姫塚伝説~史跡七戸城物語~
本小説は2010年に著者自身により執筆され、七戸町観光協会から冊子として一般に配布されました。また、同協会のホームぺージにも掲載されたため、二つの版を底本としています。
一
龍笛が杉木立に静かに響いた。何処か、哀切を帯びたその音は、搦手の向こうから粛然として聞こえてくる。お稲姫は振り向いて森を見遣った。蒼穹に薄紫や淡紅の花々が連なり、その奥に、遠くのたおやかな山々が青み掛かって見える。やがて、笛はその音を静めた。
程もなく、一人の武士が花の陰から姿を現し、お稲姫の許に寄った。
「この辺りでは聞いたことのない音です。その笛は何と云うのでしょうか?」
「拙者の故郷に伝わる龍笛でございます。」
「そなたは?」
「南町杜氏徳蔵の弟、辰之丞と申します。」
「左様ですか・・・・・・」
「拙者は城下の者ではございませんが、由あって只今兄の家に逗留しております。」
お稲姫は、頷いて遠くの青い山を見た。――
野鳥の群れが辰之丞の真上の空を川に向かって渡って行った。
お稲姫は桜草の咲く小川の畦をゆっくりと歩いた。姫は美しかった。襟首が細く、胸元は透けるほどに白かった。細面に、黒目がちの凛々しい瞳が整い、程のよい小さな口唇には優しさが溜まっていた。このような美貌がこの世の中に存在することに、辰之丞は少し気の遠くなるような心持ちがした。
お稲姫は立ち止まって、本丸に聳える喬木をぼんやりと見ていた。そして、薄っすらと安堵の表情を浮かべた。恵風が心地よく谷あいにそよぎ、お稲姫の肩に木蓮の白い花びらがひらひらと舞った。
その白い花びらの行方を追いながら、辰之丞は再び姫に語りかけた。
「久しい昔のことでございますが、拙者この場所にて、お稲様から貝殻を頂いたことがございます。」
お稲姫はその黒目がちの瞳を辰之丞に向けた。
「拙者は、未だ幼い時分に七戸におりました。朱子学を学ぶため、いま十幾年振りに故郷へと帰って参りました。」
「そなた、学問を・・・・・・」
「南部の地は群雄割拠が続き、ところどころで戦が絶えません。この地の安寧の為には、士風の作興が必要です。」
「わたくしも、当節そのように思っております・・・・・・」お稲姫は本丸に視線を戻した。
「いずれまた参上致します。」辰之丞は踵を転じた。
お稲姫は窈窕とした姫であった。その衣をも透かすほどの容色は、七戸城下のみならず、南部諸侯にも聞こえ、あるとき七戸城に騒動を起こした。七戸所領には地氏と呼ばれる豪族が居たが、中でも七戸氏寄りの有力地氏が姫を見初め、正室にと欲した。しかし、姫は頑としてこれを拒み、七戸城主七戸家国は難儀した。
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この頃、現在の青森県を含む北奥羽一帯は、南部宗家三戸氏の支配下にあった。
しかし、津軽では、大浦為信が南部宗家による津軽支配から独立するために大規模な反乱を起こしていた。
天正十年(一五八二年)六月、織田信長を後継した豊臣秀吉が天下統一の大業に着手した。
その五ヶ月前、南部家では、田子城主南部信直が奉迎されて三戸城に入り、南部二十六世の太守に就いたが、南部家の有力武将の中には、信直の太守就任を不服とする者が少なからず居た。その背景には、二十五世南部晴政が亡くなった後の、嗣子晴継と養子信直の後嗣争いがあった。
晴政亡き後、世を継いだのは嗣子晴継であったが、晴継は亡父晴政の葬儀の後、三戸城へ帰城する道中何者かによって謀殺れた。その時の嫌疑が信直にかかった。
九戸政実は、南部宗家が晴継暗殺の嫌疑の残る信直によって継承されたことに不満の念を抱き、憮然として自領へ帰還した。そしてこの頃から、政実は自らが南部の当主であると自称するようになっていた。
七戸城主七戸家国は、南部家後嗣争いにおける内訌に際して、九戸政実とともに反信直の立場を表していた。このため七戸所領では様々な思惑が錯綜し、時節は不穏の様相を呈していた。
二
天正十五年(一五八七年)、皐月十日。
薫風の靡く奥州街道を、辰之丞は北へと急いでいた。三本木原に入ると道は段々と平坦になり、西に残雪の八甲田を望んだ。
辰之丞は一人、その麓七戸城下を目指していた。辰之丞には、徳蔵という九つ上の兄があった。盛岡に生まれた兄弟は幼くして母を無くし、杜氏だった父とともに七戸城下に移り住んだ。
徳蔵は、父の業を継ぎ、やがて頭領となってこの地で妻をもらった。幼くして、文武に秀れた辰之丞は、嘱目されて養子となり、三戸城下の武家に迎えられた。辰之丞は、眉目秀麗にして、勁草な男であった。剣と学問をよく学んだ彼は今、大小を腰に帯び、兄の許へと向かっていた。
青々とした稲穂の波が左右に拡がり、所々に深い森が見渡せる。その景色をしばらく進むと八幡岳が次第に大きくなってきた。七戸城下は近かった。新緑の木立を抜け、長い坂を登り切ると辰之丞は丘陵の上に立った。
眼下に商家の家並みが見渡せた。思えば、幾星霜を経たであろうか・・・・・・
辰之丞は、七戸川にかかる木橋を渡り、商家の立ち並ぶ小川町に入った。そこから二町許り進むと、一際大きな土蔵があり、何処からか酒粕の匂いがした。それは懐かしい匂いであった。辰之丞は、山平の号を確かめ、裏にまわって、訪いを入れた。
「どちらさまでしょうか?」小女が云った。
「徳蔵の弟、辰之丞でございます。徳蔵に繋いでもらえまいか。」
「お待ちくださいまし。」小女はそう云って奥に下がった。
暫時の後、戸が開いた。
「徳蔵様のお住まいにご案内申し上げます。」
小女は足早に酒蔵の並ぶ南町通りへ出て、西へ向った。
徳蔵には内儀志乃と嗣子申之助があった。
徳蔵は、南町の西端の小さな家に住んでいた。南町は道一つ隔てて川原町へと繋り、大手門までは四町程の距離である。
徳蔵の家に着くと、志乃と申之助が辰之丞を迎えた。
「辰之丞様、よくおいでなさった。ご立派に成られました。」
「ご無沙汰しておりました。」辰之丞は申之助を抱き上げた。
「六つになりました。徳蔵様がお帰りになるまで、緩りとお休み下さいまし。」
「はい、先ずは一休みさせていただきます。」辰之丞の言葉に、志乃は微笑んだ。
未の刻(午後二時頃)、辰之丞は家を出て川原町へ入った。馬せり場の向こうの丘に、七戸城の本丸が一際威厳を示していた。――七戸城は、柏葉城とも云われた。城郭は、本丸、二の丸、北館、下館、西館、角館、宝泉館の七郭より成り、大手、搦手等の虎口、その外に南外郭、西外郭、貝ノ口郭、北西外郭などの出城と呼ばれる枝城があった。さらに場内には、空堀、帯郭、腰郭、武者隠しが張り巡らされていた。
大手門を右に仰ぎながら、三町許り行くと、人一人ようやく通れる木橋が川に架かっていた。その橋の袂で、辰之丞は立ち止まった。作田川は上流の山裾から発し、田を縫って下流へと続いていた。
辰之丞は城の見取図を仔細に見た。
――この橋から作田川を上り、南外郭と腰曲輪の間の森を抜け、深い沢を一つ越えれば、搦手門か北館の周辺に至る。その北には西外郭、東には貝ノ口郭が広がっている・・・・・・
眼前の作田川は、この八町程下流で和田川と合し、七戸川となって城下を流れていた。
(この川の上流の東側は、段丘となって、松や杉が壮大な森を造っている。作田川を上流に上り、搦手門の北へ出てみよう・・・・・・)と、辰之丞は思った。
明くる日、辰之丞は、作田川の木橋の手前を右に折れ、川べりの小径を上流へ上った。青い稲田の向こうに残雪の八甲田が聳えている。辰之丞は南外郭の手前から東寄りに反れて杣径に入った。林の中を行くと、右に腰曲輪が見渡せた。沢は深く、意想外に湿っていた。――次第に杉の木立が賑わい、登り切った途端、鬱然とした森が広がった。更に草を掻き分けていくと、突然、視界が開けた。搦手門はしんとしていた。
