瞳の先に
誰かが言った。
この世界で一番空虚なものは争いだと。
人と人がぶつかり衝突しそして時には死ぬこともある。
それこそが全ての悪。
一方でまたとある誰かは争いこそ競い合いこそ正義だといった。
怒り悲しみそして憎しみ。
全ては絶えることのない永遠の争いなのである。
「おう、フォン起きたか」
サッカー選手並みの走行距離を走った翌日。朝起きると体の節々が痛かった。
「もう起きてんの? 早いね」
僕は目をこすりながら言った。
ここはベッドとテレビが置かれているくらいな簡素なホテル。値段も一泊あたり千円くらいでお得だ。
「今日はなんかする予定あんの?」
あくびをしながら僕は亮介に訊ねる。
「おーん。なんも決めてねーな」
走って疲れているはずなのに夜中まで酒を飲み騒いでいた亮介は、それでいて僕より朝起きるのが早かった。いつ睡眠をとっているのか、どこにそんな体力があるのか不思議でしょうがない。
そんな亮介はシャコシャコと歯磨きをしながら、
「なんか遺跡とかいきてーな。でっけー遺跡とか」
と、言う。基本的に僕たちの旅は適当だ。その日その日でやることを決める。ホーチミンに来たのも何か特別な理由があるわけではなかった。
外に出ると日差しが眩しかった。年中熱帯気候のホーチミンは雨季と乾季があるのみで気温はいつも三十度を越えている。そんな暑い国に2ヶ月もいるとそろそろ皮膚の色が焦げ茶色に変わりそうだった。
蟻の行列のようなホーチミンの車道を横目に朝の市街地を抜ける。鉄道や地下鉄が発達した今では昔に比べ地上の交通はだいぶマシになったと聞く。それでもその発展力と今やジャパンを追い抜きそうだという人口がこの交通量を生み出しているのだろう。
僕たちはサイゴン川沿いの道を歩く。コバルトブルーと白く澄んだ空は無邪気に僕に何かを語りかけてきそうだ。造船のドッグがぽつぽつと浮かび、開発途中のビルがいくつもあった。
この暑いベトナムの地で心地よい朝の河風がシルクの布のように優しく撫でてくれる。運動靴も地面にしっかりと馴染んでいた。
1960年代にこのベトナムで大規模な戦争があったと聞く。当時ソ連と呼ばれたロシアとアメリカの冷戦という余波がこのベトナムにも波及したらしい。
そんなことを微塵も感じさせないほどちょうど良い火照りとひんやりとした風がホーチミンの朝は提供してくれた。
話は変わるが、ここホーチミンはアメリカを退け北ベトナムの英雄と言われたホー・チ・ミンという人物からとってつけられた名前らしい。
敗れ去った南ベトナムの住民が当時どんな気持ちだったのか知らないが、少なくとも今の住民はホーチミンという言葉の響きに慣れ親しんでいることだろう。
北は首都で政治都市であるハノイと南は太平洋に面した港都市ホーチミンの二大都市がベトナムを引っ張っていることは戦後、変わっていない。
「さーて朝の散歩もこれくらいにして遺跡に向かうか……ん?」
散歩を切り上げようとした亮介が何かに気づく。
亮介の目線の先を見てみると昨日の盗人の少女がいた。
彼女は昨日と同じ服でサイゴン川を睨んでいた。叫ぶわけでもなくただじっとその瞳の先を見据えて。
「おい、盗人小僧」
亮介はなんの気張りもなく少女に話しかけた。あえて「boy」という表現を使うあたりが彼らしかった。
突然声をかけられた少女はびっくりしてこちらを向く。そして声の主が昨日の僕たちだとわかるとこちらをきっと睨んでその場を後にしようとした。
「おい、なんだよ逃げるのかよ」
亮介が彼女の背中に声をかけるが彼女はこちらを向かず歩いていく。
「待って」
今度は僕が彼女に声をかけた。
走って彼女に追いつき僕は自分のカバンから少女が忘れたナイフを取り出した。
「これ」
僕はナイフを彼女に差し出した。
「大事なものなんでしょ? 柄に君の名前みたいなものがついてるし」
彼女は一瞬、驚きそして少し安堵したような表情を見せた気がした。
「なに、本当か見せてみ?」
僕の肩口から亮介が顔を出す。すると少女は急いで僕の手からナイフを奪い、亮介の方を睨んだ。
「あんたたちあれどう思う」
ふと少女が声を漏らした。年相応の可愛らしい女性の声だった。
「あれって?」
僕は少女の見つめる先を見た。
「あの都市」
彼女がさしているのが川の向こう側の街のことだとようやく気付いた。
「4区のことか」
亮介が口を挟む。
僕たちが今いる1区からサイゴン川を挟んだ向こう側に位置する都市。
4区。
彼女がその都市を指して言っていることに僕は気づく。
「私あの都市大嫌い」
彼女は指差してそう言った。
「大嫌いってどういう?」
僕の質問に答えることなく彼女はそっぽを向いてどっかへ行った。
「かっ、なんだあの娘は。だいたいああいうやつがやれ痴漢だのやれセクハラだの言うようになるんだよ」
喚く亮介を傍らに僕は彼女の背中から目を離すことができなかった。




