13話
アンセムが退室した後、残されたレーヌは漠然とした不安にかられていた。
彼が奴隷を買うと言ってから、ずっと抱えていた不安。その感情の名を、彼女はまだ知らない。
それは独占欲という名の小さな棘だった。或いは依存と言い変えることも出来る。
全てを亡くした少女。そこに現れた、居場所をくれた人。分かりにくいが、彼のちょっとした気遣いに触れるたび大きくなっていくその感情は、この上なくレーヌを不安にさせた。
父を知らぬ少女の父性への憧れか、それとも淡い恋心か。それは本人でさえあずかり知らぬ事であった。
並べられた奴隷の中には、自分よりも綺麗だと思える者もいた。それがレーヌの焦りを加速させる。初めて自覚した自身の醜い感情に、レーヌは嫌悪感を覚える。
「待たせて悪いな」
そうこうしている内にアンセムが老人を引き連れて戻ってきた。
「ロイス殿、彼を雇うことにした。言い値で買い取ろう」
開口一番、アンセムは奴隷商館の館長であるロイスに言った。ロイスは顔を綻ばせながら、手下に指示を出す。他の若い人材ならともかく、彼を売るのを半ば諦めていたロイスにとっては僥倖だった。彼の中でアンセムの評価はうなぎ登りである。
「他の者についてはいかが致しましょう? 調理経験者をご希望とのことでしたが」
「悪いがそれに関しては日を改めたい。少しばかり急用を思い出してな。そうだ、後日私が簡単な食材を持ち込んで、それぞれに料理を作らせた上で判断するというのは可能か?」
少し焦っているようなアンセムの態度をレーヌは不思議に思ったが、話を遮るわけにもいかないので押し黙っていた。
「可能でございますとも。調理場の方はこちらで提供させていただきます」
ロイスはアンセムの提案に内心で歓喜の声を上げた。この方法ならば、他の顧客に対しての売り込みに使える。商人として、思いつけなかったことに対しての悔しさはあるが、それ以上の喜びがあった。
銀行員のアブロンが「絶対に逃してはならない上客」と手紙に記載した意味を、ロイスはようやく理解した。
「それでは、彼の手続きを頼む」
「畏まりました」
ロイスとのやり取りを横目に、レーヌは女性の奴隷を雇用しないアンセムを見て安堵の表情を浮かべていた。
※
「それでは、こちらの皿に血を一滴垂らしてください」
ロイスはそう言って、小皿とナイフをアンセムに差し出した。
「これは『血の盟約』と呼ばれる魔法儀式に用います。主人となる人間の血を媒介に、奴隷契約を結ぶのです。奴隷は登録された血が流れる人間に対して反抗できなくなります。ただ奴隷の扱いに関しては法で定められておりますので、無碍な扱いはご法度となっております。男性をお買上げとなったアンセム様にはあまり関係ないことかもしれませんが、我が社も国営ですので一応の注意とさせていただきます」
「了解した。早速はじめてくれ」
アンセムは人差し指をナイフで切りつけ血を垂らす。ロイスの後ろに控えていたローブの男がそれを受け取り、ルシウスの元へと向かう。
ルシウスが右腕の袖を捲り、ローブの男がそこにアンセムの血を垂らす。ローブの男が呪文を唱えると、血がまるで生き物の様に動き出し、肌に染み込んだ。
ルシウスの腕にトライバル柄のような呪文が浮き出したのを確認し、ロイスが口を開いた。
「これにて『血の盟約』の儀式は終了となります。後は証書を発行すれば奴隷契約完了となります。合わせて奴隷所持規約をお渡ししますのでご一読ください」
数時間後、手続きをすべて終え、アンセムたちは商館の敷地を出た。
「これはこれは、随分と立派な馬車でございますね。それに騎士たちも立派な鎧を装備しておられる」
ルシウスが興味深そうにアンセムの馬車を見る。アンセムは「いいから行くぞ」と彼を促しレーヌと共に馬車へと乗り込んだ。
ユニコーンが嘶き、3人を乗せた馬車が動き出す。ちなみに御者はアンセムが召喚した騎士が務めている。街に到着したばかりの頃はアンセムが口頭で方向指示を出していたが、今は目的地を言うだけで自動送迎してくれる。便利なものである。
「さて、ルシウス。彼女はレーヌだ。私のメイドをしてくれている」
「よろしくお願いします。レーヌです」
