7話
「ふはぁー、いい気持ち」
レーヌは乳白色の湯に浸かりながら、ふやけた声を出した。
アンセムが用意してくれた部屋は数十室にも及び、さらに驚くべきことにどれも内装が違っていた。レーヌはその中でも比較的質素な部屋を選んだが、それでも驚くほど豪華だった。惜しげなく装飾が施された調度品の数々。
ベッドはふかふかで、掛け布団も羽毛のような軽さだった。
湯殿も磨き上げられた大理石が大変美しく、浴槽もそれに負けず劣らず豪華だった。もはやレーヌの語彙では表現が不可能なほどである。
部屋のものは汚しても壊してもかまわないとアンセムに言われているが、流石にそんなことは出来ない。そう思ったレーヌは最初こそ戦々恐々としていたが、風呂のあまりの気持ちよさについつい気が緩んでいる。
レーヌは浴槽のヘリに持たれかけ一息ついた。すると張り詰めていた気持ちが決壊したかのように、大粒の涙が彼女の頬を伝う。
1日であまりにも沢山の体験をしたレーヌは、綯交ぜの感情を上手く処理できずにいた。母親のこと、これからのこと、そして今日出会ったアンセムのこと。暫くの間、レーヌは天井を眺めながら様々な考え事をしていた。
※
風呂から上がったレーヌは、衣装箪笥の前で唸っていた。
衣装箪笥には女性物の衣類が大量にしまわれていた。フリルの付いた可愛いものから王族が着用するような豪奢なドレスまで、様々な衣装が入っている。
アンセムから好きなものを着ていいと言われているが、どれも素敵でつい目移りしてしまう。
(それにしてもどうしてこんなに女性用の衣類が? まさか、アンセム様が着るための物じゃないよね?)
それらの衣装を着たアンセムを想像し、レーヌは思わず眉をしかめる。
(バカなこと考えていないで、早く服を着ないと)
レーヌは程よいフリルの付いた純白のワンピースを手に取った。
何の素材でできているのかは分からないが、スベスベとした質感はとても肌触りがよかった。彼女が普段来ていた麻の服とは雲泥の差であった。
モコモコとした薄いピンクの肩掛けをはおり、ふかふかのベッドに腰掛ける。「まるでお姫様になったみたい」とレーヌはご満悦だった。
レーヌが寛いでいると、ドアをノックする音が聞こえた。
「レーヌ、まだ起きているか?」
声の主は考えるまでもなくアンセムだった。レーヌは「はい」と返事をして扉に近づき、鍵を開ける。扉を開くと白地のシャツにゆったりとしたズボンというラフな格好をしたアンセムが立っていた。
「突然悪いな。少し聞きたいことがあってな」
「聞きたいことですか?」とレーヌがオウム返しをすると、アンセムは「ああ」と頷きながらレーヌに訪ねた。
「犬と猫、どちらが好きだ?」
予想外の質問にキョトンとするレーヌ。戸惑いながら「どちらかと言えば猫です」と彼女が答えると、アンセムは「そうか」と頷いた。
「召喚、『ノルウェージャン・フォレストキャット』」
アンセムが唱えると、床に一匹の猫が出現した。
呼び出された猫の体毛はフサフサでモフモフだった。頭部と背は灰色の縞模様で、口元から腹にかけては真っ白だ。青い瞳はサファイアのようであり、ピンク色の鼻先が何とも愛らしかった。
「きゃあああああああああ!(鼻血)」
レーヌは呼び出された猫のあまりの可愛さに、声を上げながら抱き上げた。猫は嫌がる素振りも見せず、レーヌに頬ずりをしている。
(どうやら喜んでもらえたようだな。あと、この世界にも猫がいてよかった)
レーヌの様子を見て、アンセムも頬を緩める。
アンセムが召喚したこの猫は、『アニマル・コンパニオン』というMODで導入したものだ。これは数百種類の動物を追加するMODで、キツネやオオカミ、果ては孔雀まで召喚できる。
猫だけでも数十種類おり、ちゃんと現実の品種をもとに作られていた。製作者の謎のこだわりが光るMODだ。
ちなみに戦闘能力は皆無で、ただ居るだけである。
「その猫をレーヌにあげよう。外は危険だろうから、今の所はこの屋敷内でしか飼えないけどな」
「ありがとうございます!! 大事にします!!!」
レーヌは花が咲いたような満面の笑みで礼を述べる。「それではな」と言って、アンセムはその場を後にする。
レーヌは猫を抱きかかえたままベッドへ移動し、フカフカとモフモフとモコモコに包まれながら眠りについた。
※
レーヌが風呂に入っていた頃、アンセムも自室で風呂に浸かっていた。
