記憶喪失
シンプルなベッドと、その横に置かれた小さな机しかない殺風景な部屋で、男が目覚める。
男は無機質な灰色の天井をしばし眺めた。
なんの気無しに起き上がろうとすると、思わず声をあげたくなるような痛みが、男の胸から全身に奔った。
突然の痛みと、得体の知れない不安が、男を混乱させる。同時に、ここはどこなのか? なぜ知らない場所にいるのか? 自分は何をしていたのか? 数え切れない疑問が、男の頭を駆け巡る。
男の体の痛みが引いた頃、部屋の扉が開き、お盆を持った金髪の少女が入ってきた。
男はなんとか首だけを動かして、音のした方向を向いた。
「あ! 目が覚めたんですね! よかったあ……」
少女は安堵の表情を浮かべ、ベッドに近づき、お盆から水が入ったグラスを取り上げて机に置くと、男に向かって自己紹介を始めた。
「私はアルテイシア。ユーリ・アルテイシアといいます。街で倒れていたあなたを、ここへ運びました。今まで半日は目を覚まさなかったので、心配でしたよ。余程、疲れていたんですね」
「……倒れて……いた……?」
アルテイシアの言葉に、男は違和感を感じた。自分が倒れた記憶などなかったし、それ以前何をしていたかも憶えていなかったからだ。
「ええ。他の方々が何かを避けるようにして歩いていたので近寄ってみたら、あなたが倒れていたんです。ボロボロの格好で」
そう言われた男は布団に隠れた自分の体を見ようとしたが、腕に力が入らず、諦めた。
察したアルテイシアが、服は父が着替えさせたと教えた。
「あ、そうだ。父を呼んできますね。少し待っていてください。あと、飲めそうだったらお水を飲んでくださいね」
そう言うと、アルテイシアは部屋を去っていった。
男は傍のグラスを取ろうとしたが、やはり腕に力が入らなかった。
自分を救ってくれたというアルテイシアに感謝の意を感じつつ、彼女の話を振り返って、男は更に混乱した。
昨日今日のことだけではない。男は″何も″憶えていないように感じていた。
少しして、アルテイシアとやつれた男が部屋に入ってきた。
「目を覚ましたんだね。娘から話は聞いたよ」
やつれた男はベッドに近づき、穏やかな表情を浮かべた。
そして思い出したように、自己紹介をした。
「申し遅れた。私はユーリ・アビゲイル。アルテイシアの父で、この施設の責任者だ」
「……施設……?家じゃないのか……?」
アビゲイルは苦笑いをした。
「ははは。まあ、施設と言うより、仕事場兼自宅だね」
そう言うとアビゲイルは、少し間を置いて、真剣な顔をして男に尋ねる。
「では今度は君のことを教えてくれ」
男は素直に自分の名前を言おうとした。が、言えなかった。ど忘れなどとは違うと、男ははっきり感じた。気味の悪い感覚を味わい、男は絞り出すようにして、わからないとだけ答えた。
「……他に何か、わかることはないかね?自分のことについて」
アビゲイルの再度の質問に、男はわからないとしか答えられなかった。嘘偽りなく、彼は自分のことを何も知らなかった。
記憶喪失。それが男の感じていた不安の原因だった。
「……ねえ、お父さん」
「……」
アルテイシアの言わんとしていることが、アビゲイルにはわかっていた。彼女は目の前で困っている人を見捨てられないと知っていたからだ。
「……少し、娘と席を外していいかな?」
深妙な面持ちで、アビゲイルは男に尋ねた。
「ああ。構わない……」
男はそう答えると、2人が部屋を出て扉を閉めるのを見送った。