「これはご丁寧に。この度アンセム様に雇って頂いたルシウスと申します。以後お見知りおきを」
「紹介も済んだな。ルシウスには今後執事として働いてもらう。まずは従僕として働きぶりを見るべきとの進言がルシウスから上がったが、彼は経験豊富だ。2代に渡り貴族に仕えた実績がある。執事の地位で問題ないだろうと判断した。レーヌは彼の元でメイドの経験を積むといい」
執事や従僕は家事使用人の職種の一つだ。従僕は客室係と同じく下級の男性使用人のことを差し、執事はそれらを総括する役割を持つ。その上には家令があり、主に屋敷内の執政を行う。とは言えアンセム邸には男性使用人がルシウスしかいないので、区分にあまり意味はない。
「よろしくお願い致します、ルシウス様」
レーヌはそう言って恭しく頭を下げる。雇用主ではない、直属の上司を前に緊張しているようだった。
「こちらこそよろしく、レーヌ。とは言えアンセム様との付き合いはレーヌの方が長いので、頼らせてもらうこともあるかともいます。その時はお願いしますね」
ルシウスはそう言って優しく微笑んだ。レーヌは優しそうな人が上司でよかったと胸を撫で下ろすが、次の瞬間アンセムが爆弾を投下した。
「ちなみにルシウスは吸血鬼だ」
「はへ?」
アンセムの言葉を理解できずレーヌがマヌケな声を出した。レーヌがルシウスの顔を見ると「本当ですよ」と言って、またしても微笑んだ。先ほどと同じ笑みであったが、レーヌは空恐ろしくなりアンセムの腕にしがみつく。
「一応、俺の魔法とアイテムで能力を縛っているから大丈夫だ。とは言えそれだけでは不安だからな。レーヌにも防御の魔法がかかったアイテムを装備させるつもりだ」
アンセムの言を聞き、レーヌは安堵する。
アンセムはルシウスと別室で話した時、雇用の条件として吸血鬼の能力を縛る契約をしていたのだ。当初ルシウスの雇用を躊躇していたアンセムだったが、結果的には彼を雇うことに決めた。ルシウスが自身の持つ膨大な知識を交渉のカードに据えたのが大きかった。
彼に提示された知識の源泉は、それほどまでに魅力的だったのだ。
「それにしても、アンセム様は随分と用心深いですな。誠心誠意仕えると申し上げましたのに」
「それを素直に信じるほど、人間が出来ていないんでな。それに用心に関してはむしろ足りないくらいだと思っている。なんせ得体の知れない吸血鬼を不用意に雇い入れたのだからな」
「それはそれは。精々寝首を掻かれないよう、気をつけてくださいませ」
「狸爺が。言われんでも対策はする。で、どうなんだ?」
「と、言いますと?」
「恍けるな。あの『血の盟約』とか言う奴隷魔法のことだ。あれは吸血鬼に効果があるのか?」
「まさか。『血』と『契約』は吸血鬼の本文です。あの程度の魔法で縛ろうなど片腹痛いですな」
言いながらルシウスが右手を突き出すと、先程施されたトライバル柄の契約紋がウネウネと動き出す。ミミズのようにのたうち回り、しばらく動くと元の刺青に戻った。
「それに比べ、アンセム様の魔法は素晴らしいですな。吸血鬼としての力が全く出せませぬ」
「ブラフじゃないだろうな?」
「さて、どうでしょうか」
「よし、制限魔法と従属魔法も追加だ」
「これは失策でしたな。はっはっは」
「アンセム様、とても楽しそうですね」
レーヌがアンセムの顔を見上げながら笑顔で言った。アンセムは不意に放たれたレーヌの言葉に、照れくさそうに頬を掻く。
そうなのだ。ごちゃごちゃと雇う理由こねくり回してみたところで何の事はない。単純にアンセムが彼を気に入ってしまっただけなのだ。
かつて闇を統べた吸血鬼の老執事、その有り様に。
無論、ルシウスの言葉を全て信じてはいなかったが、信頼を置くのも時間の問題だろうとアンセムは感じていた。
「なんにせよ、雇った以上は契約を果たせよ? 高かったんだからな」
「勿論ですとも。血と契約は吸血鬼の本文。違えることは決してございません。最も、主人が死ぬまでは、ですが」
「一言多いんだよ」
「くすっ」
朗らかな笑いを乗せ、雪がちらつく蒼天の下を馬車が駆ける。冬はまだ始まったばかりで、雪解けの季節は未だ遠い。