みつけた。その目は、今までで一番厳しかった。
「私は調律師よ。ピアノの音は直せるけど、あなたが自分で切ったテープは繋げない」
突き放された。
足元の床が抜けたような感覚。
八千代は立ち上がり、私に近づいてきた。
「あなた、昨日、飛ばしたでしょう」
質問ではない。断定だった。
「大事な小節を。一番、耳を澄まさなきゃいけないソロパートを。……自分が傷つきたくないからって、相手の演奏を強制終了させた」
「……だ、だって!怖かったから!」
私は叫んだ。涙が溢れてくる。
「サヨナラを言われると思ったの!拒絶されると思ったの!だから……」
「だから、耳を塞いだ?」
八千代の声が、私の叫びを切り裂く。
「彼はね、震えていたはずよ。あなたに追いつくために、必死で息を吸い込んでいたはずよ」
八千代は、私のポケットから、あのクシャクシャになった紙切れを取り上げた。
私が昨日、机の上に置き忘れたものだ。
「『ハルさんと同じ』。……これを見て、何も思わなかったの?」
「思ったわよ!後悔してるわよ!」
私は床に崩れ落ちた。
「でも、もう遅いじゃない……。時間は戻せないじゃない……」
「そうね。時間は戻らない」
八千代は、私の目の前にしゃがみ込んだ。
そして、私の左手首を――時計を――強く掴んだ。
痛いほどに。
「でも、録り直し(リテイク)はできる」
え?
涙で滲んだ視界で、彼女を見る。
八千代は、私の手首を離し、指差した。
「行きなさい。今すぐ」
「ど、どこへ?」
「彼の家に決まってるでしょう。住所なら端末に入ってるわ」
「で、でも……なんて言えば……」
「言葉なんて用意しなくていい」
八千代は、初めて、少しだけ口元を緩めた。
それは冷笑ではなく、背中を叩くような荒っぽい笑みだった。
「ただ、そこに立ちなさい。そして今度こそ、逃げずに聞きなさい。……ノイズごと、全部」
私は立ち上がった。
足が震えている。怖い。
昨日よりもずっと怖い。
もし行って、「もう顔も見たくない」と言われたら?
私の「無視」によって、彼が完全に心を閉ざしていたら?
でも。
このままここにいたら、私は一生、この「空白の10秒」に閉じ込められたままだ。
「……行ってきます」
私は涙を袖で拭い、音楽室を飛び出した。
背後で、八千代がピアノを鳴らした。
ポーン。
高く、強く、澄んだ音。
それが、私の背中を押すスターターピストルのように響いた。
________________________________________
第七章 0秒の選択
私は走っていた。
静岡の街を。
自動運転の電気自動車が、音もなく滑るように走る大通り。
歩道を行き交う人々は、スマートグラス越しに情報を処理し、最適化されたルートを歩いている。
その中を、私はなりふり構わず疾走する。
息が切れる。肺が焼けるように熱い。
汗が目に入る。
通りすがりのドローンが、私の進路を避けてふわりと浮き上がる。
邪魔だ。どいて。
私は今、効率なんてどうでもいい。
ただ、彼に会いたい。
冬馬の家は、街外れの古い住宅地にあった。
ナビを見ながら、路地を曲がる。
ここだ。
古い平屋の一軒家。
表札に「藤井」とある。
インターホンの前に立つ。
指が震えて、ボタンが押せない。
怖い。
帰りたくなってきた。
時計を握りたい。
時間を飛ばして、結果だけを知りたい。
『ごめん、会えない』と言われた未来か、『いいよ』と言われた未来か。その過程にある、心臓が破裂しそうな緊張感をカットしたい。
だめだ。
私は右手を、太ももに叩きつけた。
痛みで目を覚まさせる。
私は、編集者じゃない。当事者だ。
泥臭くて、不格好で、傷だらけの生身の人間だ。
ピンポーン。
音が鳴る。
静寂。
応答がない。
もう一度押す。
やはり応答がない。
留守?いや、靴がある。いるはずだ。
居留守を使われているのかもしれない。
「……冬馬くん!」
私は声を上げた。
「私、ハルです!……お願い、出てきて!」
近所の犬が吠えた。
恥ずかしい。近所迷惑だ。通報されるかもしれない。
でも、構わない。
「昨日はごめん!……逃げて、ごめん!話を聞かなくて、ごめん!」
ガチャリ。
玄関の鍵が開く音がした。
ドアが、数センチだけ開く。
チェーンがかかったままの隙間から、暗い瞳が覗いた。
冬馬だった。
髪がボサボサで、パジャマのままだった。
「……帰って」
声が小さい。枯れている。
「俺は……もう、だめだ」
「だめじゃない!」
私はドアの隙間に手をかけた。
「何がだめなのよ!」
「……君に、無視された」
冬馬が、ぽつりと言った。
その言葉が、私の胸を抉る。
「勇気出して、言ったのに。……君は、俺を見てもいなかった。目が、死んでた。……やっぱり、俺の言葉は、遅すぎて届かないんだ」
違う。
そうじゃない。
私は必死に首を振る。
「違うの。聞いてなかったんじゃないの。……聞けなかったの!」
