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その後

作者: 颯川智子

 揺らめく遠くの景色と、照らし続ける日差しと、セミの声に包囲され、ここから逃れようと早く動きたくても、タラタラとしか足は進まず、ダラダラ流れ落ちる汗を止めることができない。さっき立ち寄ったコンビニのアイス売り場にもう一度戻りたい。あの幸福感を忘れることが出来ない。

「暑い」言いたくないのに口をつく。暑すぎて頭の中がそれしか浮かばなくなっている。停止しそうな脳をなんとか動かして、目的地までたどりついた。


 3カ月ぶりに悠也のマンションに来た。薄暗いエントランスに入り、階段で2階の悠也の部屋へ向かった。冷気を期待して玄関のドアを開けたのに、外とそう変わらないムッとした空気が漂ってる。

「クーラー入れてないの?」

中身が入っているのやら入ってないのやらが混在する大量のペットボトルをよけながら、奥の部屋へ進む。悠也は上空から降ってきたかのように、ベッド脇のフローリングの床にうつ伏せになって、ぺったり寝ている。

「何してんの?」

「こっちの方が冷たくて涼しいような気がするから。アイス買ってきてくれた?」

悠也が顔をあげて私を見上げる。21歳になったのに、まだ少年の面影を残した中学生みたいな顔で。

「クーラーつけてないの?死ぬよこんなん。はい。」

「サンキュー。ついてるよ。18度設定。」

悠也は起き上がり、袋から手渡したアイスキャンディーを満面の笑みで受け取った。久しぶりに近くで悠也の笑顔を見て、心が動く音が聞こえた。

「絶対壊れてるじゃん。大家さんに言いなよ。ほんとにやばいよ。」

「サーキュレーターあるから。」

さっきからぬるい風が顔に当たると思ったら、部屋の隅で小さなサーキュレーターが無駄に空気をかき混ぜていた。

「あー生き返った。」

悠也はすごい速さでアイスを食べ終わり、満足そうな顔をしながら

「琴子の顔見たら生き返った。俺ずっと死んでた。」

そう言ってこちらをじっと見つめた。

 


 新卒で入社した2年目の春。私はもう限界を超えて、さらにその先に到達しかかっていた。配属された部署は会社の中でもブラック中のブラックだと言われる部署で、休みも少なく、同僚も上司も曲者ぞろいだった。限界を超えたスピードで、2年間心身フル稼働させていた。休みになると、悠也に会うことより、自分の体を休めることばかりを優先させていた。それでも体調の悪い日が続くようになり、その日も周りの冷たい視線を浴びながら早退した。ぽかぽか陽気の平日の昼間の街を歩きながら、無性に悠也に会いたくなった。あまり会えてないことにも罪悪感があった。今日は学校もバイトもないことは知っていたので、家にいるものと思い込み、連絡もせずに家に行ったのがまずかった。

 言い訳もできない状態を目の当たりにした。鍵のあいている玄関のドアを開けた瞬間、靴を脱ぐ前に奥の部屋を見た瞬間にもう見えた。ダンプカーに跳ねられた瞬時にドライバーに怒りが沸かないように、怒りよりも何よりもその衝撃にふっ飛ばされて、とにかく部屋から飛び出すしかできなかった。ドラマとかでよくあるような「あんた誰よ」と相手の女に詰め寄り、あげく髪の毛のつかみ合いみたいな大修羅場を立ち回るには、浮気の予兆があったとか初めてじゃないかぐらいの余裕がないとできない。家から出ようと足元を見た時、小さな黒いエナメルのバレエシューズが玄関にあるのが目に入った。相手がどんな子かなんて分からなかったが、その靴の小ささと可愛らしさが私を深く傷つけた。


 涙が止まらず泣きながら帰る私を、しばらくして悠也が走って追いかけてきた。

「琴子、待って!」

振り返らず走って逃げようとする私を、悠也が後ろから捕まえてきた。桜並木でバックハグ。ドラマだったら、エンディングテーマが流れて、何かしらの愛の言葉をささやかれる展開だけど、

