五日目 血
柱時計が鐘を打ち、わたしは眠りの底から叩き出される。覚醒と同時に飛び込んできたのは青い空。澄み切った湖に、インクを溶かしたような蒼空が視界いっぱいに広がっている。その青はどこまでも深く、わたしの体が『ふわり』と持ち上がり、空に落下を始めたとしても、それが自然の摂理だと受け入れてしまいそうなほど清らかだ。空には雲も浮かんでいる。パテで塗り重ねたようにモクモクした雲が、子猫のように惰眠をむさぼっている。
そんな不自然なほど鮮やかな青天井に、ふと、違和感を覚える。空を飾る雲達が遠慮して生み出されたような、群青色の丸い穴。その中心から赤茶色の鎖が吊り下がっているのだ。錆びた鎖は、触れれば砕けそうなほど頼りなく、気まぐれな神が地獄に垂らす糸に似ていた。
でも、二つには明確な違いがある。蜘蛛の糸はきちんと地獄まで届いていたのに対し、鎖は床どころか二階のバルコニーより高い位置で途切れている。なんとまぁ、あからさまに救う気が無い。仮に、鎖が床に届いていたとしても、わたしにそれをよじ登る体力なんてないので、どちらにせよ同じではあるのだが。
茎を左右に振って、頭から余計な思考を追い出す。再び、空に意識を集中させると、新しい違和感を見つけた。雲が、最も美しい瞬間を切り取られた風景画のように空に張りついて、じっと動かないのだ。あれほど雄大に思えた空も、何かを放り投げれば届きそうなくらい、低いところにある気がする。
それに、こんなに空が青いのに、どれだけ視線を巡らせても太陽の輝きが見つからない。絞った焦点を緩め、俯瞰して眺めてみる。空はコンパスで引いたように几帳面な円形をしていた。そして、地球平面説の世界みたいに端があった。そこで気づく。これは絵だ。玄関ホールの天井画だ。
ゆっくり視線を降ろしていくと、灰色の窓、バルコニーの柵、階段のレッドカーペット、そして柱時計の文字盤が視界に入る。時計の針は十一時を指していた。『なんと、一時間巻き戻った!』わけはなく、きっと十一時間も寝てたんだろう。いくら疲れていたとはいえ、眠り過ぎだと思う。
さらに茎を持ち上げると、わたしが寝転がるソファーの向かいに、首が座っているのを見つけた。頭を失った体が胸をそらせて、どっしり腰掛けている。異様な光景に、視線が釘づけになる。おとなしく顔を背ければいいのに、切断面を覗いてしまう。
筋肉も、繊維も、甲状腺も、まとめて刷毛ハケで塗りたくるように血で染められ、その液面には赤黒い泡がザクロの種のように集まって浮かんでいる。切り口は滑らかだが、脊椎だけは上手に切り落とせなかったらしく、白い骨が浸食された岩のように、血の海から飛び出していた。
気持ち悪くなったので視線を下げる。出血はすでに止まっているが、『それ』が着る青色のジャージには系統樹を逆さに吊したような図形が、生々しい血のインクで描かれていた。流血の跡は何度も分岐を繰り返し、ソファーの黒革に禍々しい血溜まりを作る。その膨大な量のせいか、血はまだ乾き切っていない。
胴体が座るソファーの隣席には、苦悶の表情を浮かべた馬の頭が乗っている。頭だけ。首から下はない。わたしの頭のなかで、それらのパーツが『カチッ』と音を立てて組み合わさる。たった2ピースのジグソーパズル。わざわざ解こうと意識しなくても、勝手に完成してしまう。
わたしは叫んだ。体が裂けるかと思うくらいに絶叫した。助けを求める悲鳴ではない。怨嗟の悲鳴でもないし、恐怖の悲鳴でもない。ただ、叫ぶ。そうして感情を吐き出さないと、名前のない黒い感情がわたしの心を壊してしまうから。
「おはよう、ユリちゃん。起きたんだ」
陰惨な場面にそぐわない、日常の挨拶が降ってきて、叫ぶのをやめる。茎を捻ると、ティーポットが階段を降りてくるところだった。彼女のエプロンドレスには、真っ赤な血が咲いている。
「なにがあったの!」尋常ではない血の量だ。しかし、彼女は貧血でふらつく様子もなく、しっかりした足取りで階段を下る。数段とばして床に着地すると、スカートの裾が『ふわり』と花弁のように広がった。
「ワタシのこと、心配してくれるの?嬉しい。でも、大丈夫だよ」
服だけではない。ガラスの頭、磁器のような腕、黒い靴下、……。彼女の至るところが血まみれで、まったく大丈夫そうには見えない。『血を止めないと……』と言いかけて、ふっと疑問が湧いた。わたし達に『血』なんて流れていたっけ。
