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After the rain

作者: 服部有紀

辛いことがあったとき、友達にかけてもらった言葉を思い出して書きたくなりました。

 「雨、止まないかな」

 明け方から降り出した雨が真っ黒い積乱雲とともにしつこくいすわっている。梅雨だから仕方がないのはわかっているが、こうも雨ばかりだとさすがに鬱陶しい。

 退屈で気だるげな空気が蔓延した五時間目の教室は、睡魔を誘うと評判の先生のせいでクラス中が催眠術にかかったようなひどい有様だ。

 黒板にいやがらせとしか考えられないほどびっしり書き込まれた白い文字がかすむ。もはやノートをとる気力すらなくなったわたしは霧雨にけぶる窓の外に視線を移した。

 青々とした葉を茂らせた湯地山の麓にあるこの高校の校舎は半分が森にのみ込まれていると言っても過言ではない。たった二年在籍していただけなのに年々緑に浸食されているようにしか見えないのだ。まぁ、それはそれで綺麗なのだけど、虫の多さには大半の生徒が被害を受けている。梅雨が明ければ例の吸血虫が大量発生することを思い出して辟易した。

 胸の中にわだかまったジメジメした何かを吐き出すようにため息をつく。

 それでも期待していたような効果が得られなかったことにがっかりして、仕方がなしに黒板の文字と格闘することを決意した。


 「ガタンッ!」

 

 「えっ、何?」

 金属製のパイプ椅子が派手にひっくり返る耳障りな音が静寂を乱す。

 「うわっ」という悲鳴とともに立ち上がったのは九賀尚人だった。授業中に発言することはおろか、普段から大人しいイメージの男子なのにいきなりどうしたんだろう。

 「何やってんだ、九賀。さっさと座れ」

 授業の邪魔だとばかりに迷惑そうな顔をした先生が一喝した。いつも教科書を黒板に写すことしかしなくせに偉そうな奴。

 九賀くんは立ち上がったまま茫然として微動だにしない。まるで何かに魅入られてしまったように。しかしその顔には明らかに隠しきれない恐怖の色が浮かんでいた。

 最初は不思議そうに注目していた生徒たちの目の色が変わる。警戒から嘲笑へに転じるさまはとても鮮やかで、不快。

 どう考えても様子がおかしい。何故誰もそのことに気がつかないんだろう。目は虚ろだし、顔色は最悪だ。嗤うより、叱るより先に心配するものじゃないの?

 「おいっ、こら!九賀っ」

 次の瞬間、九賀くんは逃げるように教室を飛び出した。

 さすがに顔色を変えた先生が慌てて呼びとめるのもまるで聞いていない。

 「様子見てきます」

 わたしも立ち上がり、騒然とした教室を抜けだした。


 九賀くんを追って冷たい蛍光灯に照らされた校内を走り回っているうちに、今は立ち入り禁止になっている木造の旧校舎にたどり着いた。

 勝手に自生している風船葛フウセンカズラの蔦に覆われた長い渡り廊下が、降りつける雨風に抵抗するようにギシギシと不気味な音を奏でている。

 緑と灰色の景色の中に九賀くんはいた。走り疲れたのか、渡り廊下の半ばで突然膝から崩れ落ちた。

 

 「九賀くんっ!」

 

 自分の身体を抱くようにして震えている九賀くんがギョッとして振り返った。


 「葉山さん?」


 九賀くんはとても慎重に、まるで何かを確かめるようにわたしの名前を口にする。

 

 「本当に、そこにいるの?」

 「大丈夫、わたしここにいるよ」

 わたしはゆっくり九賀くんに近づいてその傍らに膝をついた。

 「大丈夫だから、落ち着いて?」

 そう言って、九賀くんの細い肩にそっと触れる。哀しいくらに浮き出た鎖骨の感触にドキッとした。蒼白な肌に嫌な汗をかいている。

 不意にその手を九賀くんに掴まれた。骨ばった大きな手が痛いくらいにわたしの手を握る。

 「い、痛いよ」

 「あっ、ごめん」

 九賀くんはハッとしてすぐにその手を離した。

 「ダメだよ、葉山さん。何で追いかけてきたりしたの。せっかく教室から俺がおびき寄せて出てきたのに……、ここも危ない。逃げよう、葉山さんっ」

 九賀くんの苦しげな顔にジリジリとした強い焦燥が滲む。

 恐ろしい何かから逃げようとする九賀くんの手を今度はわたしが引きとめた。全然力を入れていなかったのに九賀くんは呆気なく体勢を崩してしまう。

 