そこから北へと足を踏み入れて程なく、北館の西端に出た。――空堀を超えて、小さな沼を掠め、森を潜って、西外郭に至ると、桜草の咲く草原が開けた。
すると、遠くに花を摘むお稲姫の姿があった。――辰之丞は、懐に忍ばせた龍笛を手に取り、虚心に奏でた・・・・・・
――そうして、辰之丞はお稲姫と邂逅した。
三
皐月十四日、辰之丞は、漆原桂節を訪ねた。桂節は、山躑躅の咲く、小高い丘の上にある神社の懐に居を構えていた。
門の前に立ち、訪いを入れると、背後から声がした。
「何か御用でございますか?」
見れば若い女が、風呂敷き包みを持って、立っている。
「南町の辰之丞でございます。」辰之丞は目礼した。
若い女は礼を返して、門を開けた。
屋敷に入って、廊下を伝い、庭に面した畳の間に通された。しばらく待って、漆原桂節が現れた。儒者らしく、髪を忽髪に結い、雄偉な風貌である。桂節は、未だ若い時分に京で朱子学を学び、現今その侃諤の説は南部宗家にも聞こえた。桂節は座して、辰之丞の眼をじっと見詰めた。それは隙のない眼であった。数瞬の後、桂節はおもむろに云った。
「徳蔵殿から話は聞いておる。」
「辰乃丞と申します。御面晤に与かり光栄に存じます。」
「貴公、学問がしたいとのことだが。」「はい、先生に朱子学をご教示いただきたく、こちらへ参りました。」
「何故学問がしたい?」
「南部は、その広いご領地にもかかわらず、土地は決して肥沃とは云えず、冬は雪に閉ざされます。不作となれば飢饉が起きます。畢竟、民を救うのは学問ではあるまいか、と思量しております。」
「その通りじゃ。お殿様は五穀豊穣に意を用いておられるが、やませが吹けば収穫は落ちる。領内の石高も決して高くはない。貴公の云うとおり、士気の昂揚を図り、民を導くことが緊要じゃ。」
「はい・・・・・・」
「学問を志す気持ちはよい。しかし、先ずは領内を見て回っては如何かな。田は未だ十分な水も行き渡っておらねば、新たな田も墾かなければならぬ。それを己が眼で見てみることじゃ。
「はい。作田川を上に伝って、田を見ながら、山へと向かってみようかと思います。」
「それは頼もしい話じゃ。ところで、今年は丁亥、来年は戊子じゃ。穀物の種子は未だ地の中にあるが、滋養を蓄えて、来るべき時に実を結ぶに相違ない。どうじゃ、八幡岳に登ってみては如何かな?頂上には山の神が祭られておる。城下では元服したものは山の神に詣でる仕来りになっておる。」
「承知仕りました。早速兄に聞いてみます。」
「徳蔵殿ならばよく存じていられよう。時に雪斎はどうしておる?雪斎は承知のとおりわしの弟子じゃ。」桂節は笑った。
「雪斎先生は、過日、上洛されました。」
この頃、京の豊臣秀吉のもとに、本領安堵の朱印を与るために戦国大名が続々と上洛していた。南部信直も自国平定の為、京の鷹匠田中清蔵に斡旋を求め、側近北信愛を前田利家のもとに送り、秀吉からの朱印を乞うていた。
一方、南部領内では、既に戦国大名としての地歩を確立していた八戸の根城南部氏が勢力を堅持し、七戸氏、九戸氏ら有力大名と拮抗していた。しかし、このような群雄割拠の世にあって、太守南部信直は、いずれ天下が秀吉に帰一することを推し量っていた。
「雪斎は具眼の士じゃ。歴史に通じており、信直公の信頼も厚い。今、南部では様々な問題が勃発している。喫緊の課題は、先ず諸侯の混乱を収拾することじゃ。南部領内では、お世継ぎ問題の折、九戸政実が反旗を翻して以来諸侯の足並みが乱れている。一歩間違えば、領内で南部一族同士が干戈を交えることになる。丁亥と云えば、京の街を炎に包んだあの応仁の乱から丁度百二十年が経つ。何事も起こらなければよいのじゃが・・・・・・桂節は懐手を組み、懸河の勢いで語った。
「雪斎先生も今日の混乱を憂慮しておられました。」
「貴公、三戸では雪斎から何を学んだ?」
「これが雪斎先生からお預かりした書状です。」辰之丞は懐から書状を取り出し、桂節に手渡した。桂節はその書状をじっくりと読んだ。――そして、眼を上げた。
「漢詩の素読は出来るようじゃな。」
「はい。」
「ふむ、そうか朱子学をか・・・・・・」
「拙者、兼ねてより先生に朱子学の教えを被りたいと存じておりました。」辰之丞はしっかりとした語調で答えた。
稍あって、桂節は浅く息を吐いた。
「よかろう。――」
その一言に、辰之丞は安堵した。
――ふと、床の間に眼を遣ると、一枚の水墨画が掛けられていた。
「これはわしが画いたものじゃ。八甲田は誰も近づくことの出来ない険しい峰じゃ。大浦為信もあれを超えてくることはできまい。」桂節は表情を動かさなかった。 (大浦為信・・・・・・津軽独立の旗手)辰乃丞は沈黙した。
そのとき、障子の外から声がした。
「失礼いたします。」障子が開き、ついさっき門先で会った若い女が、茶を盆に載せて入ってきた。
「娘のお悠じゃ。この塾を手伝っている。」
「先程は、・・・・・・」辰之丞は軽く会釈した。
「はい、徳蔵殿の――」
「弟の辰之丞と申します。」
「徳蔵殿や志乃さんには、予ねてから懇意にしていただいております。」
お悠は辰之丞の前に茶碗を置いた。その所作には物静かな品格が漂っていた。
「それでは、ごゆっくりと、・・・・・・」お悠は障子を静かに閉めた。
「辰之丞殿、それではこれを書写してもらおう。――」
桂節は経典『大学』(だいがく)を取り出した。辰之丞は、その浩瀚な書を蹴然として、手に取った。
――大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り。至善に止まるに在り・・・・・・
「四書五経、取り分け論語は必読の書じゃ。が、その前に大学を読まねばならぬ。何故ならば、大学には論語の要諦、つまり朱子学の基本が記されているからじゃ。」
「――幸甚に存じます。これより精進いたします。」
「若い時分は誰しもが、客気に動かされる。それ自体は良いことじゃ。しかし、何事にも陥穽がある。呉々(くれぐれ)も意を用いることじゃ。」
「仰せの通りです。拙速は慎みます。」
「よかろう」桂節は浩然と云った。
――辰之丞は桂節の水墨画を見詰めながら、山の話をした。
「拙者、八幡岳に是非とも登ります・・・・・・」
「山の神に詣でるがよい。七戸城下のみならず、南部の御領地が一望される。」
「必ずや。――」
「それから、大学の書写にも励まねばならぬ。早速明日から参られ。」
「はい、それでは明日巳の刻(午前十時頃)に参上し、書写を始めます。」
桂節はゆっくりと首を縦に振った。
その後、辰之丞は大学をじっくりと読み、一刻半の後桂節の塾を辞去した。
南町に差し掛かると、道端で申之助が志乃と遊んでいた。
「作田川まで行って参ります。」志乃にそう告げて、辰之丞は川へ出掛けた。
黄昏てゆく、川面の揺れる様を見詰めて、辰之丞は昔日を反芻した。
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あれは、辰之丞が六つの頃のことであった。夏はもう直ぐに終わろうとしていた。
徳蔵と辰之丞は、この川に山女魚釣りに出掛けた。徳蔵は山女魚を釣り上げながら南外郭の西側を川沿いに上流へと上って行った――。丁度、南外郭の森に差し掛かったとき、辰之丞は川岸の藪の中に幾つもの木通を見付けた。木通の実は熟れて、縦に割れ、種をもった白い実が現れていた。辰之丞にはそれが宝物のように映った。縦に割れた木通の実を追って、一人藪の中に分け入った。
――気が付くと辰之丞は徳蔵にはぐれていた。その時、何故か辰之丞は、その白い実を頬張りながら、沢を奥へと入っていった。長い森を抜けると、紫の花畑が、突然眼前に開けた。