「ごめん。違うから。聞いて。待って!」

私が聞かされたのは謝罪と言い訳と懇願の言葉で、そこから逃れるために私は身をよじった。前方を歩いていたおじさんが振り返り振り返り見てくるのが恥ずかしく、そのせいで涙も止まっていた。私は悠也の腕から逃れて向き直った。泣きそうな顔をみると泣きたいのはこっちだよと怒りが沸いてきたけれど、こんな昼日中の外で、おじさんに見られている中で、怒り方が分からない。

「追いかけて来ないで。もう会わない。」

静かに言って走って逃げた。逆にその静かなトーンが効いたのか、悠也は追いかけて来なかった。


 悠也に、最後にもう一度会おう。ちゃんと会って謝りたいと言われ、よく行っていたカフェで待ち合わせた。もう別れることで話がついていた。正直会わないで終わらせたかった。

「ごめん。」悠也は言うなり泣き出した。

私が一度決めたら揺るがないのは知っているから、別れるのはしょうがない。でも、目を見てちゃんと謝らないといけないと思っていたと言いながも、泣きながらでほとんど俯いていた。面白いことが好きで、ふざけがりで、笑い上戸で、たいして面白くないことでも悠也が笑っているとつられて笑ってしまって、笑い合うその瞬間がとても幸せだった。こんな風に泣くなんて初めてで、私まで泣きそうになったけれどぐっと堪え、お金だけ置いてさっさと出てきた。

 一人になると泣けてきた。家に帰っても泣いている悠也の顔ばかり浮かんで泣けてきた。外では我慢できたのに。私はいつだって人の目ばかり気にして、外では気持ちと反対の行動だってとれる。仕事だってそうだ。苦しさを出したくなかった。辛さを見せれなかった。けれど体に心に限界が来てしまって、結果的にダメになった。結局仕事も辞めることになった。

 

 仕事も恋人も失って家にいると、どんどん気持ちが落ちていった。あれから悠也から連絡はない。私から連絡しようかと思ってやめた。というよりできなかった。どういう気持ちで連絡しようと思っているか自分でも分からなかったし、何よりもその時は、仕事を選んだこと、辞めたこと、悠也を好きになったこと、別れたこと、自分の選択がすべて悪い方へ通じていくような気がして、自信が持てなくなっていた。何もかも面倒で、寝てばかりいて何もしたくなかった。何もできなくなっていた。

 

 気づいたら季節は夏になっていた。私は学生時代にバイトしていたケーキ屋で再び働くことになった。私の母と店のオーナーが古くからの友人で、母から私の現状を聞いてオーナーが心配して連絡をくれた。無理のない範囲で、来れる時にまた来て欲しいと言われてありがたかった。ずっと家に引きこもっている訳にはいかないと思っていたし、母が心配しているのも知っていた。

 ショーケースに並べられた美しい美味しいケーキを眺めながら、それを買い求めるお客さんと接しながら、私は少しづつ癒されていった。甘くて美しいものはどんな薬よりもよく効く。休憩時間や新作の試食としてケーキをたくさんいただきながら、体重が増加するのに比例して自分が回復していくのが分かった。私は以前より随分痩せていたようだったが、戻るどころかMAXを叩きだすぐらいにまでなっていた。

 そんな時悠也から突然連絡が来た。

 「今、学生の時バイトしてたケーキ屋さんで働いてるよ」

少し前なら返信できなかっただろうのに、久しぶりの友人への近況報告のように淡々と返信している自分に驚いた。



 私がアイスを食べ終わって、棒を捨てようとしている背後から、待っていたかのように悠也が近づいてくるのが分かった。後ろから火の塊のように熱くじっとリとした体に包まれて、アイスを食べたばかりなのにもう暑く息苦しい。導入はほとんどいつも同じで、私が玄関から見たのもこの状態だった。私に見つからなかったら先へ進んでいただろう。だから言い訳は効かなった。許すことはできなかった。

「暑い」

自分の中では、不機嫌さと少しの拒絶を表したつもりだったのに、思ったより声が出ず、ため息交じりのように小さく響いた。

「うん。すげー暑い。」

悠也の腕の力が強まり、かすれ気味の声が耳のそばで響いて、脳が停止した。考えるのをやめた。

 サーキュレータが私たちにぬるい風を吹きつけながら、目をそらすように向きを変えて回っていった。

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