網掛け戦争
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
飛んで火に入る夏の虫……とは、わざわざ罠にはまりにきた相手をあざける言葉として投げられることがあるね。
虫、特に夜活動するものは、光に集まる傾向が強い。
そのため明かりを見つけると、そこへたかりにいくわけだが、これが炎だったりすると熱に耐えきれず燃え尽きてしまう。
人の立場から見ると、なんとも哀れな有様で、それでいてなお火にたかろうとする他の虫たちを見ながら、どうしようもない性を感じるわけだ。
かといって、一概にばかにしたものでもない。
光に群がるのが虫たちの本能だというならば、人間もまた群がりたくなるものがある。
限定、だ。
限られたもののみが得られる特権。ここで逃したら次はいつ手に入るか分からない希少性。それが自らの食指の動くものとなればなおさら。
多少のリスクを払ってでも、手を出したくなるものだ。
これもまた、よその誰かから見れば、その目におろかに映っているのかな?
先生がむかしに体験したことなのだけど、聞いてみないかい?
先生の小学生時代。
学校での楽しみのひとつといったら、お昼の給食だった。
栄養バランスが考えられているから、毎日毎日、好物ばかりにありつけるわけじゃない。
魚、ひじき、切り干し大根……遠慮したい献立もしばしばだ。
だからこそ、好きなものが出る日のおかず争奪戦には力も入るというもの。
豚肉の生姜焼き。
鉄板メニューにして、男女問わず人気のひとしな。これが配膳される日には、いただきますの合図の直後に、猛烈なじゃんけん合戦が繰り広げられる。
なにより今日は2名休みで、いつもより2枚多くゆとりがあるという絶好機。激高な競争率の中、勝ちの目が増えるとなれば、ますます見逃せないだろう。
長く苦しい戦いだったが、先生は首尾よく生姜焼きの一枚を奪取。ほくほく顔で自分の席へ舞い戻ることができた。
しかし、問題は食べる段になって起こる。
一枚目。
元からトレイによそられた生姜焼きを食べるぶんには、問題なかった。
それがこの戦利品たる二枚目を口へ運んだとたん、口内がぴりりと痛んだんだ。
短く、それでいて飛び上がりそうなものだ。つい、生姜焼きの運送をいったん取りやめてしまうくらいだった。
頬越しに、口内を撫でてみる。
じんわりとしたぬくみの中に、唾液でやや薄まった、サビのような香りが混じっていた。
これは以前にも味わったことがある。
鼻血が出た時、その出血がのどから口へ回ってきたときの味と、そっくりだったんだ。
――口ん中を切ったのか? でも……。
生姜焼きがそこまで固く鋭いわけがない。
とげなどが刺さっていたのかと、箸でつまみ上げたそれをつぶさに観察するも、目立つ突起はなかった。
ただ一枚目と違うのが、付け合わせの玉ねぎを取り除いて、あらわになった肉の表面に×字、×字に交差していく網目模様が浮かんでいたことだ。
ハムなどが、強く縛られたときにつきそうなものだが、これが何か関係があるのだろうか? だが、多少の痛みなどでこれを食べないでいるなど、言語道断。
残っていたご飯と、他のおかずもろとも先生は痛みをこらえて、全部お腹へ突っ込んでいく。
その後の休み時間では、大いに口をゆすいだよ。
案の定、なんべん水を吐き出しても、そこには糸を引くような長くて細い、赤の筋が紛れ込んでいく。口の中にできた傷が、ふさがっていない証拠だ。
口を開いて、よおく見ると口蓋の部分が幾筋か裂けて、そこから血がにじんでいた。しかもここから見通せない奥にまで続いているように思えたよ。
唾液のおかげで、口の中は自己修復力が高いと聞いたことがある。血がおさまりきらない以上、このまま我慢するしかない。