「ここは何処だろう?」辰之丞は、そこに至って始めて、名伏し難い不安に襲われた。
花畑は、森の間を彼方へと伸び、末に微光を放った。
こちら側には、百日紅が群れるように赤い花を咲かせていた。――その時、花の陰から小さな声がした。
「どちらへ行かれるのですか?」お稲姫が忽然と現れた。
(この方は・・・・・・何方様だろう・・・・・・・)
辰之丞は、唖然として幼い姫を見詰めた。
「ここはお城の中です。戻られたほうがよろしかろうか、と思います。」
姫は微笑を湛えながら、そう云った。
「申し訳ございませぬ。」
「謝らなくてもよいのです・・・・・・あちらへ参りましょう。」
それから二人は桔梗の花の生い茂る野原に戯れた。野原には、湧き水が流れ、アオスジアゲハの番いがその水を吸った。
辰之丞は木通の実をせせらぎの向こうに見付けた。その実は房を四つに付け、熟れて水面の上に垂れていた。辰之丞は向こう岸に飛び移り、少し割れた実を獲った。木通の実を姫に渡すと、姫は微笑んで、掌に取った・・・・・・
やがて、薄暮が来た。
「こちらまでお出でなさいまし。」姫が云った。
「かしこまりました・・・・・・」
辰之丞は姫の元に寄った。寸刻の後、姫は小さな蛤の貝殻を、辰之丞の掌に置いた。
「有難うございます。」辰之丞は、受けた掌の貝殻を握り締めた。
「また、ここへ遊びに来てくださいまし。」姫は鈴を張ったような眼をして笑った。
辰之丞は微笑を返し、深く頭を下げ、森の中へと走った。――
辰之丞が木通の蔓をぶら下げて川岸まで辿り着いた頃、徳蔵と山平の男衆が川の上流から下流に渡り辰之丞を捜していた。・・・・・・家に帰り、辰之丞は、徳蔵に沢の奥の森に入ったことを仔細に話した。徳蔵は黙って聞いていた。
「今日あったことは決して他言してはならぬ。」そう云って、徳蔵は部屋を出た――。
――それから幾許もなく、辰之丞は養子に出た。
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・・・・・川面には、赤みがかった光が揺れていた。辰之丞は掌の貝殻を見詰めた。
(時は移ろい、十余年の月日を経た。けれども、お稲様は確かにお城にいらっしゃる・・・・・・)
南町の家に戻ると、往来には影が落ち、商家の灯かりが燈っていた。
その夜、辰之丞は徳蔵に山のことを話した。
「今日、桂節先生のところへ伺いました。七戸の西方に広がる山々は自然の要塞のようです。」
「八甲田には、冬場はもちろんのこと、夏場でさえ人は容易に入れない。八幡岳ならば、狩りで入る者がおる。」
「案内をお願いできる方はおりますか?」
「八幡岳の麓に山舘という部落がある。そこに左右吉という者がおる。八幡岳には左右吉が案内する。梅雨が来る前がいいだろう・・・・・・八幡岳からは八甲田連峰と津軽の地を望むことが出来る。これは定かではないが、津軽や南の湖に抜ける獣道があると聞いたことがある。」
「よろしく頼みます。」
<p1 end>
四
皐月二十一日、小満。
寅の刻(午前四時頃)、辰之丞は出立した。辺りは漆黒の闇であった。
作田川の木橋を渡り、西へと山を目指した。半刻で西野部落に至り、それから街道は一つになった。――山舘部落は、街から四里程のところにあった。辰之丞は早暁、部落に入り、大きな茅葺の家に訪いを入れた。静寂の中で郭公が鳴いていた。
左右吉は、既に支度を整えていた。日に焼けて、百姓らしい頑丈な体躯をもち、年恰好は辰之丞より十は上だった。
「参りましょう。」左右吉は低い声で云った。
二人は、朝陽を浴びて、鬱然とした山へと足を踏み入れた。
藪を脇に見ながらしばらく歩くと、傾斜は次第にきつくなり、深閑とした森が現れた。その木々は、まるで辰之丞を見詰めているかのようであった。
「これから先は、国の者でも迷うことがあります。はぐれずについてきて下され。」左右吉は草を踏んで進んだ。道と云う道はなく、木々の間を縫うように二人は登った。
半刻程登ったであろうか。視界が開け、小高い草原に出た。
「ここが馬立場でございます。少し休みましょう。」
二人は、藺笠を外して叢に座った。陽は昇り、山茱萸が緑白色の小花をつけていた。その枝の隙間から、遠く城下を眺望した。
「遠くに見えるのは海でしょうか?」
「左様でございます。」
「それから、海の手前に見える大きな沼は?」
「小川原沼でございます。ご領地で一番に大きな沼でございます。」
「何が獲れますか?」
「鯉や鰻がよく獲れますが、寒鮒が殊の外美味でございます。」
(あの沼で獲れる魚は、果たしてお城に上げられるのだろうか?)と、辰之丞は思いを巡らせた。
「この先はブナ林になります。ここから山の神まで一息に登ります。」左右吉が力強く云った。
「では参りましょう。」
二人はブナ林へと入っていった。
「山の神までどれくらいでしょう?」
「一刻許りでございます。」
――二人は更に登った。
辰之丞は汗を掻き、次第に体が火照るのを覚えた。ブナの木々の葉を透いた陽射しが、時間の経過を教えていた・・・・・・笹藪を掻き分けて行くと、やがて道は平坦になり、突然目の前が開け、祠が現れた。
山の神は左右を白樺の幹に囲まれ、右手前にはその巨木が茂っていた。
左右吉がぽつりと云った。
「昔はこの山を雄嶽と申しました。」
「雄嶽――誉田別尊が祀られていると聞きましたが・・・・・・」
「後醍醐天皇の御代のことでございます。ある日突然、東南から一条の霊光がたなびき、しばらくその光は消えることはありませんでした。これを見た西野部落の孫左衛門という猛者が斎戒沐浴し、ここに登りました。そして光を追っていくと、この白樺の幹に辿り着き、幹の中に神摘を見つけ、それを家に持ち帰りました。やがて、十五の子供だった孫四郎に、『我は八幡大神である。我を雄嶽に奉祀すれば国家泰平五穀成就疑いなし』という御託宣があり、ここに祀ったのでございます。」
「国家泰平五穀成就・・・・・・」
(南部の地は広漠とした山野だ。どうかこの地に恵みを、そしてお稲様の安寧を)
辰之丞は柏手を打ち、山の神に祈った。
それから尚も二人は登った。森の様は次第に変わり、ダケカンバとミヤマナラが混生していた。その蒼蒼たる木立を抜けると、空が開けた。八幡岳頂上に立つと、断崖絶壁に椴松が這い、稚児車が風にひっそりと揺れていた。そして、残雪を頂いた八甲田の峰が少し霞んで、眼前に迫っていた。八甲田は美しかった。その美しさには、人を寄せ付けない強さがあった。
「手前が雛岳、その奥の形のよい険阻な山が高田大岳、右が赤倉岳・・・・・・中央の火口を開いた、一際高い山が八甲田大岳でございます。」
「壮観です。北に海が見えますが・・・・・・」
「あの地は野辺地より先の南部の御領地でございます。しかし戦が相次いでいるようでございます。」
「抜ける道はありますか?」
「雛岳の裾野に見える広い草原が田代平(たしろたいでございます。夏場ならば田代平に辿り着き、更に、南の湖に抜けることは出来ます。――しかし、北に抜けた者はありますまい。」
眼前の山々が一層峻厳に見えた。
(やはり、八甲田から津軽に抜けることは出来ない。津軽へと至るためには、前門となる野辺地を通るしかない。)辰之丞は田代平の新緑を眺めながら、津軽の地へと赴くべき術について思案した。
――八幡岳を降り、山舘に着いたのは未の刻(午後二時頃)だった。左右吉は、辰之丞に山舘の家で一休みしていくように促した。