「九賀くん、聞いて。九賀くんを追ってきたモノはもういないよ。大丈夫だから急に立ち上がったらだめ」

 症状からして軽い貧血を起こしているみたいだ。フラフラ歩いて転びでもしたら大変とわたしは九賀くんを支えて雨の当たらない旧校舎の入り口へ移動した。

 

 「葉山さん、にも視えてるの?」

 九賀くんは恐怖から解放されて少し落ち着いたのか、おそるおそるわたしに尋ねた。

 「うん。でも九賀くんみたいにはっきり視えているわけじゃない。わたしにわかるのは嫌な気配とうっすらした影だけなの。教室にいるのは気がついてたけど、九賀くんを追ってそいつが出て行ったから気になってわたしも来ちゃった」

 わたしは少し笑ってみせた。そんなことで気が晴れるとは思えないけど、何とはなしに九賀くんが気まずそうだったからだ。

 「そっか、なんか心配かけてごめん」

 「うんん、お節介だったらこちらこそごめんなさい。そういうところって人に見られたくないよね、普通」

 「あんなにはっきり視えたのははじめてだったから。葉山さんが来てくれなかったらちょっとヤバかったかもしれない。俺も最初は気配とか影とかしか視えなかったんだけど、嫌どころじゃなかったよ。女の人の姿をしていたんだ。もう生きてはいない人なんだと思う。身体の状態が直視できないくらいひどかった……」

 九賀くんは忘れたい記憶を一気に吐き出すように必死に言葉を紡いでいた。そうすることでその女性の姿が蘇ったのか苦しそうに目を閉じて口元を押さえる。

 「あ、あの人。子どもを探してたんだ。きっと、俺のこと自分の子どもだと勘違いしてたんだと思う。すごく、哀しくて哀しくてどうしようにもなかったんだ。なのに、俺怖がって逃げて、情けないくて自分が嫌になる」

 ああ、そっか。九賀くんはすごく優しい人なんだ。

 危うい、ほんの些細なきっかけで壊れてしまいそうな横顔。

 亡くなった人に同調しすぎるのはあまりよくない。今の九賀くんはとくに。


 「無理に話すことないよ。そういうことはね、真正面から受け止めようとしたら辛いでしょ。九賀くんは優しいすぎるんだよ。見たくないときは目をつぶってもいいし、耳を塞げばいいの」

 わたしは九賀くんの背中をさすりながら言った。

 「視なくて……いい?」

 「うん。自分が辛いときにまで他人に優しくならなくていいんだから」

 「葉山さんは、辛くないの?」

 「わたしはもう大丈夫なの。逃げてばっかりだから」

 「ありがとう」

 九賀くんはそう言って少しだけ、笑ってくれた。綺麗な形の目が反対の三日月みたいになって、すごく柔らかい笑顔だった。

 わたしは黙って首を横に振る。

 「こんな目見えなかったらいいってずっと思ってた。罰あたりだってわかってたけど、このままだったらいつか自分で失くしてしまってたかもしれない」

 「うん」

 「でも、葉山さんにも同じモノが視えてるんなら大丈夫な気がする」

 人と違うものが視えてるってわかった瞬間ってすごく孤独だった。どうしようにもないくらい一人で、こわかった。

 「今日、初めて思ったんだ。ああ、一人じゃなかったんだって」

 九賀くんの笑顔が揺らいで見える。

 不意にこみ上げてきた涙をわたしは乱暴に拭った。

 一人じゃなかった。たったそれだけの安堵がずっと欲しかった。九賀くんはわたしだった。その言葉を、ずっと言いたかったのはわたしも同じだったんだ。

 「葉山さん?」

 黙り込んだわたしの顔を九賀くんが心配そうに覗き込んだ。

 「何でもない、大丈夫。今、大丈夫になったから」

 「そっか」

 ねぇ、見てと九賀くんの指が天を指す。


 その延長線上に、透明な青空が見えた。

 

 


 「やっと、晴れたね」


 

 


 今なら、八重、九重に重なった雲の先にも晴れわたる空があると信じられる。

 わたしたちなら雨を超えてきっと、進める。

 

 

 

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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