「ユリちゃん、ワタシ達の体の中がどんな風になのか、気なってたよね。ワタシの体にはダージリンティーが流れてるんだ。だから、これはワタシの『血』じゃないの」ティーポットの端正な指が、鼻と口から血を流した馬マスクの生首に向く。
「返り血なんだ。コイツのね」
今ごろ気づいた。彼女の手に握られたカッターナイフと金槌。どちらも、血で濡れている。
「どういうことなの……。ティーポットちゃんが、みんなを壊したの……?」どんな返事を期待して、訊いたのだろう。この館に残っているモノは二体だけ。とっくに答え合わせは終わっているのに。
「うん、そうだよ」
答える彼女の声音はどこか自慢げで、無垢な子供が潰した虫を見せびらかすように無邪気だった。わたしの頭の中で、彼女が『ちょっと距離感のおかしいメイド』から、『理解できないモノ』へと変わる。逃げなきゃ。離れなきゃ。立ち上がろうとするが、呪いをかけられたように体が動かない。
「そんな体で、逃げられるわけないでしょ」
足が竦んだわけではない。そもそも、脚が存在していなかったのだ。わたしの両足は太腿から先が消失していて、ついでに左腕もなくなっていた。ティーポットが迫る。カッターナイフの刃が押し出される。わたしは最後に残った四肢である右腕を、がむしゃらに振り回す。
「まったくもう……、暴れたらだめだよ」ティーポットは愛玩動物を抱き上げるようにヒョイと、わたしの体を持ち上げ、テーブルの上に載せる。『わたしって、こんなに軽かったっけ』と思いかけるが、切り落とされた手足の分だけ体重が減っていることを思い出す。
「じゃあ、続きをするね」ティーポットはわたしが着るカッターシャツの袖を肩まで捲ると、カッターナイフの冷たい刃を、わたしの華奢な二の腕に押し当てる。
「続き……?」
「痛いだろうけど、我慢してね」
「なにするの……、いや……、やめてっ!」
刃がわたしの肌を滑る。焼けるような痛みが走って、表皮が裂ける。刃がわたしの腕に沈んでいく。維管束が切れ、トクトクと透明な汁が溢れ出す。わたしは悲鳴にならない悲鳴を上げた。たった一本残った腕を懸命に振り、全身を力一杯くねらせた。
「暴れないで。痛みが長引くだけだよ」刃はさらに深く沈んでいくと、まず指が動かなくなった。次に手首が動かなくなり、とうとうヒジを曲げることすらできなくなる。
「やめて……、やめてよ……」
「ごめんね……。痛いよね。ホントはユリちゃんが寝てる間に終わらせたかったんだけど、馬マスクの解体に手間取っちゃってさ。でももう、これで終わりだから、もうちょっと我慢してね」
皮一枚で繋がった『わたし』の腕が、とうとう千切れた。ティーポットは捥ぎたて新鮮なわたしの右腕を、テーブルに転がす。切断面がこっちを向いた。丸く並んだ維管束は、身の毛がよだつほどグロテスクだった。
「ユリちゃんは『骨』がないから切りやすくて助かるよ」ティーポットは手術が終わった医者のように一息つくと、活躍の機会がなかった金槌をポケットに仕舞う。
「返して、返してよ!」
「それって、どっちの話?ユリちゃんの腕の話?それともこの館の住人の命の話?」彼女は右手にカッターナイフを、左手に馬マスクの頭を持った。
「どっちもに、決まってるでしょ!」わたしの叫びはホールに何回も反響する。跳ね返って、跳ね返って声が窓から出ていくころには、わたしは不思議と開き直った気持ちになっていた。
「わたしも壊すの?そんなに壊したいなら、早く壊せば?」できるだけ冷たくに聞こえるように、言葉を吐いた。どうせあと三ヶ月くらいの命。捨てても惜しくはない。ならば、できるだけかっこよく、儚く散りたい。
…………。
…………。
やっぱり命は惜しい。枯れたくない。壊れるのはイヤだ。
「心配しないで、ワタシがユリちゃんを壊すわけないじゃん」ティーポットは『?』というように、首をかしげると、ポケットから癒合剤を取り出した。たっぷりと薬液を絞り出して、腕の切断面に塗りたくる。
「ほんとに意味がわかんない!なんで、こんな酷いことするの!どうして、みんなを壊したりしたの!」
ティーポットは馬マスクの頭を乱暴に掴んで、空き缶でも捨てるみたいに放る。そして、スカートがが血で濡れることも気にせず、ソファーに腰をおろした。テーブルに両肘を乗せ、その手のひらに顔を乗せる。ガラス製の顔を『くるり』とまわして、注ぎ口をわたしに向けた。
「知りたい?知りたい?いいよ。ユリちゃんには、ぜんぶ、ぜーんぶ話すつもりだったからね。ワタシのこと、教えてあげる」そう言って、彼女は語り始めた。いまから罪の告白を始めるのだとは思えない、楽しげな口調で。