辰之丞は、志乃の持たせてくれた干飯を食べたきりだったので、流石に腹が減っていた。上がり框に座ると、左右吉の内儀が握り飯をもって来た。「辰之丞様、申の刻(午後四時頃)に左組部落から舟が出ます。作田川を下り、半刻許りで街に着きます。よろしければ舟にお乗りくだされ。」左右吉が辰之丞の疲れを慮るように云った。
「かたじけない。よろしく頼みます。」辰之丞はそれ程疲れてはいなかったが、桂節の言葉を思い出した・・・・・・・この機会に、作田川の流れから、領内の田の様子を見て置きたかった。
「従姉妹の小鶴がご一緒させていただきます。小鶴は髪結いをしている者ですが、決して怪しいものではございません。」左右吉の内儀の言葉に辰之丞は恐縮して頷いた。
左組部落までは左右吉が送ってくれた――部落には山が迫っており、畑の中に時折古びた家々が見受けられた。部落の東端の小さな坂を降りると、粗末な木橋の袂に舟付き場があった。小さな川原がまるで設えたかのように岸から突き出、小鶴と思われる華奢な女が、こちらを向いて礼をした。
辰之丞は「よろしく頼みます。」と水夫に告げ、舳先に座した。舟が出た。岸辺から左右吉が大きく手を振った。辰之丞は立ち上がり、手を振り返した。やがて、舟は流れに従って速度を増し、左右吉の姿が小さくなった。
舟は左右に田を見ながら、悠々(ゆうゆう)と下って行った。作田川は山あいの森の隙間を縫うように流れている。川沿いには幾つかの部落があり、稲穂の揃った青い田が時折見渡せた。辰之丞は、青い稲に安堵を覚えた。舟はゆっくりと流れ、次第に下流が開けてきた。
辰之丞は街の方角に眼を移した、その時、後ろから声がした。
「――小鶴と申します。お武家様、南町のお方と伺いましたが・・・・・・」
「山平の杜氏、徳蔵の弟辰之丞と申します。今日は、八幡岳に登った帰りでございます。」
「左様でございますか。兄上の徳蔵様は夫が存じ上げております。」
「それは奇遇に存じます。左右吉殿から、髪結いをなされていると聞きましたが・・・・・・」
「はい。川向に夫と暮らしております。」
(小鶴には自分に似た訛りがある・・・・・・)辰之丞はふと思った。
「旦那様は?」
「名を嘉平と申します。明徳館という城下の道場で剣術を指南しております。」
「剣術を・・・・・・拙者は、只今漆原桂節先生の塾に通っております。」
「嘉平も桂節先生に学んだようでございます。」
やがて舟は作田部落を抜け、左手の高台に南外郭が望まれた。
「ここからはお城がよく見えます。お城は森森とした木立を背にしているようです。」
――辰之丞は続けた。
「拙者は幼い時分、南町におりましたが、随分長い間この地を離れておりました。・・・・・・その頃、兄の徳蔵と釣りに出掛け、あの森へ迷い入ったことがあります。」
「左様でございますか・・・・・・」
「――ご新造様、お城へ登ったことはありますでしょうか?・・・・・・」
小鶴は黙った・・・・・・
時は静かに流れ、田の向こうに腰曲輪が望まれた。街は近かった。
「わたくしは、お城で姫様の髪を結っております。」小鶴は卒然と云った。
舟は、朝方、辰之丞が渡った木橋をくぐり、やがて和田川と合流した。川は水量を増し、滔々(とうとう)と流れ、間もなく左岸に材木屋や商家の大きな蔵が見えて来た。それは既に街に入ったことを意味していた。
――田は途切れ、舳先に切られる水の音が聞こえていた。。
「橋の袂にお付けします。」水夫が云った。
舟はゆっくりと岸に近づいた。辰之丞は小鶴の手をとって、川原に下りた。水夫は舟を沖に出し、上流に切り替えした。辺りは少し昏く、程なく酉の刻(午後六時頃)かと思われた。
川原から橋まで登り、そこで二人は別れた。別れ際に小鶴が云った。
「徳蔵様によろしくお伝えくださいまし。」
五
明くる朝、辰之丞は西外郭の森に立った。枝葉を透って陽光が暖かく差して来る。皐月の野に花菖蒲が美しく咲いていた。辺りを見渡して、北に広がる緑野を歩いた。花菖蒲は紫の花をつけ、遠山を横切って、端を青陽に吸われた。
――花冷えの野の縁に、杉木立が鬱蒼と茂っている。
(この木立を先へと抜ければ一体何処へ至るのだろう?貝ノ口郭だろうか・・・・・・更に行けば、天間館郭か?)辰之丞は、杉木立を前にして、昨日の八幡岳行を頭の中に描いた。
懐から龍笛を手に取り、奏でると、その調べは花や木を伝って響いて行った。
・・・・・・その時、背後に僅かながら人の気配があった。辰之丞は咄嗟に身をかがめた。しかし、その気配は瞬く間に木立の中へと消え去った。辰之丞はその正体を少々怪訝に思った・・・・・・
――陽は、高く昇った。今し方通った小径を、辰之丞は再び歩き、十町許り戻った・・・・・・折しも、お稲姫が北館の館から花の中へと下りてきた。辰之丞は、立ち止まりお稲姫を見詰めた。姫はちらりとこちらに眼を呉れた。辰之丞は、深く頭を下げ、低い姿勢で姫の前に寄った。
「昨日、山の神に詣でました。」
「そなたの願いが本当になることを祈っております。」
辰之丞は目を上げた。
「拙者、しばらく城下に留まり、桂節先生の塾へ伺うことになりました。」
「左様ですか、どうか学問が成就されますことを・・・・・・」
雉の親子が二人の横を通り過ぎ、やがて青空に向かってハタハタと音を立てて飛翔した。その果てに望まれる、八幡岳の山肌が雲間から陽を受けて、緑色に輝いていた。
「時に、お山は如何でしたか?」
「美しい山でございました。山の神に南部の安寧を祈願して参りました。そして、晴嵐の中に八甲田の峰を望みました。」
「それは大層美しかったことでしょう。山の神様がこの地に平和を齎してくださりますよう・・・・・・」
――姫は、辰之丞に手を伸べた。辰之丞は身を起こし、手に受けようとしたが、間尺が足りない・・・・・・半歩進んで手に受けた。それは蛤の貝殻であった。
「わたくしは、はっきりと覚えております。――木通を一つ・・・・・・そなたが呉れましたことを。」
「拙者もあの時のことを仔細に覚えております。」
「あれは往にし方のことですが、まるで昨日のことのようです。――」
「お稲様、何か不足の事があれば、拙者に仰せ付け頂きたく存じます。」
お稲姫は、花菖蒲に眼を落とした。
――しばらくして、
「いつかまた、あの調べを聞かせてお呉れ・・・・・・」お稲姫は穏やかな調子で云った。
「承知仕りました。また参上します。」辰之丞は、お稲姫に深く一礼し、森へと駆けた。――
南町の家へ帰ると、強い鼓動が辰之丞を襲った。
畳に寝転び、天井を眺めると板の木目が相似を為して並んでいた。それを一つ、二つ、と数えていくと、次第に鼓動の波は小さくなった。
――志乃が部屋に入ってきた。
「川向の嘉平様から使いの口上がありました。未の刻(午後二時頃)にでもお立ち寄りいただきたいとのことです。」
「承知仕りました。桂節先生のところへ参る前に、寄ってみます。」
その日、昼飯の後、辰之丞は川向に嘉平と小鶴の家を訪ねた。――
未の刻(午後二時頃)、辰之丞は小川町を抜け、七戸川に架かる橋を渡った。嘉平の家は川沿いにあった。辰之丞は、志乃から聞いていた屋敷の外観を確かめ、訪いを入れた。
家の中から誰何の声がした。辰之丞が応じると、戸が開き、小鶴が小奇麗な姿で現れた。
「いらっしゃいまし。お待ち申し上げておりました。」
「お邪魔致します。」
辰之丞は中に入った。
「これから登城なさるのでしょうか?」
「左様でございます。きょうは嘉平がお話し申し上げたいことがあるようです。ごゆっくりなさいまし。」
そう云って、小鶴は辰之丞を奥の間に通した。
――嘉平は大柄で勇壮な男に見えた。
「お初にお目に掛かります。」
「貴公のことは桂節先生から伺っております。」
「はい、先生には先日お面晤に与かりました。その時、大学の書写を仰せつかりました。」
「そうでしたか。私もその昔、大学をじっくりと読みました。それから論語です。」