「……え?」
「怖かったの!あなたが私を嫌いになったのかと思って……だから、時間を飛ばしちゃったの!」
冬馬の目が、僅かに見開かれた。
時間を、飛ばした。
彼は、あのメトロノームの話をした時、私の能力(時計の秘密)に勘付いていたはずだ。
「……飛ばした?」
「そう。私の病気。……嫌なことがあると、逃げちゃう癖。……だから、あなたの言葉を削除しちゃったの」
私はドア越しに叫ぶ。
「だから、お願い。……もう一回、言って。リテイクさせて。今度は絶対に逃げないから!」
沈黙。
風が吹く。
ドアの隙間から、冬馬の視線が揺れているのが分かる。
やがて。
ガチャリ、とチェーンが外された。
ドアが開く。
冬馬が、そこに立っていた。
彼は、怯えるような目で私を見て、それからゆっくりと外に出てきた。
私たちは、玄関先の狭いスペースで向き合った。
距離は一メートル。
心臓の音が、うるさいくらいに響いている。
「……本当に、聞くの?」
冬馬が聞いた。
「聞く」
「……また、飛ばすかもしれない」
彼は私の左手首を見た。
そう、その可能性はある。
私は弱い。
もし、彼が口籠ったり、言葉に詰まったりしたら、その「気まずい沈黙」に耐えられず、反射的にトリガーを引いてしまうかもしれない。
それは長年染み付いた、生存本能のようなものだから。
私は、決断した。
左手首から、時計を外した。
ベルトを緩め、冷たい金属の塊を掌に乗せる。
祖父の遺品。私のシェルター。私の命綱。
それを、冬馬に差し出した。
「……預かって」
「え?」
「これがないと、私は飛ばせないから」
冬馬は驚いた顔をした。
「でも、これ……大事なものじゃ……」
「あなたが持っていて」
私は彼の手を取り、無理やり時計を握らせた。
「あなたがこれを持っていれば、私はもう逃げ場がない。……あなたと向き合うしかない」
冬馬の手の中で、私の時計がカチャリと音を立てた。
彼は、その重さを確かめるように握りしめた。
そして、私を見た。
覚悟が決まった目だった。
「……言うよ」
冬馬が口を開く。
私は、拳を握りしめて待つ。
武器は捨てた。鎧も脱いだ。
今はただの、臆病な18歳の女の子だ。
「お、俺は……」
言葉が詰まる。
吃音。
沈黙が落ちる。
1秒。2秒。3秒。
長い。
怖い。
逃げたい。
右手が、無意識に左手首を探る。
でも、そこには何もない。あるのは自分の脈打つ血管だけだ。
逃げられない。
この「間」を、生身で浴びるしかない。
私は歯を食いしばる。
見て。彼を見て。
彼はサボってるんじゃない。言葉を選んでいるんだ。
その沈黙の中には、焦りと、誠実さと、私への想いが詰まっている。
それはノイズじゃない。音楽だ。
八千代先生が言っていた。休符も音楽だと。
これがあの人のリズムなんだ。
5秒。10秒。15秒。
冬馬の顔が赤くなる。額に汗が滲む。
頑張れ。
私は心の中で叫ぶ。
待ってる。いつまででも待ってる。
10秒でも、1分でも、1年でも。
そして。
永遠のような静寂の果てに、冬馬が言葉を絞り出した。
「……ハルさんと、同じ、高校に、行きたい」
声が裏返った。不格好な声だった。
でも、確かに聞こえた。
「……学校は、怖い。……人は、速い。……でも」
彼は、私の目を見て、今度ははっきりと言った。
「君が、いてくれるなら。……君と、時間を、合わせられるなら。……俺は、行ける気がする」
世界が、色を取り戻した気がした。
『同じ』。
それは拒絶の言葉じゃなかった。
私と一緒にいたいという、これ以上ない肯定の言葉だった。
「……冬馬くん」
涙が溢れて、視界が滲む。
「……遅いよ」
私は泣き笑いのような顔で言った。
「言うの、遅すぎ」
「ご、ごめん」
彼は慌てて謝る。
「でも……」
私は一歩踏み出し、彼の胸に飛び込んだ。
驚く冬馬。
彼の匂いがした。古い紙と、雨の匂い。
「聞こえた。……ちゃんと、聞こえたよ」
彼が持っている私の時計が、二人の間で固い異物として当たっていた。
でも、それが心地よかった。
私たちは、その場でお互いの鼓動を確認し合った。
BPMはバラバラだ。私は速くて、彼は遅い。
でも、それでいい。
違うリズムの二人が、一つの小節の中で響き合う。それが協和音だということを、今の私は知っている。
________________________________________
最終章 「未来」のチューニング
4月。
桜が散り始め、新緑が眩しい季節。
私たちは、高校の正門前に立っていた。
編入試験に合格した私たちは、今日から同じクラスの生徒になる。
「……人、多いね」
冬馬が、ブレザーの襟を直しながら呟いた。
正門には、新入生や在校生が溢れている。
笑い声、叫び声、スマートフォンの通知音、ドローンの羽音。
圧倒的なノイズの洪流水だ。