アンセムは「あー」とおっさん臭い声を上げながら、顔にもお湯をかけた。揺らめく湯を眺めながら、ぼんやりと物思いに耽る。
一体この世界は何なのか。なぜ、自分はアンセムの姿になったのか。様々な考えがアンセムの思考を揺らす。だがどれも、自身で答えを出せるようなものではないと彼は感じていた。ならば、自分は一体何をしたいのだろうか。
『ここじゃないどこかへ行きたかった』
日本でサラリーマンをしていた頃、佐藤が頻繁に感じていたことだ。
大学の就活時に就職氷河期が重なり、佐藤が入社できたのはブラック企業だった。
午後7時に勤怠を切るが、退社するのはいつも終電間際。酷いときは終電に間に合わずにネカフェで寝泊まり。
サービス出勤も当たり前で、完全な休みは月に2日も無かった。
心が摩耗していくのを自覚しながら過ごす日々の中で、佐藤が気晴らしにとプレイしたのがトワイライトだ。
こことは違う世界が、そこにあった。
美しいグラフィックで表現された大自然。そこで生活する多種多様な種族。作り込まれた歴史や神話。そこは確かに一つの世界だった。
佐藤はトワイライトにのめり込んでいった。
仕事が忙しいため日に何時間もプレイすることはできなかったが、睡眠時間を削ってゲームに没頭していた。
MODの存在を知ってからはさらに熱中した。そこまでPCに詳しかったわけではないが、いろいろなサイトを巡り導入方法を学んでいった。複雑で難しい作業もあったが、それすらも楽しかった。
気がつけば5年もの間このゲームの虜だった。トワイライトをプレイしている間だけは、嫌なことを忘れられたのだ。
そして佐藤は新たな思いを抱いた。
こんな美しい世界を、この目で実際に見たいと。鬱屈とした生活をおくる中で、その欲求は日に日に高まっていった。
その願いは、不意に叶うことになった。それも自分が大好きだったゲームのキャラクターとなり、あまつさえその装備やアイテムを使える状態で。ならばこの先、自分がやりたいことは何なのか。
今後について思いを馳せながら、アンセムは更なる思考の海へと沈んでいった。
※
風呂を出たアンセムは、『アニマル・コンパニオン』を使用してハスキー犬を呼び出していた。
問題なく召喚できたことを確認し、更に安全性の確認も取っていた。安全性の確認を行ったのは、レーヌに動物をあてがうためである。
レーヌは母親の死を二度も経験している。
大切な者を失う悲しみは、簡単に癒えるものではない。そこでアンセムが考えついたのが、アニマルセラピーだ。
彼女の心の隙間を少しでも埋めることができれば。そんな思いから、アンセムはこの方法を思いついたのだ。
アンセムは、今のところレーヌを手放す気はなかった。それは彼女を自分の女にするといった意味ではない。
レーヌは、アンセムの力を目の当たりにしている。
アンセムの戦力についてどう捉えているかは不明であったが、魔法やMODの力は、彼女の反応を見る限り常識から外れたものであることは確実だ。その情報がレーヌから流出するのを防ぎたかったのだ。アンセムの力を知った第三者が、レーヌに危害を加える可能性もある。
(それに、俺だけがこの世界に来たとも言い切れない)
アンセムはDemi-god-Type23というMOD製作者が作った、『Otherworldly(異世界)』というMODを導入したことが、この世界に来た直接の要因ではないかと考えていた。
無論確証はないが、それが事実だとすれば不特定多数の人間が自分と同じような状態でこの世界に来たことになる。
佐藤がこのMODをダウンロードした際、ダウンロード者数は13人だった。ならば最低でも13人は自分の様なプレイヤーが存在するものとして行動した方がいいだろう。
(共生できるならばそれでいいが、敵対した場合に俺の情報を持っているレーヌの存在は足枷となりかねない)
それらを回避するための施策が、『マイルーム・エブリデイ』と『アニマル・コンパニオン』である。早い話が、「自分と一緒にいると、こんなにいいことがありますよ」というメリットを分かりやすく提示したのだ。
もっともレーヌの心の傷を癒やしてやりたい気持ちや、同情心は多分にある。
レーヌの遠慮がちで慎ましい性格も好ましいものだ。それでも、それを素直に吐露できるほどの純真さはアンセムには残っていなかった。物事のリスクヘッジを考え、自身の益を考えてしまうのが社会人という悲しい生き物だった。