二人の眼が合った。
「きょうは少し伺いことがありまして使いを差し上げました。」
「はい。そのつもりで参りました。」
「この七戸は旧くから津軽の勢力と対峙し、南部の北の要衝として機能しております。しかしながら、南部宗家のお世継ぎ問題の後、九戸政実の反逆に連なる動きが領内にあります。これは桂節先生も懸念されています。」
「仰るように、七戸は南部の要衝です。津軽の統治を回復するに当たっては、必要欠くべからざる地です。南部宗家もそのことは十分承知の筈です。」
「南部宗家と九戸政実との内紛次第では、南部は分裂するでしょう。七戸のお殿様がどちらに与されるかによって、この土地の民の運命も変わってしまいます。率直に伺いましょう。貴公はどのように考えますか?」
「雪斎先生は今回の騒動もあって、南部の領土安泰を図るべく京に上られました。先生は、双方が和し、内乱をどうにか回避すべきとのお考えです。拙者は、南部が再度一丸となって、津軽の覇権を大浦為信から奪還し、南部所領が平定することを願って止みません。」
「ほう、・・・・・・」嘉平は障子から漏れる陽を、少し眩しそうに見た。
「大浦為信は津軽の豪族を纏めております。南部からの独立は時間の問題です。」
「拙者の父は、津軽の地に戦に赴き、そのまま行く方知れずになってしまいました。一度津軽の地に参りたいと・・・・・・」
「心中お察し申し上げます。しかしながら、今は学問に精進なされては如何かと。――」
「拙者は、天下のことは詳しくは存じませぬ。唯、世の安寧を願うだけです。」
「辰之丞殿、――嚢中の錐――と申しますな。剣も学問も相当の方と拝察致しました。」
「決して、そのような・・・・・・」
「ところで、城中にはお姫様を巡る騒動が出来しております。貴公はそのことをご存知ですか?」
「詳しくは存じませぬ・・・・・・」
「お稲様の御母堂は、ご側室の萩の方です。萩の方は、お稲姫ご誕生の後、病を得、程なく亡くなられました。ご正室はお稲様を疎んじ、お稲様は北館の奥の館からお出ましになりません。姫様は品格を備えた、稀にみる美貌の持ち主です・・・・・・」
「左様でございますか・・・・・お稲様に何か?」
「お世継ぎは何分年少で元服もなされておられません。縁組みもまだまだ先の話です。お稲様はその美貌ゆえに、諸侯の嫡子や地氏が正室にと名乗りを挙げておりますが、頑なにそれを拒まれております。今はお殿様の微温的な保護のもとにありますが、行き先次第では、領内に禍根を残しかねません。」
「お稲様が拒まれてらっしゃるのならば、致し方のないことです」
辰之丞は嘉平の眼を見た。
「それがしの申しているのは、その美貌が政争の具にされかねないということです。三本木在の豪族が、お稲様を熱望しています。」
「お稲様が政争の具に・・・・・・それは残念なことです。」
「時下豊臣秀吉が天下統一に向け東に進んでいます。南部信直公の下、南部諸侯が一丸となってこれに処す必要があります。ご高承の通り、信直公は天下の情勢に対する見通しをお持ちです。秀吉に従順な態度を示していらっしゃる。しかし、領内では九戸政実の動きを危惧しておられます。若し、結束を欠き秀吉に反旗を翻すものがあればその地は滅亡します。」
「桂節先生もそのことをご懸念されています。」
「先生は只今登城され、ご家老天内主税様と情勢を計っておられます。これは南部領内のみならず、天下の話です。先生は、京で学んだ折、この混乱極まる戦国の世を目の当たりにしておられます。その政治に対する眼力は、言うに及びません。そう遠くない将来、豊臣秀吉は小田原に北条氏政を攻めるでしょう。小田原城が落ちれば、矛先は奥羽諸藩に向きます。若し九戸政実がこの戦に挑んだ場合、七戸のお殿様は如何為されるか・・・・・・」
辰之丞は黙った。話があまりに大きかった。
その時、小鶴が間に入ってきた。
「失礼致します。これからお城に登ります。何か御用向きは?」
小鶴は、少し意味のあり気な眼を辰之丞に向けた。
「気をつけて参れ。」嘉平がそっけなく云った。
小鶴は辰之丞に一礼して下がった。
(小鶴は、拙者とお稲様の逢瀬に感づいている・・・・・・)辰之丞は咄嗟に思った。
「ところで辰之丞殿、剣の勝負を致さぬか?」嘉平は鋭い目つきで辰之丞を見た。
「生憎にも、剣は不得手でございます。」
「先生から聞いております。貴公、かなり出来る・・・・・・勿論、面籠手をつけた勝負です。馬せり場の横に明徳館という道場があります。そこでそれがしは皆伝を得、弟子に稽古をつけております。」
「お手柔らかにお願い致します。」
「それでは、三日後で如何でしょうか?」
「承知しました。」
「大学の書写がおありでしょうから、申の刻(午後四時頃)にでも・・・・・・いずれ道場でお待ちしております。」
――辰之丞は嘉平の気概に押されてしまった。
辰之丞は毎日欠かさずに桂節の塾に赴き、大学の書写をした。そして、嘉平を訪ねた三日後、辰之丞は明徳館へと向かった。
刻限に訪いを入れると、稽古着を身につけた、まだ少年の面陰のある門弟が、道場に案内した。道場は徒広く、五十畳はあるかと思われる板の間の稽古場があった。
嘉平は既に面籠手を前に座っている。――辰之丞は嘉平に向き合って座した。
「辰之丞殿。本日は一本勝負で参ろう。」
「はい。一本勝負で・・・・・・。」
――二人は立ち上がった。
辰之丞は青眼に構えた。竹刀の先端が嘉平の眉間から左右の瞳を捕らえていた。このとき嘉平は小揺るぎもしなかった。竹刀が不気味な程に静止している。しかし、気が付くと、嘉平の姿は静から動へと連なるように左右に揺れた。そして竹刀は、鶺鴒の尾の如く淀みなく、しかも僅かに動いている・・・・・・そう思った瞬間、嘉平の竹刀が眼に見えない程の速さで籠手に来た・・・・・・。辰之丞はかろうじてかわした。
――冷たい汗が全身に滲んだ。嘉平は強かった。田舎道場だが流石に免許皆伝だけはある。
辰之丞は間合いを計った。嘉平の突きが来た。それをかわし、すかさず胴を払いに行った・・・・・・決まった、と辰之丞は瞬時に思った。しかし、嘉平の竹刀は見事に辰之丞の面を割っていた。脳天がしびれ、気が少し遠くなった。
「それまで。」門弟が二人を分けた。
――しんとした空間の中で、二人は下がって礼をし、防具を外した。
「見事な胴でした。相打ちですな。」嘉平は表情を変えずに云った。
「拙者の胴は浅い。一本とられました。」辰之丞は素直な気持ちでそれに応じた。
「着替えて座敷に上がりましょう。」嘉平は微笑して、辰之丞を洗い場へと誘った。
道場の出口には、数人の門弟が集まって、ざわざわと話をしていた。おそらくその話は、今の相打ちについてだろう・・・・・・道場を出て、長い廊下を抜けると広い庭に出た。廊下から一段を降りたところに、洗い場はあった。二人は手ぬぐいで汗を拭い、庭からの心地よい風に当たった。
嘉平は、辰之丞を奥の座敷に講じ入れた。
座に着くと、
「道場主の佐木惣次郎先生はそれがしの師匠で、お城の剣術指南方を為さっています。ところが先年、原因不明の病を得、只今彼の地で病臥しております。」嘉平は淀みなく語り出した。
(剣術指南方・・・・・・佐木惣次郎・・・・・・)辰之丞はその名に聞き覚えがあった。何処で聞いたか?・・・・・記憶を辿ったが咄嗟には思い出せない。
さあらぬていで、
「彼の地とは、ご領地でございますか?」と嘉平に訊いた。
「はい、領内に温泉の沸く地があります。」
・・・・・・辰之丞は、八幡岳の帰りに、山舘部落から左組部落にかけて、左右吉と歩いたときの情景を思い起こした。確か、小鶴の実家がある筈だ。山は家々に迫っていて、その隙間を縫って作田川が流れている。
