1話
眼前に広がっていたのは一面の銀世界。
雪深い森の中、彼は独り佇んでいた。辺りは枯れ木に囲まれ、純白の雪が絨毯のように地表を覆っている。大粒の雪が遠景を遮り、灰色の雲が空に蓋をしていた。
佐藤は状況が飲み込めず、ただただ呆然としていた。
(自室にいた俺が一瞬で雪深い森の中に移動するなど、常識的にありえない。これは夢なのか? ……いや、それはないか。実際に今感じているこの寒さが、夢だとはとても思えない)
あまりの寒さに、佐藤は無意識に己の腕を組む。
すると金属がぶつかり合うような甲高い音が響いた。ギョッとした表情を浮かべながら彼は音源へと目を向ける。
佐藤の腕が白銀の鎧に覆われていた。
「は?」
彼は思わずマヌケな声を上げた。
よく見れば、佐藤は部屋着ではなく全身フルプレートの鎧を着ていた。いたるところに天使の装飾が施された白銀の西洋甲冑。
腰には過剰装飾と呼べるほどの豪奢な剣。倒れていた側には呆れるほどに分厚く大きな盾。
どれもこれも、まるでゲームや漫画から飛び出し来てきたような、やや現実感のないものだった。いや「飛び出してきたような」は少し語弊があるかもしれない。実際にこれは飛び出してきているのだ。トワイライトという、彼がプレイしていたゲームから。
――――聖騎士、アンセム。
佐藤がトワイライトで使用していたキャラクターの名だ。
今彼が身にまとっている鎧は、そのアンセムに装備させていた「聖王騎士の鎧」そのものだった。彼のお気に入りのデザインで、何年もアンセムに着せていた装備だ。そんな彼が間違えるわけがない。たとえそれが、自分自身が着込んでいたのだとしても。
「そんな……まさか」
(自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。ゲームのやり過ぎだと。ついにゲームと現実の区別もつかなくなってしまったのかと)
だが確認しない訳にはいかない。佐藤は盾についた霜を払い除け、鏡面反射を利用して自身の顔を確認する。
「……マジかよ」
(間違いない。俺がトワイライトで作ったプレイヤーキャラクター、アンセムだ)
佐藤はあまりにも常識外れの事態に直面し、またも呆然とした。
※
――深い森を少女が走る。
白い息を切らせながらも懸命に。ただひたすらに何かから逃げる。だが、それは叶わない。
少女を取り囲むように、それらは現れた。
白銀の毛皮に身を包んだ8匹の狼。
狼達は少女を取り囲み、徐々に包囲を狭めていく。少女はついに立ち止まり、己の運命を幻視する。
「……いや、嫌だ。誰か……お母さん」
少女は幼子のように泣きながら、この場にいない母親を呼ぶ。だが、母親が来ることはない。それは少女も充分に理解していた。
血に塗れた狼達の牙が、母親の末路を雄弁に物語っていたからだ。
少女にはあまりにつらい現実だった。少なくとも、自暴自棄になる程度には。
「……もう、いいや」
少女は生きることを投げ出した。
涙を浮かべ、己の運命を受け入れる。
瞼の裏に映るのは、母親との淡い思い出。貧しいながらも懸命に働き、自分を育ててくれた母親。今日も大好きな母親と夕餉を共にし、ささやかだが幸せな時間を過ごすはずだった。だが、もうそんな日々は帰ってこない。ならばいっそ、ここで。
そんな思いで己が死を待つ。だが、いつまで待っても狼達は襲ってくる気配がない。
不審に思い少女が目を開くと、1人の男性が彼女を護るように立っていた。
男は少女と比べてあまりにも巨大だった。腕など少女の胴よりも太い。少女に背を向けマントをはためかすその姿は、神話の中の英雄のように思えた。
いつの間に狼達と自分の前に割り込んだのか。混乱する少女を他所に、男は狼達を見据えたまま声をかける。
「あー、一応聞くけどコイツラに襲われているってことでいいんだよな? 君のペットとかじゃないよな?」
荒々しいが、どこか優しい声音だった。
少女は何を言っているんだろうかと一瞬戸惑ったが、すぐに思い至る。少女は見たことがなかったが、大きな街や王都には『ビースト・テイマー/獣使い』なる者たちがいることを。彼はきっとそのことを憂慮していたのだと。
「ちっ、違います! 襲われています! お願いします、助けて……」
少女は必死に、そして簡潔に己の状況を叫ぶ。暗闇に射した、僅かな光に縋るように。
「……わかった」
男は短く少女の懇願に答え、腰に差した剣を振り抜く。その剣は少女が見たこともないほど美しく、また豪奢だった。精緻な装飾を施されたその剣は、売れば城の一つも建てられそうなほどだ。