以前の私なら、この場に立っただけで過呼吸を起こしていただろう。
「……うん。うるさいね」
私は苦笑する。
相変わらず、世界はうるさい。最適化されたはずの社会は、やっぱりバグだらけで、混沌としている。
でも、もう怖くはない。
「行こうか」
私が言うと、冬馬はゆっくりと頷いた。
私たちは手を繋いだ。
彼の手は温かい。そして、少し湿っている。緊張している証拠だ。
その手の感触が、私にとっての新しい「アンカー(杭)」だった。
「……あ、ハルさん」
「ん?」
冬馬が立ち止まる。
また何か言いたそうだ。
私は立ち止まる。
周りの生徒たちが、私たちを追い越していく。
「邪魔だな」という視線を感じる。
でも、私は気にしない。
私は待つ。彼が言葉を見つけるまで。
これが、私たちのペースだから。
「……時計、返すよ」
冬馬は、ポケットから例のアナログ時計を取り出した。
私が彼に預けていた、あの時計だ。
「もう、大丈夫そうだから」
彼は優しく笑った。
私は時計を受け取る。
懐かしい重み。ヒビの入ったガラス。
でも、もうこれは「逃走スイッチ」ではない。ただの、思い出の品だ。
「……ありがとう」
私は時計を鞄にしまった。
そして、悪戯っぽく彼を見上げた。
「ねえ、冬馬くん」
「な、なに?」
「ここ、人通り多いからさ。……恥ずかしいこと、してもいい?」
「え?」
「10秒だけ。……周りの人には、私たちが見えないってことにして」
冬馬は真っ赤になった。
「そ、それって……スキップ、するってこと?」
「ううん。逆」
私は彼のネクタイを少し引っ張った。
「この10秒は、誰にも編集させない。……スローモーションで、刻むの」
私は背伸びをした。
冬馬は、驚いて目を丸くしたが、逃げなかった。
私たちの唇が重なる。
周りの喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。
いや、聞こえている。車の音も、チャイムの音も。
でも、それらはもうノイズではなく、私たちを祝福するBGMのように聞こえた。
不器用で、少し歯が当たって、震えるような口づけ。
それはどんな映画のキスシーンよりも、生々しくて、最高に「リアル」な味がした。
離れると、冬馬は茹でたタコみたいに赤くなっていた。
「……心臓、止まるかと思った」
「生きててよかったね」
私は笑った。
チャイムが鳴る。
予鈴だ。
「走らなきゃ、遅刻する」
私が言うと、冬馬は困った顔をした。
「……俺、走るの遅いけど」
「知ってる。だから、手を引っ張ってあげる」
私は彼の手を強く握り直した。
「行くよ、冬馬!」
「う、うん!」
私たちは走り出した。
私は風のように速く。彼は石のように重く。
その二人が繋がって、不規則なリズムで、未来へと駆けていく。
遠くの空で、八千代先生がピアノを弾いている気がした。
私たちの不揃いな足音に合わせて、完璧な伴奏をつけてくれているみたいに。
私の時計の針は、まだ動かない。
けれど、私の中の時間は、今、最高に鮮やかな音を立てて進んでいる。
10秒の空白。
その空白を埋めるのは、もう「無」ではない。
あなたと生きる、愛おしい「ノイズ」だ。
あとがき
今回描かせていただいた『10秒の空白』は、「最適化された未来」を舞台にしました。嫌なことをスキップできるハルさんの能力は、一見すると羨ましい魔法です。私たちも普段、動画を倍速で見たり、興味のない話題をスワイプで飛ばしたりしています。現代において「待つ」ことは、最大のストレスであり、無駄なコストだと思われているからです。
しかし、物語の中で冬馬くんが教えてくれたのは、「遅さ」の中にある豊かさでした。言葉がつっかえる時間。赤面する時間。雨の中で傘を開くまでの時間。それらはAIなら「エラー」や「ラグ」として処理する部分ですが、そこには確かに、相手を想うがゆえの「体温」が宿っていました。
ハルさんは、時間を「編集」するのをやめ、「再生」することを選びました。たとえそれが、ノイズだらけで、不格好で、効率の悪い時間だとしても。ラストシーンで、二人が世界の喧騒の中で交わした10秒間は、きっとどんなに高性能なAIにも計算できない、二人だけの「絶対時間」だったのだと思います。
私も普段、仕事で「早く、早く」とドライバーさんを急かしてしまうことがあります。でも、明日からは、誰かが言葉に詰まった時、誰かが不器用に立ち止まった時、それを「無駄な時間」ではなく「大切なチューニングの時間」だと思って、少しだけ待ってみようと思います。
この物語が、日々の忙しさに追われる皆様にとって、ほんの数分でも「立ち止まるための杭」になれば幸いです。
最後に。ハルさんの時計はまだ動かないかもしれませんが、彼女の時間はもう、誰にも編集されることなく、彼女自身の脈動で進んでいくはずです。
未来の春へ、愛を込めて。