「左組部落の辺りでしょうか?」
「いや、左組部落ではありません。街の北方に天間舘という郭がありますが、更にその奥の地です。佐木先生はその地で療養しておられます。先生の容態は快方に向かっていますが、道場での指導はそれがしが当たっています。」嘉平は明快に答えた。
「あの剣は?」
「秘剣とは申しますまいが、先生秘伝でのものです。」
「使い手は他に何方か?」
・・・・・・嘉平は哄笑した。
「辰之丞殿。この剣はそれがしの他には未だ誰の手にも伝えられてはおりませぬ・・・・・・」辰之丞は迂闊なことを聞いてしまったことを咄嗟に後悔した。――
「ところで、三本木在の地氏向坂慶四郎が領内で狼藉を働く事件が起きています。向坂は、ここ数年で急速に勢力を伸ばし、多くの地侍を傘下に収めております。若し、南部の内乱に収拾が就かず、万が一にも戦となれば、兵力が鍵を握ります。向坂はお殿様にとって、もはや看過し得ない存在です。」
「向坂慶四郎・・・・・・」
――辰之丞の眼の前に、霧中の敵がはっきりとした。――
「向坂にはどうも城中を瞞着する才能があるようです。お稲様に傍惚れし、ともすれば略奪を働くのではないか、との危惧もあります。それを受けて、ご家老様はお稲様の身に危害が及ぶことを懸念され、付き人を水面下で探しておられます。勿論、付き人は腕に覚えのある者でなければなりませぬ。」
「・・・・・・また、お手合わせ願います。」辰之丞は目礼して座を立った。
(この御仁、端倪すべからざるものがある・・・・・・)
六
その夜、徳蔵が辰之丞の部屋へ来た。
「少しよいか?」
「はい。」
「嘉平と懇意にしているようだが・・・・・・」
「今日は、道場で稽古をつけて頂きました。」
「そうか・・・・・・道場でお前の腕を試したのだろう。」
「嘉平様は相当できます。」
「嘉平は七戸城下でも五指に入る剣客だ。それでいて武張ったところのない男だ。」
「その他は?」
「一人は、剣術指南方佐木惣次郎・・・・・・」
「佐木様は、どのような方でしょう?」
「明徳館で、親父と切磋琢磨した仲だ。――篤実なお方でいらっしゃる。」
徳蔵と辰之丞の父修太郎は、その膂力は七戸に及ぶものがないとも云われた兵であった。――剣術に秀でた修太郎は、七戸城下に移り住んだ後、杜氏の傍ら明徳館で修行を重ね、目録を得た。辰之丞が未だ幼い時分、お城で開かれた奉納仕合で、佐木惣次郎と戦い、激戦の末勝利した。その後、剣術指南方へ推挙する声が挙がったが、突如御下命があり、佐木とともに津軽の独立紛争に出仕した。佐木は負傷を抱えながらも帰還したが、修太郎は、その後行く方知れずになっていた。
「南部の地は御領地争いが絶えないが、それは今に始まったことではない。親父に何故出陣の御下命があったのかは不可解な儘だ。わしには親父が奸計に落ちたような気がしてならない。」
「何故でしょうか?」
「行く方知れずになった時分、巷には親父が津軽と通じていたという謬伝が流れていた。」
「有り得ないことです。出所は何処でしょう?」
「それが分からない。親父の消息を明らかにすることは本懐だが、いずれ、お城が密接に関わっていることだ。深追いは出来まい。」
「無念です。しかし、是非とも佐木様には御面晤仕りたく・・・・・・」
徳蔵は羽織の袖に手を入れながら、難しい顔をした。
「やはり、佐木様が父の消息をご存知なのではないでしょうか?嘉平様から、天間舘郭の更に奥の地で療養中と聞きましたが・・・・・・」
「佐木様は病身ながら、ご家老天内様からお役を仰せつかっているようだ。居場所も定かではない。しばし待て。」
徳蔵の云い振りに辰之丞は得心した。が、父が津軽の地で生きていることを、辰之丞は信じて疑わなかった。――
「ところで、七戸で万が一のことがあれば、その時は左右吉が頼りになる。左右吉の親父は山舘の地侍だが、我らの同郷の士だ。左右吉ならば、山を伝って南へ抜けることも出来る。そこには美しい湖がある。その湖は八甲田の南に位置し、海のように大きく誰も入ることはない・・・・・・。それから小鶴のことだが、あれは性根の確かな女だ。城中で何かあれば、屹度力になる。――」徳蔵は静かに云った。
水無月十日、芒種から数日が過ぎていた。夕暮れに作田川の瀬音が聞こえ、空には雨雲が薄黒く浮かんでいた。川岸の紫陽花は花をつけはじめ、梅雨の季節の蒸すような予感がした。
森のはずれには、蕗が群生し、蝸牛が蕗の葉の上を歩いていた。辰之丞は蕗の葉から落ちる水滴をよけながら空堀を超え、北館の西端に出た。空を見上げると、薄黒く低い雲が風に靡いて、隙間から陽光が差して来た。
お稲姫は薄衣を纏い、花畑の中に居た。
――辰之丞は緑陰からその姿を認め、辺りを見回して、花畑に下り、姫の前に寄った・・・・・・その時、姫の顔に何処か安堵の色が映った。その表情をみて辰之丞は心に誓った――お稲様をお守りしよう、と。
「拙者、お稲様に何処までもお仕え申し上げます。」
――姫の顔が緩んだ。
「将来も過去もあろう筈はありません。――」
「お稲様の身に危険が迫っていると伺いました。拙者がお力になりたいと存じます。――お稲様を山の奥の湖へお連れ申し上げます。そこは安穏の場所です。一時 八幡岳の麓に身を潜め、暫時の後、湖まで参りたいと存じます。道中は拙者がお供致します。」
「山の奥の湖・・・・・・」少しの後、姫は諦観した面持ちで囁いた。
「どうかご即断を・・・・・・」
「わたくしはそなたと湖へ参ることを諒とします。――今宵、月が昇った後、館までお起こしくださりますか?」
「かしこまりました。今宵、必ず参ります・・・・・・」
************************************
日暮れから、月は赤く大きく東の空に浮かんだ。辰之丞は、川岸を伝い、低い月に向って北館へ登った。――森を抜けた頃、陽はようやく暮れようとしていた。薄明を背に、八幡岳が深い藍色に霞んでいた。
夜陰を待ち、辰之丞は空堀を越えて、お稲姫の館の濡れ縁に上がった。蒼然たる月の光を頼りに歩を進めると、僅かに板の軋む音がした。突き当たりの障子に蝋燭の炎が揺れている。辰之丞は、大小を濡れ縁に下ろし、戸をそっと開けた。
そこは四畳半の間であった。――辰之丞は座して姫に礼をした。少し眼を上げると、お稲姫は浴衣を召して、床の間の左に座していた。床の間には、桂節の手になる軸が掛けられてあり、卯の花が一輪活けられていた。――
「五月山 卯の花月夜 ほととぎす 聞けども飽かず また鳴かぬかも」拙者、そういう歌を覚えております。
「万葉の歌人も、卯の花月夜を見たのでしょうか?」姫は床の間に眼を移した。
「今宵、月は満ちております。ここも都も月は同じようでございます。」
姫は立ち上がり、障子を開けた。冷気がすっと差し込んだ。月は夜空に円く昇り、月明かりの中に、空堀の縁に咲く、卯の花の群れが白く浮かんで見える。
姫は月を見上げた。
「月はまだ昇った許りでございます。このような美しい卯の花を月光の下に見て、幸せの至りでございます。」
二人は、しばらくの間月を眺めた・・・・・・
――月はゆっくりと西へ動き、やがて空堀に花陰が生じた。
「お稲様、ご出立のご用意を・・・・・・」
姫はそっと障子を閉めた。それから半刻程して、障子に映る蝋燭の炎が消えた。
その夜の月は煌々(こうこう)と輝いていた。――
七
文月二日、朝から小糠雨が降っていた。
巳の刻(午前十時頃)、雨が止んだ。辰之丞は南町を東に進み、四辻を右に折れ、小川町に入った。瀬戸物屋や呉服屋が軒を連ね、お店者が熱心に働いている。往来の半町先を、風呂敷包みを抱え、傘を柄高にさした女が歩いていた。辰之丞は、背格好を見て、その女がお悠だと分かった。程なくして、お悠は寺の門を潜った。門の前で寺小姓に訊ねてみると、ここはどうも街寺らしい。