少女は自身の状況も忘れ、その剣に魅入ってしまっていた。
《ホロウ・サークル/清浄の輪》
男が唱えると、少女の周囲を円形の光が包む。
「その中にいれば、ひとまずは安全だ」
男はそう言って、狼達に向かって駆け出す。
《ヴァリアント・ストライク/勇士の撃》
剣を掲げた瞬間、男の体が赤く煌く。発動を確認し、男はすぐさま次の行動に移る。
《アーキング・スマイト/弧の一撃》
白銀一線。
男が持つ剣が振り抜かれた瞬間、2匹の狼の首が飛んだ。瞬間男は身を翻し、残りの狼に襲いかかる。あの巨体のどこにそんな俊敏性があったのか。少女は唖然としながら戦いを見守る。
《神の怒り/ラス・オブ・ザ・ゴッド》
白銀の剣が紅蓮に染まる。男が剣を振りかぶると、爆炎を上げ狼達に襲いかかる。狼達の本能は警鐘を鳴らし、慌てて逃げ出そうとするがもう遅い。津波のような炎が、全ての狼を飲み込んでいく。
そこにはもう何もなかった。
狼達は骨だけとなり、木樹も根本を残し消し飛んでいる。雪に埋もれていた地面は剥げ落ち、黒い土がめくり上がっていた。
そのあまりの惨状に、少女はぽかんと口を開け呆然としている。
「……このランクのスキルでも倒せるのか。一体どこまで落とせば程々になるんだ……」
男は周囲を見渡し、愕然としながら呟いた。
小さな呟きではあったが、少女の耳にはしっかりと届いてしまった。そしてこの言葉に、彼女は身を震わせる。
スキルについてはよくわからないが、あれで手加減していたことだけは伝わった。
自分など赤子をひねるよりも簡単に殺せる存在。狼達より余程怖かった。自分を助けてくれたのだって、もしかしたら無傷で奴隷に売り飛ばす心算だったのかもしれない。疑心が猜疑を産み、少女の心を蝕んでいく。
「……怪我はないか?」
男が少女に問いかける。だが少女はそれに答えることが出来なかった。心が恐怖に染め上げられ、息をするのも忘れそうになる。
男の顔はそれほどに凶悪な顔をしていた。
鬼のような形相を浮かべたスキンヘッドの男。血のように赤い双眸を爛々と輝かせ、額から右目にかけての大きな爪痕がある。
豪奢な白銀の鎧を身に着けていなければ、山賊か盗賊にしか見えなかっただろう。
少女は必死に自分の考えを改める。命の恩人になんてことを考えているのかと。だが、一度芽生えた恐怖心を払拭するのは簡単ではなかった。
「あー、やっぱりそんな反応か。まぁ予想はしていたけど、少し堪えるな」
男は悲しそうに眉根をひそめる。だがそれすらも、睨みつけているような顔になり、少女の恐怖心を煽っていく。
「悪かったな。怖い思いをさせた」
男は踵を返し、その場から立ち去ろうとする。
(いけない。このままじゃ……)
自分はとんだ恥知らずだ。命の恩人を疑い、礼も言えないなんて、そんなことは死ぬことよりも耐えられない。
先程芽生えた恐怖と猜疑を無理矢理飲み込み、少女は手を握りしめる。
「たす……助けて頂き、ありがとうございました。何か、何かお礼をさせてください。何も持ってない小娘ですが、奴隷に身を落としてお金を作ることなら出来ます。どうか……」
一度生きることを諦めた少女は懸命に考える。
絶体絶命に陥った刹那、彼女は確かに自覚していた。自分の心の片隅に、生きたいという意思があったことを。そして少女は生かされた。ならばその対価はなんだ。
自分の命の対価が安いものであってはならない。それは、最も自分の命を貶めることになるのだから。母親が懸命に守ってくれた、この命を。先程は恐れたが、彼が望むなら奴隷落ちしても仕方がないことなのだ。少女はそう考え、真摯に頭を下げる。
「……頭を上げてくれ。それに奴隷なんてならなくていい。助けた意味が無くなりそうだ」
男は苦笑いを浮かべながら、できるだけ優しく少女に声をかける。
「ですが……」
少女はなおも食い下がるが、男はそれを手で静止する。
「今はとりあえずこの森から出ることを先に考えよう。出口は分かるか? 恥ずかしい話だが、道に迷ってしまってな」
「正確な道順はわかりませんが、大まかな方角ならわかります。街道に出れば何とかなると思います。それから、私の名前はレーヌと言います。よろしければお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、悪い。そういえば名乗るのを忘れていたな。俺はサト……いや、アンセム。アンセムだ」