そうして自然治癒に望みを託し、午後の授業を受けていく先生。
が、事態はそのままの進行を許してはくれなかった。
授業で当てられれば、発言しなくちゃいけない。そこで口を開くたび、痛みとはまた違った感覚がへばりつく。
それは間違いではなく、ことが済んでからティッシュ越しに、そっと口の中を探ってみれば、すぐわかった。
髪の毛だ。それもメートルに及ぶんじゃないかと思うほど、長い。
先生自身の髪とするには論外の長さ。ここまでロングな生徒は、クラス中を見回したっていない。
一度や二度なら、妙な偶然が重なった結果とみなさなくもないけど、口を開くたびに毎度ときたら、さすがにおかしいと思う。
しかもからんでくる髪は、いまクラスを席巻している黒色とは限らない。
茶色だったり、白かったり、金色がかっていたり……そのカラフルぶりは、地球上から節操なく毛髪をむしり取ってきたかのごとく、バリエーションに富んでいた。
やはり、どれも長い。
中には口の中の開いた傷の部分に引っかかって、手間をかけないと取れないものさえあった。
なんか、これはやばい。
先生がそう感じるのに時間はかからず、かといって授業を早引きするのもシャク。
あと1コマだし我慢しようと、どうにか授業を終えて迎えた掃除の時間。
ゴミ出し係の先生は、ぽんぽんに膨れた袋を抱えて、当時まだ現役だった焼却炉へ一人旅をしていく。
学校の裏手にある焼却炉へは、いったん昇降口から出て回り込むかっこうになる。
その校舎を大回りした、非常階段横まで来たとき。
ふと、くしゃみが出そうになった。
手がふさがったいまの状態じゃ、満足におさえられない。とっさにこらえようと思ったんだ。
ふえっ……ふえっ……。
声は情けなくとも、本人には想像を絶する死闘だ。我慢を試みたことがある人は、分かるだろう?
その間、およそ数秒。
繰り広げられたバトルは、いきなり終わりを告げた。
前方から猛スピードで、口内へ突っ込んできたものがいる。
気づいた時には、もう半端に開いた口の中へ姿を隠すや、あのぴりりとした痛みと共にのど奥がうずいた。
それだけじゃない。
のどから鼻にかけてせりあがってくる感触は、皮膚の外側をのぼるものじゃない。
異変をしらせ、次々と流れ出す鼻水は空振りばかり。感触の主はいっこうに姿を見せてこなかった。
口内の傷、それも血が完全に止まりきらないとなれば、嫌な予感が脳裏をかすめる。
――あの飛んできたやつ、傷ん中に潜り込んだんじゃ……!?
そこからはゴミ袋を下ろして、必死に首の後ろ側を叩いていたね。もぞもぞとした感触の絶えない、その部分を。
通りかかった何人かに変な目で見られたが、気にしない。
「出ないと、生きてきたことを後悔させてやるぞ!」とばかりに、手刀でもって叩いて叩いて。
ようやく口からごろりと出てきたのは、羽根を閉じたカナブンらしき一匹だったよ。
ただその色は黒、白、金色……先生が吐き出してきた髪の色を、いくつも混ぜ込んだような奇妙な色合いをしていた。
ほぼ逃げるような勢いで用を済ませ、トイレに向かった先生。
鏡へ向かって大口を開け、明かりも当たるように調整しながら、よくよく見てみる。
完全には見えなかったが、口蓋垂の手前側。鼻の裏側にあたる口蓋に、黒い糸のようなものがぴったり張り付いていたんだ。
×字、×字の無数の交差。それは生姜焼きの表面に浮かんでいたのと同じ形で、その糸は開いていた傷口をぴったりと結っていたんだ。
あの吐き出してきた、髪のごとき糸たちは先生の傷を塞ぐために、口そのものがどこからか取り寄せてきたのかもしれない。
あのカナブンらしきものが、傷の中へ潜り込んでくるのを、あらかじめ防がんとしてね。
勝手な想像だけど、あの妙な傷をつけてきた生姜焼きは、カナブンが潜入するための伏線だったのかも、なんて考えちゃうんだよ。