辰之丞は桶に水を汲んでいるお悠に礼をした。
「御寮人様、お墓参りでございましょうか?」
「はい。今日は、母の月命日でございます。」
「桂節先生は?・・・・・・」
「父は、お城へ登りました。」
「左様でございますか、拙者も御母堂のお墓にお供してもよろしいでしょうか?」
「かたじけなく存じます。」
桶を手に持ち、二人は墓地へと入っていった。墓地の奥には、大きな銀杏の老木が二本聳えていた。その陰にこの地方では珍しい五輪塔があった。そこに卒塔婆が数基建っている・・・・・・
お悠は、墓に花を手向け、手を合わせた。鬢の毛は麗しく後ろに流れて、凛呼とした様は、際立って清潔さを感じさせた。
辰之丞は、腰を落として墓に手を合わせた。
「有難うございます。」お悠の声は、言い知れぬ韻律を伴って辰之丞に聞こえた。
――二人は墓地を後にした。
「明日また、塾へ伺います・・・・・・」辰之丞は門前で、お悠を見送った。
この時期、地氏向坂慶四郎は、切田氏、米田氏、沢田氏ら三本木在の地氏を結束し、七戸家国に与する姿勢を示していた。これにより、七戸氏の勢力は増大した。一方、向坂はお稲姫を正室にすることを期し、天内家老に政治的圧力を加えていた。七戸氏と姻戚関係が結ばれ、家臣に召されることは、地侍から成り上がった向坂にとっては、正に一石二鳥であり、是が非でも実現したい切望であった。
辰之丞は寺からの帰りに、夕凪の七戸川の岸に立った。白雲が夕暮れに浮かび、せせらぎが聞こえた・・・・・・
小川町から左に折れて、南町に差し掛かった頃、通りの向こうで徳蔵が申之助を遊ばせていた。家の戸を開け、土間に入ると、勝手から志乃の声がした。
「今晩は蕎麦がきに致しましょう。」
「ありがとうございます。七戸の蕎麦がきは一際です。」
志乃は微笑を返した。
徳蔵は杜氏らしく存分に酒を飲んだが、辰之丞は下戸であった。
――夜も更けて、志乃は申之助を連れ、座を立った。
夜陰が満ち、障子の外に静けさが沈んでいた。その静けさの中で、徳蔵は酒を受けながら、語り始めた。
「お悠様の御母堂は、はじめ山平で奉公をしていたそうだ。何の縁かは知らぬが、漆原桂節の内儀になった。それは目を見張るばかりの器量だったらしい。」
「父も存じ上げていたのでしょうか?」
「分からぬ。親父が七戸に来た時分には、既に桂節に嫁いでいた筈だ。その桂節の内儀が、どういう理由かは分からぬが、いつしかお城の奥勤めをするようになったそうだ。その折お殿様のお手が付き、やがてお稲様が生まれた。が、桂節と内儀の間には既に子があった。それがお悠様だ。」
「お稲様とお悠様はご姉妹・・・・・・もしや寺のお墓は萩の方?」
「そうだ。萩の方は町人として葬られている。お悠様は当然のことながら、お稲様を慮っておられよう。」
「お二人がお会いしたことはあるのでしょうか?」
「御目文字は一度も叶っていないようだ。」
それを聞いた辰之丞は憤った。
「拙者、今度こそお稲様を向坂の手から逃れさせます。」
「辰之丞、姫様を懸想したのは今となっては、致し方あるまい。」徳蔵の語調には諦念があった。
「拙者、馬を駆って姫様を一時左右吉殿のところへお連れし、身を隠したく存じます。」
「しかし、それはお殿様の忌諱に触れることだ。まさか意ある者が使嗾した訳でもあるまい。」
「――拙者、お稲様と赤縄の契りを結びました。このままでは姫様は、不幸の身になられます。」
徳蔵は顔を顰め、黙考した。
「一時ならば、お前の云うように八幡岳の麓に身を隠せよう・・・・・・しかし、どんなことがあろうが、お前はお稲様とともに生きなければならぬ。我らに累が及ぶことは心配するな。左右吉ならばいずれ山の奥の湖まで案内できよう。」
八
文月十日。
夏雲が空にぽっかりと浮かび、初夏の心地よい風が街に流れた。その日、未の刻 (午後二時頃)、辰之丞は桂節の塾に行った。菅笠を被っていても少し暑い程であった。
この頃、城内である椿事が出来した。向坂が家国への謁見とお稲姫の輿入れを家老天内に求めたのだ。
――辰之丞はこの日も、桂節の塾で大学の書写をしていた・・・・・・
・・・・・・古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の家を斉う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは物を格すに在り。・・・・・・
辰之丞は眼を下に向け、思案した。
(今必要なことは、人の内にある陽つまり明徳だ・・・・・・)
「先生、南部の分裂はどうにか回避できるのでしょうか?」
「お殿様は九戸政実に加担される公算が高い。このままでは南部は分裂する。そうすれば、南部宗家との戦いになる。しかし、これは何としても避けなければならないことじゃ。」桂節はしっかりとした口調で云った。
「拙者もそう願っております。」
「貴公は、七戸の者ではないが、徳蔵殿の弟君じゃ。そして武道に優れている。嘉平が兼ねてより貴公をお稲様の付き人に、とご家老に推挙していたが、近々に御下命がある。実家のこともあろうから、身分は伏せて南部浪人としておく。」
「拙者、有り難くお受け致します。」
「それでは、御下命後登城し、ご家老の配下としてお稲様の守護をお願いしたい。――お稲様には、夕菅という侍女がおる。これはなかなかの切れ者だ。先ずは、夕菅とともに近く開かれる茶会の守備をお願いする。」
「承知仕りました。」
「呉々も遺漏なきように。」
・・・・・・帰りがけに、お悠が門の外に辰之丞を追ってきた。
「少しよろしいでしょうか。」
「はい。」辰之丞は顔を上げた。
「父から聞きました。お稲様のご守護のためお城に登るとのこと、どうか、お稲様をお守りくださいまし。」
お悠は、辰之丞に深く頭を下げた。――その目には憂いが浮かんでいた。
その時分、九戸政実の南部宗家に対する反逆に同じて、七戸家国は周辺の有力地氏を糾合し、あわよくば南部信直の居城三戸城を攻めようとしていた。
・・・・・・その日夕刻、辰之丞は夏木立を抜け、西外郭へ登った。
「拙者、この度の茶会にお供することになりました。」
「左様ですか。わたくしは向坂のお茶会なぞに列したくはありません。」
「いざという時は、拙者が身を張ってお守り申し上げます。茶会の翌日には、お稲様を八甲田の南の湖へとお連れいたします・・・・・・手筈は万事整えております。」
――お稲姫は、肯いた。
文月十四日、城から使いの者が来た。家老天内主税から、お稲姫守護の下命があった。辰之丞は即刻登城した。大手門を潜ると本丸と二の丸の間に樅と杉の喬木が聳え立っていた。それは西外郭の花畑から眺めたものだった。
辰之丞が伺候したとき、家老天内は大広間の上座にうっそりと座していた。天内は髪に霜を置き、才子の風格があった。下座には、臣下の者と侍女夕菅が列座していた。辰之丞は着座した。
「辰之丞殿、爾今お稲様の守備をお願いする。」
「この度、御守護のお役を仰せつかり光栄に存じます。命を懸けて、お稲様をお守り申し上げます。」
「これは心強いことだ。」
「万が一、法度に違背するような仕業があれば、何人と云えども斬捨て構わぬ。」
「承知仕りました。」
「あれが侍女、夕菅だ。」
「夕菅でございます。――」
「夕菅は機転の利く女だ。いざというときに備えて城の手の者を仕度しているが、先ずは夕菅に従うよう・・・・・・。時に、二日後、向坂慶四郎を正客とする茶会がある。向坂は治世に当たり重要な人物である。呉々も手を尽くすように。」
「有難く拝聴仕りました。」辰之丞は首肯した。――
程もなく、辰之丞は下城し、家老天内は、夕菅に構えを質した。
「辰之丞は、腕は確かな男だ。――しかし、向坂のことゆえ、明日は、何が起こるかわからぬ。寸刻も目を離さぬよう・・・・・・」
「確と承りました。」
「それから、姫様のことだが・・・・・・殿が、ご様子を気にかけておられる。細大漏らさず、内報するように念を押す。」
夕菅は、天内にひれ伏した。
――その二日後、地氏向坂慶四郎を正客とする茶会が七戸城にて催された。
辰之丞は早朝の刻限に登城した。七戸城は、茶室を北館の西端に設えていた。茶室はお稲姫の館と並んで位置し、その西北には、空堀を隔てて花畑の広がる西外郭が続いている。
暫時の後、辰之丞は本丸から北館にある茶室へと参じた。北館の茶室の前に立つと、空堀の向こう側を見渡した。西外郭はいつもと同じようであった。その時、お稲姫の館の戸が開き小鶴が現れた。小鶴は夏衣を着て、風呂敷き包みを一つ持っていた。
「お暑うございます・・・・・・お武家様、落し物でございます。」小鶴は辰之丞に寄った。
「かたじけなく存じます。」
巳の刻(午前十時頃)、向坂が登城した。向坂と従者は大手門から本丸に登り、城主七戸家国に謁見した。七戸の南一帯に所領を拡大した向坂は、この時七戸家国に与することを約した。
その後、昼飯を挟み、北館の茶室へと移った。この日の亭主は家老天内が勤めることになっていた。向坂一行は、先ず待合に通された、菓子は白と茶の駒饅頭。そして大広間に移動し、濃茶点前と続いた。家老天内は亭主の座から、典雅な振る舞いで茶を立てた。向坂は、如何にも地氏といった風貌である。
それから一向は、庭に出て、にじり口から四畳半の茶室に入り、両拳をついて家老天内へにじり寄った。薄茶点前・・・・・・青竹を模った飴が供された後、薄茶が正客の向坂から順に配された。黄菅が床に飾られている。向坂は漆で塗られた香合を手に取り、じっくりと見入っている。続いて、緑の地に琥珀の入った水差しと風炉釜を拝見し、大広間へ戻った。
初夏の茶は涼しく、北館には木立を縫った陽光が差していた。
――そうして膳部と酒が振舞われた。
お稲姫は長い廊下を抜け、大広間へ入った。絹布の振袖を着た姫は大層美しかった・・・・・・
家老天内と向坂は、杯を傾けながら天下の情勢を論じた。次第に一同に酔いがまわり、座が乱れた。向坂は当節頭角を現した利者だったが、悋気の激しい性格だった。その為か、家国の経世やその系譜についても矯激な言動が目立ち、黒白を弁ぜず、の感があった。向坂は杯を片手で持ち、お稲姫に厭がらせを云った。家老天内は、座を鎮めようと臣下の者を回し、手を配った。しかし、酩酊した向坂は止まらなかった。
――お稲姫はついに否を表した。
辰之丞は廊下で鯉口を切ったが、
「お茶会から連なる席でございます。」と、夕菅に身を張って止められた。
茶会が退けた・・・・・・向坂と従者は酔いの醒めない儘に城を下りた。虎口を出ると、一行は倉卒の間に殷賑の地へと消えていった。時は既に申の刻(午後四時頃)を過ぎていた。
お稲姫は館に帰ると、畳に蹲い、悲憤慷慨した。夕菅が見兼ねて姫に寄った。
「夕菅、今日はもう下がってもよい。」
「承知仕りました。」夕菅は仕方なく間を下がった。
それから程もなくして、お稲姫は辰之丞が小鶴に託した付け文を開けた。
文には、辰之丞が既に駿馬を手配し、明朝日の出を待って北館の館へ参上する旨、記されていた・・・・・・
陽は既に傾いていた。お稲姫は濡れ縁から館を出た。――
小径には、花畑の縁を流れる湧き水が静かな音を立てていた。せせらぎは澄み渡って、木立に入り、音を引きながら、谷あいへと流れた。――振り向くと、遠い山々が、薄暮の中に屹立している・・・・・・。
――お稲姫は眼をつぶり、山々に向ってそっと手を合わせた。
九
日は直に明けようとしていた。暁闇の中、辰之丞は身支度を整え、徳蔵の家を発った。
作田川を登り、南外郭の森に掛かる頃には空が薄っすらと白み始めていた。沢伝いに木立を抜けると、百日紅の花が未だ薄い陽に赤く映っていた。辰之丞は、龍笛を手に取った・・・・・・調べは少し涼しいほどの朝の風に密やかに響いた。――
風は館に流れ着いた。その音を聴いて、お稲姫は障子を開け、濡れ縁に出た。その刹那、夕菅が走り寄った。
「お稲様、なりませぬ。この夕菅が命を張って御止め申し上げます。」
「夕菅、これがお稲の最後の我儘です。」
「お目溢しは、出来ませぬ。」
辰之丞の背後に僅かな気配があった。いつのことだったか・・・・・・この場所で、同じようなものを感じた。それは、些細な気配であった。
辰之丞は、笛を奏でながら後方の気配から段々と左に流れた。なお、その気配は近寄ってくる。間合いを計り、目釘を湿し、花畑に一気に走り出た。次の瞬間、数人の黒装束が囲んだ。既に抜刀している。辰之丞は柄から刀を抜き、八双に構えた。
「何の意趣か?」辰之丞はももだちをとった。
一人が背後から、掛かって来た。一撃を外し、右袈裟に斬った。――敵は、二人、三人と嵩になってかかってくる。辰之丞はかろうじて斬捨てた。辰之丞の深い呼吸がゆっくりと流れた・・・・・・背後から四人目が襲い掛かってきた。一撃を柄で受け、体を突き飛ばした。相手は後ろに引き、今度はゆっくりと左右に動いた。辰之丞はこの動きに見覚えがあった・・・・・・直ぐに突きが来た。辰之丞は相手の空いた胴を払って進んだ。その刹那、どうしたことか、のけぞって朝焼けの空を見た・・・・・・花畑の中を小さい頃の想い出が走り去り、辰之丞の体はドサッと草叢に斃れた。
――懐には蛤の貝殻が一つ、入っていた。
夏が過ぎ、初秋の涼風が西外郭に吹いた。お稲姫は雨のしんしんと降る夜、白装束を身に纏い、北館の館を出た・・・・・・姫は草叢で、従容として毒を仰いだ。
白い杜鵑草の花が一輪、風に揺れていた。
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明けて、天正十六年(一五八八年)三月、南部信直は、津軽に大浦為信を討とうと、七戸家国、九戸政実らに出陣を命じ、自ら七戸城まで出向いたが、叛意が明らかになった。信直は、三戸城に帰城せざるを得ず、この為ついに津軽の独立を許した。
この頃、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻めるに当たり、奥州諸侯に対しても小田原参陣を促していた。南部信直は、八戸の根城南部氏とともに出陣し、天正十八年(一五九〇年)七月豊臣秀吉によって小田原城は落城した。
その後、秀吉は天下統一の総仕上げとして奥州征伐の大軍を派兵し、征伐軍は宇都宮に至り、次いで会津に進軍した。
翌十九年(一五九一年)元日、信直は三戸城で南部家の新年祝賀会を催したが、七戸家国、九戸政実をはじめとする十名の諸侯が欠席した。そして、九戸政実は同年三月挙兵した。七戸家国らも九戸政実に加担し、ここに九戸政実の乱が起こった。七戸周辺の有力地氏は七戸家国に党し、七戸、九戸勢は各地で優勢に戦いを進めた。この為、南部信直は止む無く豊臣秀吉に使者を送り、討伐を要請した。秀吉はとうとう豊臣秀次を総大将する奥州再仕置軍を発し、徳川家康の家臣井伊直政らを主力とする討伐軍が北へと進んだ。後に、津軽の独立を果たしたばかりの大浦為信らが参戦し、総勢十万の討伐軍は、九戸城を陥落させた。
同年九月、秀吉から九戸征伐の加勢を命じられた、越後宰相上杉景勝は七戸所領を急襲し、七戸城は落城した。
現在、国史跡七戸城趾七戸代官所跡北西の谷あいに、姫塚がある。
参考文献一 七戸町史一~四(七戸町史刊行委員会)
参考文献二 大学 (講談社学術文庫)宇野哲人訳